石本美由起と矢切の渡し / 恋に生きたい二人です

■昭和の追憶


石本 美由起(本名:石本 美幸 1924-2009年)昭和時代の演歌の作詞家
島田 陽子(本名:島田 陽子 1929-2011年)昭和時代の詩人・作詞家



演歌:矢切の渡し(作詞:石本美由起)
断腸亭さんたちと矢切の渡しの歌碑の前で
「あれ?誰が歌っていたんだっけ?」


矢切の渡し.jpg

1983年(昭和58年)細川たかしが、この曲でレコード大賞を受賞したのに、細川たかしが浮かんできませんでした。
元々は、ちあきなおみに提供された曲で、瀬川瑛子、中条きよし、春日八郎、島倉千代子、などがシングル発売し、美空ひばり、中森明菜などのLPアルバム挿入を含めれば、実に30人以上が唄っていたんですねぇ。

...で。石本 美由起...男性です。
矢切の渡しの他、私が知っている曲を列挙すると
憧れのハワイ航路(岡晴夫)
薔薇を召しませ(小畑実)
ひばりのマドロスさん(美空ひばり)
港町十三番地(美空ひばり)
哀愁波止場(美空ひばり)
悲しい酒(美空ひばり)
人生一路(美空ひばり)
大ちゃん数え歌(吉田よしみ)


えぇ〜!大ちゃん数え歌まで、石本 美由起 作詞だったんだ!?(^^;)
私が知らなかっただけで、有名な作詞家だったんですねぇ。

世界の国からこんにちは.jpg

こちら、1970年大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」
三波春夫以外に誰も浮かんでこなかったのですが...
坂本九・山本リンダ・弘田三枝子・西郷輝彦・倍賞美津子・ボニー・ジャックスもレコード発売していて、5千年後に開封される大阪万博タイムカプセルには、吉永小百合の「世界の国からこんにちは」が収められた...なんて。

島田陽子と言えば、女優の島田陽子しか思い浮かびませんでしたが...



滝は 滝になりたくてなったのではない
落ちなければならないことなど
崖っぷちに来るまで知らなかったのだ

まっさかさまに
落ちて 落ちて 落ちて
たたきつけられた奈落に

思いがけない平安が待っていた
新しい旅も用意されていた
岩を縫って川は再び走りはじめる


島田陽子詩集『わたしが失ったのは』より
同姓同名の詩人がいらしたのですねぇ・・・


2014年06月03日

posted by たすけ at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■昭和の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野菊の墓と伊豆の踊子と潮騒のメモリーズです

■昭和の追憶

写真&動画&フラッシュ

俳優(女優)さんの名前が沢山出てきますが敬称略&いずれリンク切れになってしまう動画があると思いますm(_ _)m

主題は野菊の墓と伊豆の踊子と潮騒のメモリーズなのですが、その前に
私が最後に柴又の帝釈天に訪れたのは、おそらく15年以上前だと思います。渥美清が亡くなって、なんとなく一人で訪れて以来でした。

でも、私にとって渥美清と言えば...啖呵売や口上で饒舌な「フーテンの寅さん」とは逆の、寡黙で辛抱強いキャラクターが多かった「泣いてたまるか」の印象の方が強いです。

渥美清の泣いてたまるか.jpg

小説や映画の主人公にたいして...はまり役というか
この役なら、絶対にこの俳優(女優)!というイメージって、持っていませんか?

野菊の墓(伊藤佐千夫)の民子」...と言えば

「吉永小百合ですか?山口百恵ですか?」


と、断腸亭さんに質問した私ですが・・・



吉永小百合や山口百恵主演で「野菊の墓」の映画はありませんでしたm(_ _)m
※山口百恵の野菊の墓のTVドラマはあったようですが、たぶん、私は山口百恵引退記念映画の「古都」と「野菊の墓」を取り違えて記憶していたのかも知れません。

吉永小百合と山口百恵.jpg

純愛映画の代表作と言えば「伊豆の踊子(川端康成)」で、吉永小百合や山口百恵が主演しています。
山口百恵の「伊豆の踊子」を観た記憶はありませんが、吉永小百合&高橋英樹の「伊豆の踊子」は、今から35年以上前の学生時代に観た記憶があります。

勿論、封切りではなく池袋の文芸坐だったかなぁ。

でも、私の記憶の吉永小百合は、まぼろし探偵に出て来た少女で、今で言えば能年玲奈のような、初々しい少女でした。...って。私より一回り以上も年齢が上ですが^^;
でも、現代の女優さんに往年の女優さんの面影が浮かぶ...って事ありませんか?



ちょっと脱線しますが、「潮騒(三島由紀夫)」にも、吉永小百合や山口百恵が主演しています。『その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら』なんて台詞に、私たち世代はちょっぴり体温上昇してしまうのですが(///▽///)

あまちゃん世代(潮騒のメモリーズ世代)にとっては『そのヘビを飛び越して来い・・・』のパロディが真っ先に思い浮かぶのでしょうね(笑)

野菊の墓(有田紀子).jpg

断腸亭さんに教えて頂き、木下惠介監督の『野菊の如き君なりき』(出演:田中晋二、有田紀子、笠智衆)の予告編を少し観ました。有田紀子という女優さんは、全く知りませんでしたが、民子のイメージにぴったりですね。

昨夜(5/27)のTVで美空ひばり記念館オープンに絡めて、故.美空ひばりの軌跡を特集された番組を見ました。美空ひばり主演の「伊豆の踊子」映画があったんですね。私には、美空ひばりに「薫(踊子)」のイメージは全然ありませんが、世代によっては「伊豆の踊子」と言えば美空ひばりという方々もいらっしゃるのでしょうね。

「野菊の墓」「伊豆の踊子」「潮騒」は、数多くの映画やドラマが制作されていますが、やはりノーベル文学賞の「伊豆の踊子」が最も作品数が多く映画だけでも・・・

・1933年(昭和8年)松竹:田中絹代
・1954年(昭和29年)松竹:美空ひばり
・1960年(昭和35年)松竹:鰐淵晴子
・1963年(昭和38年)日活:吉永小百合
・1967年(昭和42年)東宝:内藤洋子
・1974年(昭和49年)東宝:山口百恵


伊豆の踊子メモリーズ.jpg

果たして皆さんは、「伊豆の踊子の薫」...と言えば?
どのヒロインを真っ先に思い浮かべるのでしょうか?

伊豆の踊子は吉永小百合主演しか観ていないのですが、何故だか薫のイメージには内藤洋子がピッタリ合います。どことなく、有田紀子と内藤洋子って似ていませんか?どちらも映画は観ていないのですが...

結局、私の中では「民子も薫も」同一の容姿としてイメージしているようです(^^;)

2014年06月02日

posted by たすけ at 23:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■昭和の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

失われた30年 / アルバイト時給の追憶

■昭和の追憶

失われた30年と題していますが、その答えは最後の方です^^;

1979年(昭和54年)十条のスナックでアルバイトしていた21歳の頃。
この店は戦後間もなくバーとして開店した店で、その名残りが残っていました。
カウンター席が中心でお客様もグループでワイワイ来るというより、たいてい1人か2人連れで来るお店で、常連のお客様同士がカウンターで昔話や世間話に花を咲かせます。そんな自分の知らない昔話や、にわか政治評論を傍らで聞いている時間がとても好きでしたf(^、^;

東京兵器補給廠(TOD)

戦後の北区十条周辺は東京兵器補給廠(TOD)があり、進駐軍(米兵)もこの店のお客様だったそうで、そう言えばこの店のBGMは1950年代の洋楽やジャズが定番でした。
私が生まれた1958年(昭和33年)に東京兵器補給廠地区が日本に返還され、陸上自衛隊十条駐屯地になりました。※注:海自や航自は基地と言いますが、陸自は駐屯地と言います。

時折
「久しぶりに来たよ」という自衛官OBのお客様が来店する事がありましたが
だいたい10年ぶりとか、長くても20年ぶりの久しぶりという事になります。

ところが
「あらぁ?久しぶりねー」
「そうだねぇ、30年ぶりだねー」


長く、地方勤務だった会社員のお客様が30年ぶりにいらした時。
21歳の私にとって、自分の人生の時間よりも長い30年という時間の実感がなく。同時にそんな長い時間を経ても、ごく普通に会話が進む状況に、まるで異空間に迷い込んだような気分になったことを覚えています。

実際自分が、波平さんと同じ54歳となり、30年前の事をこうしてブログに綴っている訳ですが・・・
もし拙ブログを10代や20代の人が読んだら、異次元の世界として読まれているかも知れないですね(苦笑)

さらに異次元の話として・・・
サザエさん一家で、1895年(明治28年)生まれの波平さんが2012年の今年117歳。
サザエさんは、1922年(大正11年)生まれで、今年でちょうど90歳。
タラちゃんは、原作で1947年(昭和22年)or1948年(昭和23年)なので今年65歳。
タラちゃんは、ちょうど団塊の世代になるのですね。

昭和40年の漫画ではマスオさん(28歳)月給が32,000円となっているらしいのですが、
原作通リにマスオさんが1917年(大正6年)生まれの32歳(昭和24年当時)だとすると
本来のマスオさんの月給は、3500〜4000円くらいだったのではないかと思います。
月給3500〜4000円って、私にとっても異次元の世界です^^;

やがてタラちゃんが大卒で1970年に就職したと仮定して大卒初任給の変遷は。

1970年(昭.45) 40,000円
1975年(昭.50) 91,000円
1980年(昭.55) 118,000円
1985年(昭.60) 144,000円

うん、まぁ、これくらいだったような実感があります。
でも、私自身はすべてまだ小学生〜大学生の期間なので月給の体験はありませんから
タイトル通リ、昭和50年代のアルバイトの時給について書きたいと思います。

昭和50〜54年(1975〜79年)
高校生や卒業後、流山市内の飲食店でアルバイトした時が、時給330円〜350円くらい。
大学生なり上京して、都内の飲食店でアルバイトした時が、時給400円〜450円くらい。

そして昭和55〜57年(1980〜82年)
配膳会に所属して皿洗いから〜ホールでアルバイトした時が、時給600円〜800円くらい。

バブル景気後の1991年以降、失われた20年と言われる「平成大不況」の現在。
2012年(平成24年度)地域別最低賃金改定状況を見ると最低賃金(時給)が、650円〜800円となっています。

私の場合は、少し恵まれていたかもしれませんが
1980年(600円)〜1982年(800円)と比較すると
30年経ってもアルバイトの時給が変わってない事を鑑みれば
「失われた20年」ではなく「失われた30年」ではないか?

なんだ、「いい時代を過ごしやがって」と今の若者は思うかもしれませんが・・・
しかし、時給や月給は上がらなくなりましたが、この30年で物価も変わっていません。
いや、むしろ食費や旅行費用などは安くなったと思います。

例えば1980年当時は、牛丼(並)も喫茶店のコーヒーも350円くらいでした。
何より1980年当時の円相場は、1ドル=250円くらいでしたので、海外旅行は現在の3倍以上の費用がかかりました。私自身は、海外に卒業旅行に行くことなど叶わぬ夢でしたが、どうやら娘は来年の卒業旅行は海外に行くことになりそうだと。娘は飛行機が苦手なので、あまり乗る気でないようですが、私にすれば贅沢な悩みです。


現在(いま)...私は、こうして取留めのない追憶をブログに綴っていますが、すべて戦後の体験です。でも、愛読させて頂いているブログには、80歳代のブローガーさんがいらして、戦前・戦中・戦後の体験談や、当時の生活ぶりを綴られています。すごいなぁー70年前以上の追憶です。

...で。そんな追憶を読ませて頂く時。
十条のバーカウンターで、常連さん達の話を聞きながら感心していた
30年前と同様な気持ちになるのですf(^、^;

2012年08月29日

posted by たすけ at 23:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■昭和の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和の追憶のカテゴリについて

昭和の追憶を書き出した時...私自身の半生記に重ね合わせて
誕生(昭和33年)〜結婚(昭和63年)の30年間を特に(小・中・高・大)の学校時代別に分けていましたが、内容がごちゃごちゃになってきてしまったので(苦笑)

これまでの記事を以下のカテゴリの中に、整理し直しました。

昭和30年代の追憶



昭和40年代の追憶



昭和50年代の追憶



TVドラマや漫画の追憶



流山チャンネル



なお、流山チャンネルについては、過去&現在の記事が混同しています。

2006年01月02日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■昭和の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする