渋谷109のモンテローザと那須高原レスランモア

昭和50年代の追憶

今から約30年前の昭和55年(1980年)
大学(美術部)の先輩が、渋谷109のモンテローザを紹介してくれました。

「時給600円のバイトあるけど、やる?」
「やります!やります!なんですかそれ?」
「渋谷109のレストランで皿洗いなんだけど」
「飯付きます?」
「賄い飯が食えるよ」
「是非、是非、やります!」


当時、それまでのバイトは時給450円くらいでしたから、600円は好条件です。
でも学生時代、私が飲食店のアルバイトにこだわったのが時給より飯付きです。
なにせ、一食、食費が浮く...これ長い学生生活ではとても重要な節約術です。
毎年夏に、那須高原のレストランに出稼ぎ先に行っていたのは3食付きだからでした。

渋谷109(2012年)

渋谷109は1979年(昭和54年)に開業したばかりで、当時はコギャルほとんど見ることがなく、ターゲット客層は20〜30代のOL層だったように記憶しています。いずれにしても私には興味がないので、109は通用口からバイト先のイタリアンレストラン「モンテ・ローザ」の往復ばかりで、その他の109店内の記憶は全くありません(苦笑)

最初の2ヶ月だけ皿洗いでしたが、店がどうにも忙しく繁盛して、ホールの人間が足りません。
元々私は飲食店のバイトが多く、料理皿を片手に4枚乗せる事は既に出来ていましたので、急遽皿洗いからホールに回るようになりました。

「モンテ・ローザ」は、やがて東急東横店の1階・ハチ公前に喫茶店をオープンさせて、そのオープン時のホールスタッフになりました。これらのアルバイトは東急との直接契約ではなく、私はある配膳会(ホテルや宴会場に配膳人=ウェイターを派遣する会社)に所属していました。

なので、自分の空き時間を連絡しておけばいつでも派遣要請があり。
昭和55年にオープンしたホテルセンチュリーハイアット(新宿)の他、都内各所のホテルの宴会や結婚式に、ウェイターとしてアルバイトしていました。有名芸能人の結婚式などは、先輩(ベテラン)ウェイターに招集がかかりますので、私は某女子プロレスラーの結婚式くらいしか記憶にありませんがf(^、^; また、年末年始の宴会は特別手当が出るので、大晦日や正月は稼ぎ時でした。

大学4年の後期、教育実習も終わり
1982年(昭和57年)には、時給800円くらいになっていて。授業も少ないのでフルにアルバイトができた月の収入は28万円くらいになっていました。そんな時は、自分が学生でありながらも三男(弟)の学費の為に、家に仕送りが出来ました。

また、晩酌の習慣もなく、ほとんど下戸に近い私ですがf(^、^;
当時学生でありながら仕事(アルバイト)終わりに、渋谷センター街の奥にある「門」に週一ペースで通って、一杯ひっかけながらバーデンダーさんとの会話を楽しみにしていました。

そうそう、夏休みの栃木県那須高原での住込みアルバイトも5年(回)続けましたが
ある晩の閉店間際(23時頃)に、お客様が

「ごちそうさま。じゃ、タクシー呼んで」
「かしこまりました。どちらまですか?」
「うん、六本木まで」
「あの...どちらの六本木ですか?」
「東京港区の六本木」


折しも1979年(昭和54年)にエズラ・ヴォーゲル著のジャパン・アズ・ナンバーワン[Japan as Number One]が出版され。もしかしたら日本は世界第1位の経済大国になるかも?「日本の驚異的な経済発展をアメリカの鏡にせよ」と言われた時代で、誰もが時給も月料も右肩上がりに伸びていくものだと信じていました。

次記事は、「失われた30年」...ってタイトルにする予定です^^;

2006年5月21日筆...2012年8月28日加筆

2012年08月28日

posted by たすけ at 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷ハチ公前のモンテローザ

昭和50年代の追憶

先日、久しぶりに渋谷に行って、渋谷ハチ公前のモンテローザを思い出し。
そこでハチ公の向きの違いに気づいた訳なのですが^^;

昭和のハチ公

私がまだ学生だった30数年前は、ハチ公は東急東横店に背を向けていました。
ハチ公前には噴水があって、六大学や東都大学で優勝が決まると、優勝校の学生はハチ公に跨り校歌や応援歌を歌い、ハチ公前の噴水にダイブしていました。母校が優勝した時も、うちの部員(美術部)が噴水にダイブして、ノズルで額を割って噴水の水を赤く染め、部長が交番で始末書を描かされたことがありましたっけ。そんな事は結構あったようで、大学野球の決勝戦の日はいつまにか、噴水の水が抜かれているようになりました(苦笑)

東急東横店(2012年)

学生時代最後アルバイトは、そんなハチ公前にあった東急東横店1階に開店したばかりの「モンテローザという喫茶店」でした。店は、ハチ公のすぐ裏側(当時は背中側)で、待ち合わせ場所のメッカでしたので、めちゃくちゃ忙しかったです。

コーヒーは、当時では珍しい自動抽出機でしたで、注文から3分も立たずに出すのですが、その間に全面ガラス越しで待ち人をハチ公側に発見すると、代金だけ払って店を出るお客も少なくありませんでした。
しかし、特に金・土の夕刻になると、全面ガラス越しに見えるハチ公前はラッシュアワーの電車内のごとく人、人、人、だらけでほとんど頭しか見えませんでした。

店内は1Fですが、ステップ3段くらい上がるのでハチ公広場より目線が高く、また暗くなると店内がまる見えになるで、ハチ公側から店内に待ち人を探す、目目目(笑)
また、あきらかに人探し為だけにオーダーをせずに店内に入ってくる人も多かったです。

夜11時の閉店の際、大きなシャッターを電動で下ろすのですが、ガラスに背をつけて座り込む若者や、酔って寝てしまっているおじさんたちをシャッターの下りる位置からどいてもらうのが、これまた大変でした。

それは、どんなに起きなくても、決して身体に触ってはいけないというルールです。
親切心で酔った人を介抱してあげても、いざ財布がないと言い出した時に、あらぬ疑いをかけられぬようにするためです。都会のルールの厳しさでしたねぇ...

