十余二の中心部は柏の葉という地名に変わりました。地名が変わっただけでなく
13ある小金牧の開拓(開墾)地の中で、おそらく一番数奇な変遷を繰り返したのが、十余二(とよふた)だと思います。ま、自分が中学生の頃からここの変遷をこの目で見てきているので、そう感じているだけかも知れませんが。書くべき記事が滞っているので、簡単に書こうとしたら・・・結構な長文になってしまいました(^^;)
※TX柏の葉キャンパス駅&ららぽーと柏の葉は、柏市若柴の住所になります。
一番紛らわしいのは...
住所:柏市柏の葉にあるのが⇒十余二小
住所:柏市十余二にあるのが⇒柏の葉小
さて、若柴交差点から守谷街道沿い流山方面に進み、TXの陸橋をくぐると・・・
以前コンビニ、現在サイクルベースあさひの脇に、ひっそり佇む厳島神社があります。そこに高田原開拓碑(=高田台牧開拓碑)があり、その碑に書かれている内容を少しわかりやすく書き直します。
この地はもともと高田台牧だった。
明治2年より入植して開拓したんだ。
その時、初期入植者は自作農(土地が自分のもの)になる筈だった。
なのに、約束と違い大隈や鍋嶋などの所有になって80年ほどになった。
そして、昭和22年から始まった農地改革によって、初志貫徹が実り
ようやく入植者の所有となった。
高田台牧に限らず小金牧の開拓は、明治新政府が窮民や職を失った旧幕臣を救済すべく、始めた事業でした。この事業は、三井組(現三井物産・三井不動産)が開墾社として取り仕切りました。
なんで三井なの?
三井は官軍(明治新政府)に戦費資金を貸していたから、それ返してもらわないとね。
開墾事業で、またお金かかるのでは?
最初は「開拓したら自分の土地になるよ♪」と言ったけど。
でも開拓したら「ここは、三井組の土地、あなたは小作人」
っていうか、地主は大隈様や鍋島様ですよ。
...と。三井組代理人で農民出身の現場監督官、市岡晋一郎。
なんで大隈重信が出てくるの?
そりゃ大隈・鍋島は、新政府の肥前(佐賀県)だし、三井組としたら直接恨みを買うより、名義をそちらにしていた方が万事うまくいくでしょ?逆に三井組としたら、そういう密約を取り付けなければ、この事業に参画できなかったのかも知れませんが。結局、開墾した719町のうち714町を三井組が取るといった結果になりました。
ざけんな!開拓民代表の石塚与兵エ(衛)は、約束違反だぁ!と法廷闘争しますが、なにせ訴訟相手は新政府重鎮の大隈重信。大隈は2度も総理大臣になりましたから、原告敗訴の連続で裁判やったって勝ってこない。
それから80年近くたち、日本が太平洋戦争に負けて進駐軍(GHQ)統治となり、財閥解体・農地改革が断行され、ようやく初期入植たちが開拓した土地を自分のものに出来た。めでたし、めでたし。
・・・で。終わるなら数奇な変遷とタイトルをつけません。
十余二開拓地はそれからも、数奇な変遷が続きました。
一旦、時間を戻しますが・・・
昭和になってから、十余二に陸軍の飛行場(柏飛行場)が建設されます。
右端に読める「秋水」とは日本初のロケット戦闘機。
5機が作られましたが、実戦配備されることなく終戦を迎えました。
現在でもそのロケット燃料庫は残っています。
三井組の市岡晋一郎は教育熱心な一面もあり、開拓民や付近の子女のために学費免除の私立三井尋常小学校を十余二に開校させます。私立三井尋常小学校は、明治31年に村立十余二尋常小学校に引き継がれてましたが、その十余二尋常小学校も飛行場建設のために消滅します。
写真上 1947年(昭和22年) 写真下 1961年(昭和36年)
終戦後、柏飛行場(十余二)は食糧難と戦地引揚者救済のために再び入植者を受け入れます。下の写真には滑走路にそって人家が立ち、畑が整備されているように見受けられますが。現実は、1950年(昭和25年)から勃発した朝鮮戦争のため、米軍は再び柏飛行場の拡大接収をはじめ、結局ほとんどの開拓地は国に買収され、十余二開拓村は消滅します。
下写真の右に見えるゴルフ場は、1961年(昭和36年)に開場したばかりの三井不動産の柏ゴルフ倶楽部です。ゴルフ場のほとんどは、十余二でなく若柴になりますが、ここの地権者が元々三井不動産であったのか?開拓とは別に新たに買収をしたのか?そこらへんの経緯はよくわかりませんが、高田台牧=十余二が柏の葉として再生を果たすにあたり、三井が再び台頭してきます。
写真上 1984年(昭和59年) 写真下 2013年(平成25年)
さて、柏飛行場は1979年(昭和54年)に米軍から全面返還され、十余二は柏の葉として開発がはじまります。現在の道路が滑走路に沿っている事が見て取れる思います。
2013年(平成25年)の写真の下(南側)に整然とならんでいる、柏の葉1〜3丁目の住宅街は三井不動産による分譲です。また、右に見えていた柏ゴルフ倶楽部は2001年(平成13年)に閉鎖し、三井はここを潰して柏の葉キャンパス駅や、ららぽーと柏など造られ、柏の葉の開発は三井不動産が主導することになりました。
私が中学生(昭和46〜49年)の頃の柏飛行場は
ススキと葛が生い茂る荒れ地で、不法投棄のゴミが散乱するような場所でした。
所々に市岡晋一郎が推奨した桑の木が残り、そこにカラスが巣を作っていました。
格式ある柏ゴルフ倶楽部は、2度ほどプレーすることができました。
格式あるゴルフ場とは?
それは、運転手控え棟があるゴルフ場です。
やんごとなき方々は、我々庶民と違って自分で車を運転して、ゴルフ場に来ませんから(^^;)
柏ゴルフ倶楽部40年の歴史の中、政財界の重鎮がさぞかしここで様々な密約を交わしたんだろうなぁ、と思いに耽りながらプレーをした懐かしい思い出が...って、嘘です。
同伴プレー者に迷惑かけまいと、それだけしか頭にありませんでした(^^;)
現在、飛行場の北側だった部分は東大キャンパスになっています。来月10月24日(金)・25日(土)は、開かれた大学として、恒例の
東京大学柏キャンパス一般公開があります。
来週9月28日は、IPMUカブリ数物連携宇宙研究機構主催の
⇒
一般講演会「物質の科学と素粒子物理の深い関係」が
⇒
柏の葉カンファレンスセンター(三井ガーデンホテル2F)で
この写真の左側に再開された十余二小学校がありますが、その原点は私立三井尋常小学校を創設した三井組の市岡晋一郎。開拓民にとっては敵役となってしまった市岡ですが、教育熱心だった市岡はこのようなに変貌をとげた十余二をきっと草葉の陰で喜んでいるでしょう。
冒頭の高田原開拓碑は、道傍にひっそり、ほとんど気づかれぬ存在の石碑ですが、朝鮮戦争中の昭和29年に建立されています。
明治初期からの十余二開拓の初期入植者としては、歯を食いしばって開拓した土地が80年経ってようやく、自分たちの手に入ったかと思いきや、戦後新たな入植者が入ってきましたから、旧開拓民と新入植者の間には十余二の土地に対する温度差もあったようです。開拓碑に初期入植者と刻んでありますが、
ここ十余二を開拓したのは、我らである!と石塚与兵衛らの強い自負の念を感じます。
実は柏飛行場での不思議な体験を7年前に記事にしています⇒
【こちら】ここには、なにかしらフロンティア魂という量子が満ちている場だなぁ・・・と感じている私です。
出典:
歴史的農業環境閲覧システム(独立行政法人農業環境技術研究所)
出典:
地図・空中写真 (国土地理院)