ゆっくりくつろぐような店ではなかったので、いわゆる常連のお客さんはあまりいませんでしたが、強いて言えば宝くじ売り場のおばちゃんおねえさん達だったかなー。
休憩&トイレに利用されていたけど、我々も時々宝くじを店内で購入させてもらっていました^^;

おねえさんと言えば...
ほぼ毎日のように1人で来店して、いつもきわどいファッション(身体の線が見えるような)のアジア系のおねえさんがいました。

注文以外、ほとんど会話したことはありませんでしたが、いつもニコニコ笑みをたたえていました。しばらくしてから先輩アルイバイターに、あの人はコールガール(売春婦)だと聞かされて、そういえばたまに同席する男性は、みなギトギトしたお金持ち風なおじさまばかりだった。

もう1つ、おねえさんネタで言うと...
早番をしているとデパートの化粧品売り場のマネキンのおねえさん方が来店します。
そんなマネキンさんのうちの1人が、先輩アルバイターの彼女だったのですが・・・

ある朝、早番シフトの時に、その女性から「おはよう!」と挨拶されたのですが。
まだ戦闘モードでないほとんどスッピンだったので、誰だかさっぱりわからず^^;
化粧の凄さというか・・・プロの技術というか・・・
ま〜いろんな意味で驚きました^^;

そんな早番の時間帯でTVのロケ隊などもよく来店していました。
店内に大きなロケ機材を置かれるのでウエイター泣かせだった。

いわゆる芸能人もたくさん来店しましたが、この記事の流れで挙げると・・・当時まだ高校生だった、女優の杉田かおるが一人で来店した時。

席の前を通過する度に...「あ!すみません。これ下さい」
と、次々に追加注文をするものだから、テーブルの上に、ほんの一口しか手をつけない、ドリンクやパフェやケーキやサンドイッチが埋まっていったことが印象に残っています。でも、決してタカビーな印象ではなく...ニキビの多い、田舎から出てきたおとなしい女の子って...雰囲気を出していたんですけど、それもある意味女優していたのかしら?(^、^;

男性客で記憶に鮮明なのは..
国○舘大学の空手部が団体で来店して、店内の半分が黒い学生服で埋まりました。
オーダーはなんと全員同じで「チョコレートパフェ30数個!!」

食べ終わった下級生達が先輩達に、「押忍!美味でありました!!」
とデカイ声で連呼して、他のお客さんたちが失笑していたっけなーf(^、^;

ま、とにかくここでバイトさせてもらった2年間...
いろんな人間観察ができて面白かったですf(^、^;

moyaizou.jpg

ハチ公前の待ち合わせは大変込み合うので、東急東横店の反対側にまわれば、モヤイ像がありますが、実はこのモヤイ像。私が十条でお世話になったマスターや友人達が新島から抗火石を持って来て彫ったものです。
完成当時1980年(昭和55年)は真っ白できれいだったのですが、今では排気ガスですっかり黒くなってしまいました。

...次記事は
このハチ公前のモンテローザでアルバイトするようになったキッカケの追憶です。

2006年5月20日筆...2012年8月27日加筆

2012年08月27日

posted by たすけ at 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水もれ甲介とカースケ

昭和50年代の追憶

TVドラマや漫画の追憶

今やコースケと云えば、水泳の北島康介ですが、水もれ甲介と云えば俳優の故.石立鉄男。
石立鉄男さん(以下敬称略)は、岡崎友紀と共演した「おくさまは18歳」で一躍有名になり・・・
、杉田かおると共演した「パパと呼ばないで」で石立鉄男人気は不動のものとなりました。

水もれ甲介(役名:三ッ森甲介)は、日テレ系の日曜夜8時の番組ですが。
1975年(昭和50)前後の日テレの日曜夜8時のドラマを時系列に並べると

昭和49年春〜昭和49年秋・・・「われら青春!」主演:中村雅俊(初主演)
昭和49年秋〜昭和50年春・・・「水もれ甲介」 主演:石立鉄男
昭和50年春〜昭和50年秋・・・「おふくろさん」主演:石立鉄男
昭和50年秋〜昭和51年秋・・・「俺たちの旅」 主演:中村雅俊

俺たちの旅(役名:津村浩介)では、中村雅俊のニックネームはコースケではなく、カースケ(すぐカッとなるから)でした。実生活の上では、どうやらカースケは石立鉄男の方で、共演者と殴り合い、突然外国に行ってしまったという設定でドラマを降板した事件もあるようです。

まともかく、現在50歳前後の世代にとって
コースケ=石立鉄男。カースケ=中村雅俊。
とすぐに連想できるのだろうと思います。

コースケとカースケの共通点は、くせ毛のボサボサ長髪で
昭和50年前後はこうした髪型をした若者が多かったです。
...って、かくいう私のその一人でしたf(^、^;

水もれ甲介とカースケ

写真はトムボーイ十条店の店内ですが、この時はすでにトムボーイのバイトと叔母の店(スナック)のバーテンのバイトを掛け持ちしており、少しでも年上に見られたくて、口ひげまで生やしています。...が、元々髭が薄いので、どんなに伸ばしも写真中の石立鉄男のような生え方にしかなりませんでした(苦笑)

枕が長くなりました...
今記事は、当時十条のバイト仲間からカースケと呼ばれていた私が、水もれ甲介と呼ばれる事件があったという追憶です。

大学に復学できたのは、本来長男である私が継がなければならない家業を・・・
「兄貴、教師になりたいんだろ?大学に行けよ。」と言ってくれた次男のお陰です。

そんな訳で家を出て...
復学時(前期の授業料)は世田谷の叔母に借り、住まいは十条の叔母の経営するスナックの2階(当時は衣装部屋)に下宿することで、所持金3万円で十条での暮らしが始まりました。
先ずは、生計を立てなきゃいけないので、大学のカリキュラムよりバイトのシフトが優先でした。十条ではトムボーイや叔母のスナック以外にもいくつかバイトを掛け持ちしていましたが、ある時・・・

「すみません、今度の試験は合格点とらないとマズイので休ませてください。」
「え?アンタ学生だったの?」


...と。バイト先の居酒屋のマスターに驚かれた事がありました。
そう言えば、十条でのアルバイトは履歴書を書いた記憶がない。

「ちょっとさ、人手がいるんだよな」
「そうなの?じゃ誰々を紹介するよ」


みたいな...ほとんど人づての紹介でアルバイトが決まったり、昨日まで客だった人が、今日来たら店員になっていたり。そんな風で、十条の飲食店はみんな顔見知りで成り立っていたように思います。

ま、とにかく学業より稼ぐことが最優先事項でしたが、『苦学したとか計画的に貯金したか?』と言えばそうでもありませんでした^^; 十条仲間や後の渋谷モンテローザ仲間とも麻雀はよくしたし、美術部の合宿もバイトの日程と重ならなかった時に2回参加できましたし、充実した学生生活でした。

奨学金をもらっていたし、何より学費が安い大学だったので(たぶん前期12万 後期15万)
毎年春休みと夏休みは、昼夜掛け持ちバイトや住込み出稼ぎに出れば、前後期の授業料もなんとかなりました。

ただ当時いつも決まって見る夢は、大学を卒業できなかった夢で。
それなりのプレッシャーや『自分だけこんな楽しい学生生活を送っていていいのだろうか?』
という自責の念もあったのかもしれません。

そんなアルバイト最優先の学生生活を送っている中・・・
ある時、下宿(スナックの2階)が断水となり、朝台所の蛇口をひねったまま閉めるの忘れて大学に行き、その日は帰らず。翌日夕刻に下宿に戻ったら、階下のスナックが大騒ぎになっています。

「あれ?叔母さん、どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ!見てみなさい!ホラ!」


うわっ!(@@;)地面より階段3つほど半地下になっているスナックの床は、くるぶしより上に水が溜り、壁は水で剥がれ、ボトルのラベルもほとんど剥がれています。急いで階段を上がって部屋を見ると、台所は水浸しで畳もすべて、水を吸って膨らんでいます。

蛇口はシンクからはみ出ませんが、蛇口を全開にひねったままにしていた為、強い水圧で弾きこぼれた水が、36時間以上2階で溜り、それが1階に滴り落ちていったようです。その夜は当然スナックは臨時休業です。

翌朝から私は店のドアと窓を開け放し、2階から下ろした畳を道路に出して乾かす守番です。人手が要るので、十条のトムボーイ仲間がやってきて色々手伝ってくれて、そして途方にくれる私を慰めてくれましたが・・・

もう、オチは先に書いておきました
今でも十条トムボーイ仲間で集まり酒が進んでくると

「あれ?キミ誰っだっけ?」
「カースケ...じゃないよなぁ?」
「あ!そうそう、水もれコースケだった!」
(一同爆笑)



先日、ふと懐かしい十条に立ち寄ってきました。

昭和のホームドラマで東京下町の定番が・・・
銭湯に定食屋に一杯呑み屋
私の実録ドラマでは
十条銀座商店街の裏にあった「銀座湯」は、すでに自転車置場になっていて・・・
いつもおかずをサービスしてくれた線路脇の定食屋「トキワ食堂」は別な呑み屋に・・・。
でも、晴れてオトナになった記念に仲間に祝杯を上げてもらった斎藤酒場だけは、当時のままでした。嬉しかった・・・と。日記(Blog)には書いておこう!(笑)



PS.そうそう、水もれ事件で忘れ得ぬ思い出がもうひとつ。

世話になっている叔母に大迷惑をかけてどうしよう・・・と。
自分では気づかなかったのですが、やはり相当気落ちしたようで
大学の中国語の先生(日本人)が授業が終わってから

「どうかしたのか?」
「斯く斯く然々で・・・」
「そうか、まぁいつまでもクヨクヨしてもしょうがない」
「そのうち、私もキミのその店に行くから」


店の名前と場所は告げましたが...
『そのうちとお化けは出た例がない』...
と思っていました。

水もれした店の床・壁・天井を全てリフォームし
新装開店のようになった叔母の店(スナック)も
そろそろ看板を消そうかという時刻になった時

「よぉ!」
「えっ!?(@@;)ホントに来た!」


・・・今でもはっきり覚えています。
こうもり傘に長靴姿の先生がドアを開けるなり
千鳥足でよろけながらの第一声でした。

ビール2本開けて、もう看板です。

「さぁ!行こうか!」
「えっ!?どこへ行くんですか?」


先生は東京外語大出身で、先生にとっては王子や赤羽界隈が
「俺たちの旅的街」だったようで・・・
それから、先生と二人で赤羽の飲屋街に繰り出しました。

約5年間を過ごした十条の街は、私にとって
そんな甘酢っぱい数々の思い出がある街ですf(^、^;

2012年08月26日

posted by たすけ at 09:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

赤羽線十条駅前のトムボーイ / TOMBOY.106

昭和50年代の追憶

TOMBOY=おてんば娘 の意味です。
大学1年生の最初のバイトは、渋谷公園通りのフライドチキン屋でしたが。
昭和54年(1979年)に復学して2度目1年生のバイトは赤羽線十条駅前の喫茶店トムボーイから始まりました。

埼京線十条駅前のトムボーイ

今じゃ国鉄って言わないし、赤羽線も埼京線になってしまいましたが、つい赤羽線十条駅と言ってしまいますf(^、^;
トムボーイ自体も今では、十条本店の他、池袋や渋谷にも支店を持つ、トムボーイカフェとなりました。

昭和のトムボーイは、東十条駅前に本店(今はコンビニ)があり、十条駅前が支店でした。
私がバイトした当時、十条支店は東京家政大学と東京成徳短期大学の女子大生と地元の若者で客の9割を占めていました。なので、十条支店は大学が夏休みになると、店も長期夏休み休業となり、バイト仲間はサーファーが多かったので、新島や神津島の海の家(アクセサリーショップ)に出稼ぎに行きました。私はサーファーではなかったので、毎年夏休みは那須高原のレストランに住み込みアルバイトの出稼ぎに行ってました。

実は、トムボーイのマスターはデザイン芸術家であり、喫茶店の他に看板やディスプレイ・宝飾等の企画の会社も経営していて、新島や神津島や海の家で販売するアクセサリー製作も仕事の一貫でした。そんな縁もあり、新島産の抗火石で造った渋谷駅前にある「モヤイ像」はトムボーイのマスターと当時の仲間が彫ったものです。

トムボーイカフェ(十条店)

昨年2011年の秋に十条店は改装し、エントランスはすっかり変わってしまいましたが、モヤイ像を造る以前に、当時の仲間みんなで取り付けた店内のエジプト風の抗火石壁画は当時のままです。

私が十条支店でバイトを始めた当初は営業時間も午前0時までだったので、支店のバイトだけでなんとか生活ができていたのですが、後に営業時間が短縮され、東十条本店(午前2時まで営業)のシフトに入れてもらったりしていました。それでも生活費を稼ぐには時間数が足りず、やがて十条106から、渋谷109でのバイトに変わりました。

でもバイト先が変わっても、互いのアパートや下宿先を行き来して、トムボーイ仲間とは銭湯に通ったり、酒を酌み交わしたり、麻雀をしたり。赤羽線十条駅界隈は、学生時代一番多くの時間を共に暮らした「俺たちの旅的仲間」のとても懐かしい街です。

トムボーイ01

当時のバイト仲間は、ほぼ全員仕送り無しで自活する夜間大学・専門学生で、たいてい愛称がついていました。この写真は誰の部屋か思い出せないけれど...
当時の十条仲間のツチヤ・ジミー・カースケ・あんちゃん・万吉で。紅一点のイクちゃん?
が作ってくれた食事をご馳走になっているシーンですf(^、^;

2006年5月22日筆...2012年8月24日加筆

2012年08月24日

posted by たすけ at 21:49 | Comment(4) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷区公園通り / ゴールデンスキリット・フライドチキン

昭和50年代の追憶

自転車でシルクロードを横断し「世界を見ずして世界を語れるくぁ!!」の桑原青年の行動力と言葉に圧倒され、何も書けなくなってしまったので...しばらく私の20代頃の追憶記事の書き直しをしながら、頭を冷やそうと思いますf(^、^;

IENA SLOBE ゴールデンスキリットフライドチキン渋谷公園通リ店のあった場所

私の学生時代の最初のバイトは、1978年(昭和53)に渋谷公園通りの「たばこと塩の博物館」に隣接している【ゴールデンスキリットフライドチキン】でのアルバイトでした。2012年現在、ゴールデンスキリット・フライドチキン渋谷店があった場所は「IENA SLOBE」というブティックになっています。

家の事情で大学を休学した為、わずか半年ほどのアルバイトでしたが、まだ真新しい公園通り(昭和47年パルコの開店を機に、区役所通りから渋谷公園通りに)では、バイトに向かう途中でよく、ファッション雑誌の撮影やドラマのロケ隊と遭遇し、あぁ〜絵になる街だなぁと、この街で働いていることが何故か誇らしく感じられて嬉しかったなぁ。

バイト店のはす向かいには、東武ホテルがやパルコ劇場があり、また坂のすぐ上にはNHKホールや渋谷公会堂があったので、いわゆるギョーカイ人の常連客も多かったです。当時からファンだった中島みゆきさんも、何度となく来店しましたが、いつもテイクアウト専門でした。
地方(田舎)の道端で突然芸能人とかを見かければ驚きもしますし、店にサインでも飾りますが、一般のお客様も芸能人も、わけ隔てないごく普通の接客応対でした。そういう流儀が、当時の公園通りに店を構えているスタイタスだったのかなぁ。

ゴールデンスキリット・フライドチキンは、当時都内には、ここ渋谷公園通り店と港区大門店の2店しかなかったように記憶しています。その後あまり時間をおかず閉店してしまったので、この店の当時のバイト仲間とは音信は全くありません。
印象に残っているは、恰幅の良いマネージャーさんの独特な「イ〜ラッシャイマセェ〜」という言葉と多古町出身の女子大生の純情で爽やかな笑顔とチーズ薄切り競争かな?(^^;)

そんなチーズ薄切り競争をしたバイト仲間は、場所柄、青学の学生が多く、ある日バイト仲間がレコードを数枚もってきて「これ、うちの学バンのデビューシングルなんだよ」と見せてくれたのが、サザンオールスターズの「勝手にシンドバット」でした。

その後大学に復学し、北区十条駅前の
http://sazaepc-tasuke.seesaa.net/article/12878205.html
喫茶店【トム・ボーイ】のバイトに変わりましたが、その喫茶店においてあった、ジュークボックスで一番選曲されていた曲が「いとしのエリー」でした。
「勝手にシンドバット」と「いとしのエリー」の2つの曲が流れてくると、私の瞼には当時の渋谷区公園通りと北区十条駅前の風景が浮かんできます。

2006年5月4日筆...2012年8月22日加筆

2012年08月23日

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私の声が聞こえますか / EAST ASIA

昭和50年代の追憶

私の声が聞こえますか...って。この記事は6年前(2006年)に、TVで「激闘大家族、青木家完全密着」という特番があり。その長女あざみちゃんから、ふと中島みゆきのファーストアルバム【私の声が聞こえますか】の思い出を書いた記事でした。

私の声が聞こえますか(中島みゆきファーストアルバム)

中島みゆき(昭和51年).あぶな坂を越えたところに あたしは 住んでいる
坂を越えてくる人たちは みんな けがをしてくる


この詞ですぐに中島みゆきだ!
と浮かんだなら生粋のみゆきファンでしょうね♪

昭和50年(1975年)に発売された「時代」が中島みゆきのデビュー曲だと思っている人が多いようですが、「時代」はセカンドシングルで中島みゆきのレコードデビュー曲は「アザミ嬢のララバイ」です。

翌、昭和51年(1976年)私が高3の春にファーストアルバムが発売されました。
そのアルバムタイトルが【私の声が聞こえますか】


【私の声が聞こえますか】のA面の出だしが「あぶな坂」で、最後が「アザミ嬢のララバイ」。
B面のエンディングが「時代」でした。

当時、先輩にダビングしてもらったアルバムのカセットテープを押すと、真っ先に 「あぶな坂」が流れてきて、実はどの曲よりも私の耳に残っている曲です。

中島みゆきの歌はどちらかというと、暗いイメージの詩が多いです。
昭和55年(1980年)発売のアルバム名は【生きていてもいいですか】
しかも、出だしの曲は「うらみます」だし(^^;)

しかし、中島みゆきの詞の底流にあるのは応援歌だと思います。
泣きたいときには思いっきり泣け!とことんまで自分を悲しめ。
でも明日からは、はい上がってこい!立ち上がれ。....と。


-ここから追記分-

中島みゆきの「世情」は、昭和53年:私が20歳の年(1978年)に発売されたアルバム【愛していると云ってくれ】のエンディングの曲。
金八先生でも使われたそうですが、当時の私は学費&生活費の一切をセルフするためアルバイトに明け暮れていたので、その番組は見ていませんでした。

愛していると云ってくれ(中島みゆき).jpgシュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を 
見たがる者たちと 戦うため

世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている

包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる



34年前に、こんな歌詞を中島みゆきは書いていた訳ですが。

 中島みゆきが還暦を迎えた今年、2012年。
「再稼働反対の声が聞こえますか」「反日(抗日)運動の声が聞こえますか」
という「世情」になってしまいました。


19年前の1993年《最後の女神の意外な素顔》と題された中島みゆき&筑紫哲也の対談

【Part01】
中島:「たぶん私の場合は、時間の捉え方が、1年とか10年とかという数え方じゃないのかも。」

筑紫:「そういう人に(日々出来事が刻々変わる)ニュース番組のテーマ曲をお願いしちゃって
   大変申し訳ない。そういう点では、ふだんと違うものを作らなくっちゃという感じはあった?」

中島:「私に出来る事って言ったら
   たぶん、日々起こる事の、底に流れている事を見ることができることかな?と思います。
   人間の心の熱みたいなもの。そういうところから出来事は起こってくるんだという
   その大元のところの歌にしたいな...そういう願いで作りました。」

【Part02】
筑紫:「夜会はコンサートというよりは、ワンマンミュージカルみたいな・・・」

中島:「あくまでもこれは言葉を目指している実験劇場なので・・・」
   「言葉の得体の知れなさ..っていうところに魅入られています。」
   「一つの言葉が、いろんな条件で変わっていく。言葉そのものが問題なんじゃなくて。」
   「それをどういうつもり言おうとしたか?どういうつもりで聞こうとしたか?」
   「その意識が出会う時に、言霊(ことだま)っていうものが生まれていると思うので...」
   「見えなくて、届きそうで届かない言霊...」
   「それをなんとか掴まえようとすることにエネルギーをかけているような気がします。」

筑紫:「ただ、歌っていうのがすごいのは・・・。」
   「みゆきさんが伝えた言葉を受け取った側は、勝手に乱反射すると思います。」
   「作者が想像もしない方向に、てんでんばらばらに乱反射していると思うのですが。」

中島:「自分の歌は、鍋釜やザルや箒と同じように、実用品として役立てて頂けるのが夢です。」
   「それを使って、生きて行くのが便利になったり・・・」
   「何か気晴らしになったり、そういう事で使って頂ければ充分だと。」
   「私の作品は、実用品コーナーでお買い求めください(笑)っていう気持ちがあるんです。」


2012年の夏、日中・日韓で・・・・

うらみますうらみます あたしやさしくなんかないもの
うらみますいいやつだと 思われなくていいもの
うらみますうらみます あんたのこと死ぬまで


...でも。中島みゆき実用品コーナーのEAST ASIAには

EAST ASIA(中島みゆき).jpg大きな力にいつも従わされても
私の心は笑っている
こんな力だけで 心まで縛れはしない
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA

世界の場所を教える地図は
誰でも 自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて 地球は
くすくす笑いながら 回ってゆく
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA

  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA



2006年5月10日筆...2012年8月23日加筆

2012年08月22日

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1975年(昭和50年)の梅小路蒸気機関車館と京福電鉄(嵐電)

昭和50年代の追憶

梅小路蒸気機関車館1975年(昭和50年)

梅小路蒸気機関車館 京都府京都市下京区観喜寺町...1975年(昭和50年)
突然、SL(蒸気機関車)と高校の修学旅行の記事になりますが...

今日某所で特定非営利活動法人交通文化連盟の方と鉄道(SL)の話etcをしていたら
見慣れない制服の高校生たちが私に向けてビデオカメラを。
「こんなおじさん撮ってどうするの?」
「ところで、それはどこの高校の制服?」
「私たち、小金高校放送部(局)です♪」

あらま!?なんだ私の高校の後輩でした^^;
私の母校は一旦私服になったのですが、デザインが変わって制服が復活していたんですね
ということで、私がちょうど彼らと同じ年代だった1975年(昭和50年)の追憶...てな訳です(笑)

1975年(昭和50年)は、広島東洋カープが球団史上初のセ・リーグ優勝を果たし、パ・リーグ覇者の阪急ブレーブスと10月25日から11月2日にかけて日本シリーズを戦った年でした。それほど野球好きでもない私が何故覚えているかと言えば、ちょうどこの時期に高校の修学旅行があったのです。

1975年(昭和50年)の3月には山陽新幹線が岡山駅-博多駅間の営業運転を開始し、この年の千葉県立小金高校の修学旅行は、小郡駅(現新山口駅)まで新幹線で行き、バスに乗り換えて秋芳洞を見学後、湯田温泉泊。
2日目の広島原爆ドーム見学以降からは、クラス単位・グループ単位の自由行動で、指定の時間までに指定の集合場所や宿に戻ってくれば良い。
...という感じでした。(最終日と、いくつかの行く先は学年全体行動でしたが)ともあれ、広島駅に降り立った途端、広島市内は街中日本シリーズ一色だったことをよく憶えています。野球好きのグループは、チケットを入手し日本シリーズを観戦したんじゃないかな?

というのは、結局この年の日本シリーズは、阪急ブレーブスの4勝2分けでチャンピオンとなったのですが、タクシーに分乗して広島球場に向かったグループが
「広島は結局0勝でシリーズ終わるんじゃない?」
「阪急に勝てる筈ないじゃん!」

みたいなことを車内で笑いながら話していたら...
「料金はいらないからここで降りて、歩いて行け!」
と運転手さんを激怒させてしまい。...実際は広島弁で
「広島弁で怒られると迫力ありすぎ、ビビったよぉ」(>_<)
と、宿で話していたことを憶えているからです(笑)

さて、史跡好き&鉄道好きグループの一員だった私は、京都観光の最初の目玉は1972年(昭和47年)に開業した、梅小路蒸気機関車館でした。

D511写真1975年(昭和50年)

この画像を見て「おぉ!D51(デゴイチ)...しかもナメクジのD511!」
と瞬時に判断出来る方は、紛れもない鉄ちゃんですね(笑)
D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)
主に貨物輸送のために製造され、太平洋戦争中に大量生産され総数1,115両。
ディーゼル機関車・電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大数。
特に初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水暖め器を覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴で、その後の通常形ドームとの区別のため「半流形」と呼ばれ、その形状から「ナメクジ」の通称もある。
それにしても、蒸気機関車って、どうしてこんなに美しいんでしょう?
ハイテクの新幹線はカッコイイとは思うけど、美しいとは言い難い私です。
「なんでだろう?」
手作業で部品の一つ一つまで丁寧に磨き込まれた、モノへの愛情からかなぁ

京福電鉄 昭和50年モボ129(モボ121形)

京福電鉄(嵐電) 嵐山駅にてモボ129【モボ121形】...1975年(昭和50年)
京都市内観光もできるだけ京都市電を使ったように記憶しているのですが写真が見つかりません。
昭和50年は、京都市電も3系統程度は存続していたのですが、修学旅行の3年後の1978年(昭和53年)には全線廃止になってしまいましたねぇ(悲)

この記事を書くにあたって確認したら...
梅小路蒸気機関車館のD511も、京福電鉄モボ129も、1936年(昭和11年)頃に川崎車輌で製造されたほぼ同級生。ということは、この写真を撮った1975年(昭和50年)は、D511もモボ129も、39〜40歳のまだまだ働き盛りの年齢だったという事ですねぇ。

1975年(昭和50年)から36年経過した、今年2011年(平成23年)
D511は煙を出すことはなくなった(=静態保存)けど、今でも大切に保存されていて、京福電鉄のモボ129は解体されてしまったようです。

今日出会った小金高校放送部(局)の後輩達が、36年経って私と同じ年代になった時...
郷土の歴史遺産で、何が大切に保存され、何が解体されてしまっているのかなぁ...
どうぞ、郷土の文化活動や歴史遺産をしっかり記録しておいてくださいね♪

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2011年10月30日

posted by たすけ at 23:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

30年越しの富士山初登山 長野覺先生の思い出

昭和50年代の追憶

30年前の富士初登山...って。結局私が富士山に登ったのは1981年(昭和56)の1回だけなんですけどね^^; 長野覺先生とは、現日本山岳修験学会顧問で私の大学時代の恩師です。

長野覺ゼミ富士登山1981年
1981年_富士山初登頂

この写真は、長野先生の山頂到着をゼミ学生全員が万歳で迎えている写真なのですが、私ともう一人が先生をサポートする最後尾だった筈なのに、私も万歳で迎えているということは...
「先生!記念写真撮りますから、ちょっとだけそこに立っていてくださいませんか?」
...と。お願いしたに違いないと思います(笑)

かつて、家内と娘に「富士山は、一度も登らないバカ、二度登るバカ」なんだから、日本人なら一度は登らないとネ♪その練習にと娘が小学生の頃に日光登山を結婚記念日に家族3人で決行したのですが、天気は良かったし、紅葉もばっちりでせいぜい4時間程度の山歩きだったのですが...
「もう嫌っ!絶対、山なんか登らない!」...(-_-;)

ところがどういう訳だか、私が1981年(昭和56)に富士山に登ってから30年後の今日。
娘が大学の友人4人で、初の富士山登山に向かいました。う〜ん天候大丈夫かなぁ・・・

いわゆる「山ガール」ブームの影響なんでしょうが、山嫌いだった家内まで
娘の登山用品を買い揃えるから越谷レイクタウンのアウトレットに連れて行け!...と。
「これがいいわねぇ...いや、こっちがかわいいかもぉ〜♪」...って。
ったくぅ...なんで女は夫・父の誘いに乗らず、ブームに乗せられるのだ...(-_-;)

ま、という訳で、こちらの記事の続きで30年前のゼミ合宿(地理学教室)の回想なんですが、なにせ30年前なので、記憶がかなり曖昧です。

前日に勝沼の扇状地、忍野八海の湧水を視察していますので、登山口は山梨県側の吉田口。北口本宮冨士浅間神社からだったと思います。道中富士講や修験道について先生にご講義頂きながら登ったような...う〜ん違ったかなぁ。。。

1981_30年前の富士山山小屋

地理学ゼミの登山ですので目的は富士山頂にある気象庁富士山測候所(現在はNPO富士山測候所を活用する会が運用)の訪問です。なので、ご来光は8合目の山小屋だったのですが、写真でみる限りかなりの霧ですよねぇ...見えなかったのかな...。実は覚えている風景は、測候所内部とお鉢巡りで眼下に見えた富士五湖・甲府盆地と大砂走りくらいで、あんまり覚えていないんですよねぇ。

1981_長野覚先生と富士山に登る

山小屋を出る頃には天候は回復していたのですが、海側(静岡側)の景色の記憶が全く残っていません。そちらは雲が広がっていたのかも。
さて、長野覚先生は1928年生れでいらっしゃったので私とちょうど30歳違い。そう考えるとこの写真に写っている先生は、今の私の年齢(53歳)だったんですね。

先生へはゼミ論も卒論もいい加減なレポートで提出してしまって、ほんとに恐縮しています。卒論なんか、完成しないまま提出期限日を迎えてしまって、後日必ず完成させますので、なんとか卒業単位を下さい!m(_ _)m とお願いした私です(苦笑)

...で、約束通り卒業後に完成論文をご自宅に持っていったら、優しい眼差しで「よく頑張りましたね」とおっしゃって頂いた一言が今でも忘れられません。しばらくは年賀状もお送りしていたのですが、いつの間にかそれも途絶えてしまいました。
今記事を書くにあたり、元気にしていらっしゃるのかなぁ...と"長野覺"で検索したら。

平成23年9月23日(金)秋分の日
福岡県 添田町制100周年記念 「ふる里再発見」英彦山・日田を語るシンポジウム
●第一部 基調講演  講師 長野 覺  演題「英彦山と広瀬淡窓について」


という記事を発見!うわ〜!先生元気でご活躍されているんだぁ♪と感激しております(^-^) 福岡県添田町が先生の故郷だったのですねー。私も30年後、なにか故郷に恩返しできているかしら?

日本最高地点にて富士山測候所の方と共に

日本最高地点で、長野覚先生と共に。長野先生はいつも笑顔を絶やさない柔和な先生でした。
比較的軽装に見える右端のお三方が、富士山測候所の職員(気象庁)の方々です。
30年前は実に下らない質問を致しまして誠に申し訳ありませんでしたm(_ _)m
どれだけ下衆な質問をしたかというのは、とてもブログに書けません(苦笑)

1981_ゼミ合宿最終日山中湖

下山後は、同ゼミ同期生のご両親が経営する山中湖畔の旅館で打ち上げがありましたが...ゴメン!名前覚えていないんです。その同期生も旅館の名前も同ゼミ紅三点のマドンナ3人娘の名前も^^;
でも、なぜ女子3名だったということを憶えているかと言えば・・・
山小屋の規則は1枚布団に2人づつ寝ることがルールなんです。だから女子1人の布団と一緒になるのは誰???と男子学生はもう小屋に到着してからワクワクドキドキ(笑)
...で、結局「それは先生に!」と女子が決めたのですがね(^^;

今では、山ガールのブームで個室の寝室も用意している山小屋もあるそうですが、1枚布団に2人づつという山小屋ルールはそうそうは変わらないでしょうね。なので娘から富士山に登ると聞いた時に、真っ先に確認したのは女子は奇数か?偶数か?でした(笑)
*帰宅後の娘談:今回お世話になった山小屋は1人づつシェラフ(寝袋)支給+布団だったそうです。

たまたま、私と娘の30年越しの富士初登山を記事に致しましたが...どうぞ本日初めて富士山に登る"にわか山ガール"のマドンナ4人娘が無事に帰還することを祈っております。

PS. 8/22 09:30 娘より下山報告:風雨強く頂上到達ならず、8合目より少し上の山小屋までにて断念。
   あらら、残念でした。ではまたさらに30年越しで今後は孫が登るようになるのかな^^;?


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2011年08月21日

posted by たすけ at 02:14 | Comment(10) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

究極の歴史オタク「関裕二」

昭和50年代の追憶


2008年2月11日...わいずさんが企画してくれたBIG SMILEポタの後で
東葛人さんの案内で茨城県取手市にある「竜禅寺三仏堂」
とつくばみらい市(旧伊奈町)にある「間宮林蔵記念館」を訪れました。

「竜禅寺三仏堂」はちょうどご開帳されており、仏像を拝することができ
ラッキーでした。また個性ある茅葺屋根と軒の美しさも見事でしたが
今回の記事は、私が高校1年の今から34年前...1974年まで遡る事が主題
ですので「竜禅寺三仏堂」については4枚の写真のみで説明を省略します。

竜禅寺三仏堂

竜禅寺三仏堂 解説

竜禅寺三仏堂 尊影

竜禅寺三仏堂 軒


さて、本題の究極の歴史オタク「関裕二」についてです。
私が間宮林蔵の茅葺の生家を訪れたのはこれが2度目です。
近くを通り過ぎたことはありますが、敷地の中に足を入れたのは
高1(16歳)の時以来でした。

間宮林蔵生家にて1974年と2008年

写真左は1974年のたぶん晩秋or1975年の早春(風がとても強い日でした)
に間宮林蔵の生家を訪れた当時高1(16歳)の私です。
写真右の縁側でずら〜と並んでいる左から2番目の上下白のウエァーで
ヘルメットをとっているのが34年後..50歳になる今の私です。

佇まいは当時と変わりありません。上記の「竜禅寺三仏堂」の立派な軒と
しっかり密集した茅葺に比べれば、竹を骨組みにした簡素な造りです。
当時は記念館はなくただ外にトイレが併設されていた事は記憶しています。

間宮林蔵立像と記念館

質素な茅葺の屋根越しに見える立像が間宮林蔵ですが、今回案内して頂いた
東葛人さんの表現を借りれば、まさに大探検家とは思えぬ"とっちゃん坊や"
の風貌です。で、縁側に座りながら...「あぁ〜そういえば、最初にここに
案内してくれた関もぼっちゃん顔だったなぁ」
等と当時を回想していました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ココから回想シーン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そうなんです、関=関裕二で高校のクラスメイトでした。
(※以下、当時の呼称「関」と苗字のみで続けます)
下の写真は、その日小貝川の沈下橋で関にシャッターを押してもらっている
私と、沈下橋にカメラを置いて2人で写っている写真です。

高校生ともなれば多少親離れして、友人の家に遊びに行くような年代になり
ますが当時せまくて、畳が擦りきれているような市営住宅に住んでいた私は
友人を自宅に呼べる筈もなくちょっと寂しい気持ちもありました。

小貝川沈下橋と関裕二

そんな時はじめて
「家に遊びに来ないか?」
と誘ってくれたのが関でした。関も関で、それまでの官舎暮らしから新築の
自宅に引越し、自分の部屋を持つことができ、友人を招いてみたいという
気持ちも強かったのでしょう。関東鉄道の常総線に乗ったのも、関の家に
行く時がはじめて、実はこの駅でちょっとした出来事(内容は略しますが)
があり写真に収めてありました。

写真中の白いウィンドブレーカーも思い出の品で、高校生になって
初めて百貨店(スカイプラザ柏)で買った品物で当時で5000円くらいした
もので当時の私にとっては目一杯の高級お洒落着でした。
※スカイプラザ柏は正確には専門店街です今は、ビックカメラになって
いますが、私にとってはスカイプラザ=そごう百貨店の一部でした。

何故、そんなお洒落をしたのか?って...
えへへ。実は関はこの時自宅に招いてくれるだけではなく、同級生の女の子
(二人とも女子校)も一緒だから是非来いよ!と言ってくれたからです^^;

女の子の1人がバイトが終わるまで、関と男二人で小貝川周辺を散策して
夕方になってから関の部屋に4人が集合しました。

初めての麻雀

関の部屋で4人で麻雀をしている写真です。関は私に初めて麻雀を教えて
くれた友人でもありました。後ろ姿が私ですが、丸刈りの中学生卒業後から
ずっと伸ばし放題の髪でした。
16歳の男女2名づつが一つの部屋に...な〜んていうとなにか甘酸っぱい事も?
なんて想像するかも知れませんが^^;ほんとに麻雀だけをして夜遅くならない
うちに帰宅した全く健全な高校生そのものでした(笑)

二人の女の子のうち、1人は別のクラスメイトとしばらくつきあったようです
が、私はその後の高尾山への合同ハイキングでせいぜい手をつないだくらいで
それ以上のこともなく、そのうちにその女の子たちとは疎遠になっていきました。

さて高校在学時代から、関は休みといえば、奈良に行ってました。
彼の口癖は...
「飛鳥はいいぞぉ〜 斑鳩(いかるが)は日本人の故郷だぞぉ〜」
でした。たしか父親が国鉄(JR)職員だったように記憶しているのですが
色々と切符の安い買い方や費用を浮かせる方法を熟知していたようです。

1972年に奈良県の明日香村(国営飛鳥歴史公園内)の高松塚古墳
で極彩色の壁画が発見され当時、明日香は一躍注目のスポットでした。
また、地元流山市三輪野山の「三輪茂侶神社」は、大和国の三輪神社の分霊
とされる言い伝えもあるので。【大和朝廷からの使者が当地に赴いた時
大和の三輪山を彷彿とさせたこの丘陵地を「三輪の山」と命名した..】

私自身、中学&高校の修学旅行で見た明日香の風景は、なにか心に和む
ところがあり、いつかはゆっくり旅してみたいなどと思いながらも今日に至
ってしまいました。

やがて、ほとんどのクラスメイトが大学に進学する中で...
「あれ?関はどうしてる?」
「あぁ〜 あいつまた飛鳥(明日香)に行ってるよ」

と、アルバイトでちょっと旅行費用ができると奈良方面に行っていました。
卒業後もしばらく、年賀状のやりとりだけは続いていましたが、彼から来る
年賀状は官製ハガキではなく、いつも飛鳥や古都の絵葉書でした。

何年ほど前か忘れましたが、たぶん30歳を越えた頃だったと思いますが
それぞれ所帯を持っているような年代になった時に、関と一緒に奈良に
旅行したことがある同級生にばったり会ったか時かなにかで...

「ところで関はどうしてる?」
「あぁ〜あいつ、今○○市に住んで、なんか小説家とかやってるらしいよ」
「へぇ〜物書きになったのかぁ...食っていけるのかな?」
「さぁ詳しいことはわからないけど、ほらあいつ童顔で可愛い顔したけど
あれでなかなか頑固じゃん」
「だなぁ〜結構、ゴーイングマイウェイだったしなぁ」


私たちからすると、関は高校卒業後のイメージのままで..
自宅に電話してみても「あぁ〜○○君ねぇ、裕二はまた居ないのよぉ」
とお母さん。。。
まるで、糸の切れた凧というか...今でいうフリーターのように定職を持たず
金が出来るとすぐどこかへ旅に出てしまう。そんな友人でした...
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜回想シーンココまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2008年2月に34年ぶりに間宮林蔵の生家を訪れ、ブログ記事を書こうとした時
ふと思い出し関裕二でキーワード検索してみました。

著作がたくさん出てきました...驚きました。
「継体天皇の謎」
「天皇家誕生の謎」
「日本古代史謎と真説」
「入鹿と鎌足 謎と真説」
「古代日本列島の謎」
「古代史謎解きのヒント」
「古代史の秘密を握る人たち」
「古代遺跡をめぐる18の旅」
「古代史9つの謎を掘り起こす」
「蘇我氏の正体」
「藤原氏の正体」
「創られた英雄ヤマトタケルの正体」
「聖徳太子はだれに殺されたのか」
「かごめ歌の暗号 わらべ遊びに隠された古代史の闇」
「天孫降臨の謎 日本書紀が封印した真実の歴史」
「出雲抹殺の謎 ヤマト建国の真相を解き明かす」
「消された王権 物部氏の謎-オニの系譜から解く古代史-」
「浦島太郎は誰なのか」
まだまだあるのだろうけど..ざっと拾ってもすぐこれくらい出てきました。

関裕二(セキ ユウジ)1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。
仏教美術に魅せられて足繁く奈良に通い、独学で日本古代史を研究...云々

うぅ〜ん、プロフィールは合致している。
けど作家だとペンネームとかもあるし、関裕二=ペンネームかも...
とあまりの作品数にどうも半信半疑だったのです。
どこかに顔写真でも載っていれば確信するんだけどなぁ・・・

あったぁ〜!!
「第3回出雲学フォーラム」で「出雲が存在した謎」をテーマに講演された
関裕二さん
...を開いたら、紛れもないあの34年前の童顔の関裕二でした。
ちっとも変わってない風貌に安心すると共に、ここ最近ブログで自分の事を
プチ歴史オタクとかと自称しているのが、ちょっぴり恥かしくなってしまい
ました。

私なんぞは、ほんの趣味の範囲で、ちょこっと聞きかじった資料や記憶で
訪問地の画像と解説をUPしているだけで、自分の見解もくそもありません。
自分自身で予備校(塾)で生徒に日本史を教えていた時代も..
これって結局、誰かが言ったり書いたりしたことを、なぞっているだけだよ
な、史実と事実は合致しない事だって多いんじゃないのかなぁ...と。

まぁしかし、当時は歴史を教えるのに自分の見解なんてものは余計な物で
優先すべき事は、入試問題の頻出事項をどれだけ生徒に吸収してもらうか..だ。
そうわりきることでその葛藤から逃げていました。

ただ、時たま授業の後で歴史好きな生徒から○○の乱,□□の変とかについて
質問を受けた時に「だって、おまえが△△の身内だったらどう思う?」
「時代が違っていても、人間の感情なんていつの時代でも一緒だよ」

などと事件背景の人間模様を投影させて説明すると『あ..なるほどぉ』と
生徒が合点がいった顔になった時が、嬉しかったことを憶えています。

関裕二の著作について検索すると
推薦文もあれば、批判文も出てきました。
関裕二の著作品のどれひとつも読んでいない、私にはコメントのしようが
ありませんが、ただ言えることは、彼は少なくとも30数年にわたり自分の足
で実際に歴史の現場を歩いて、見て、感じている正真正銘の歴史オタクである
ことは紛れもない事実です。

オタクという言葉は、ある専門分野において趣味としてのめり込む事ですが
それがライフワークとなり飯が食えるようになったら"究極のオタク"と
言えるのではないでしょうか。

オタクに権威など必要ありません。今私は自転車仲間内でプチ歴史オタク
だのプチ茅葺オタクだのと戯れ合っていますが、権威があろうとなかろうと
自分の感じたままに理屈抜きで、美しいものは美しいと素直に感じる気持ち
が大切だとつくづく感じています。
自分の素直な感動を人に伝えられるのがオタクの真骨頂です。

っていうか...
少々古いソースになりますが、前述の高松塚古墳の明日香美人の壁画が
カビで汚染された原因について
、こんな記事を読む度に
「権威とは隠蔽体質とみつけたり」で、もし美しいものを大切にしたいと
素直に思うオタクが現場監督にいたらば、こんな初歩的ミスはなかっただ
ろうにと思うくらいです。
同時に、歴史の裏舞台では史実とされていること以外に数多の隠蔽事項
や謎が存在するのは当然だろうなぁ、とも思います。

今回「竜禅寺三仏堂」と「間宮林蔵記念館」に案内して頂いた東葛人さん
が奇しくも、古代美術史を専攻していらしたということ。
今回集合場所で出発前の挨拶時にお名刺を頂いた横山茂彦さん
「北越女人戦記・上杉謙信女性説について」「闇の後醍醐銭」等、大胆な
歴史小説を執筆なさっていること。
3度目のポタ延期で今回(2月11日)でなければ参加できなかったspiritさん
関や私の高校の後輩で主に取手周辺の古墳や寺院を中心にポタをしていた。
という..今回の幾重ものご縁の不思議を感じました。

あっ!..関。今また思い出したよ。
今日のポタリング集合場所で俺たち500円ずつ出し合って、チーム東葛(笑)
のステッカーを配布してもらったんだ。制作者は同級生で早生まれの
タルサ・マクリーンっていうニックネームも風貌も一見変わった奴なんだ
けどね^^;

そういえば高1の時に、関も当時仲良しクラスメートを募って、誕生日の
プレゼント交換会を主催してくれたよねぇ。
俺の16歳の誕生日にみんなから500円づつ集めて、山ほどの消しゴムを
プレゼントしてくれたことを俺は憶えているよ。

でも、関自身の誕生日は早生まれだったから一番最後だったよねぇ...
俺たち関に一体何をプレゼントしたんだっけ?
もしかしてその時点までにプレゼント交換は自然消滅してしまったんだっけ?

                              以上

次号記事は、トーカツくん大集合!小春日和の常総路を走る!
只今、拡大フラッシュ版で鋭意制作中♪ 乞う、ご期待^^;

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2008年02月13日

posted by たすけ at 12:59 | Comment(6) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『天皇』と呼ばれた男

昭和50年代の追憶


『天皇と呼ばれた男』の天皇は、私の大学時代の友達のニックネームである^^;

福岡県出身の彼の姓は、平家物語に出てくる天皇の名と同じで、時々仲間内で彼を『天皇』と呼んでいた。

駒澤公園にて
昭和56年

真ん中で「みんなで広げよう友達の輪♪」by笑っていいとも のポーズしているのが彼。もう1人は、ゼミで一番長身(195cm)だった○田君(w


彼とは卒業以来、会ったことはなかったが先日の秋葉原で再会
の時、浜北の友達が天皇の携帯の連絡先を教えてくれて「いつか機会があったら、再会しようと」
互いに連絡を取り合った。

...で。
急遽今月仕事で、福岡に1泊2日で出かける用事ができ、一昨日にネットであちこちに問い合わせ、航空券&ホテルを取ろうとしたらあいにく三連休の繁忙期で宿も飛行機もどこも満杯である。

う〜ん..新幹線で行き、宿は当日探すしかないかと、近郊の駅にチケットを買いに行ったついでに大手旅行代理店で尋ねてみたら、まだほんの少し空きがあるとこと。
しかし、よくよく聞くと三連休の1泊2日よりも前日からの2泊3日のほうが、飛行機の便も融通がきき、費用もその方が安いとのこと。じゃぁそれにしますと、2泊3日でフリーの日が1日できた。

...で。
天皇に連絡をして、「急遽、福岡に行くことになったが晩飯でもどう?」
とメールをしたら、なんと彼は「俺は、ちょうど翌日横浜出張なんだ。」
と、お互いぎりぎりセーフで卒業以来の再会が決まった(w


...で。
その数時間後、彼の携帯から次のようなメールが届いた。
「おひさしぶりです、私○○です。覚えてますか?今、天皇と一緒に暮らしています。
お互いバツ1同士ですが今ラブラブでぇ〜す♪」

...Σ( ̄□ ̄;)えっ!?

なんと、天皇は私も知っている大学時代の彼女と再婚?していたらしい(w
四半世紀の間に、人生いろいろだなぁ〜^^

それにしても....昨日からワイドショーでは皇位継承問題ばかりだが
「人生の選択を自由にできる一般庶民に生まれて良かったなぁ〜」
とつくづく思う私であった^^;

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2006年05月23日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする