大宮神社(加村台)と大杉神社(加村岸)

流山チャンネル

nishihirai_1961.gif

私は流山町加の生まれで、大宮神社が氏神様となりますが、この写真1961(昭和36)の頃はすでに【西平井の宮本団地に住んでいました】※流山町加(旧加村)はかなり広かったのですが、やがて西平井の一部とともに平和台となりました。

大宮神社(加村台)と大杉神社(加村岸)の並立について

地勢的に見ても古東京湾に、舌状に突き出た台地の【加村台の大宮神社】が、古代より杜として存在し。せいぜい江戸時代になってから利根川東遷(江戸川の物流)によって街が形成された【加村岸の大杉神社】よりも、はるかに古い歴史があるのは容易に想像できると思います。

大宮神社摂社(大杉神社)のお神輿01.jpg

大宮神社摂社(大杉神社)02.jpg

大宮神社境内にある大杉神社のお神輿には、大杉神社のお札が置かれています。大杉神社は江戸時代に流山で水運業が盛んになってから総本宮(あんばさま)より、商売繁盛・開運の神様と勧請(かんじょう)され、大宮神社の境内に摂末社として置かれました。
ポタリングで、目吹橋の袂・野田東部中・野田北部小付近にも大杉神社があることに気付き...
野田の酒屋店主に話を聞いたら、江戸初期に高梨兵左衛門と茂木七左衛門らが醤油醸造成功を祈願したのが神社のはじまりとの事。

総本宮の項目を確認したら、たしかに両家の銅版があり、どうも銚子の田中玄蕃(ヒゲタ醤油創業家)を倣ったらしいです。まだ、利根運河はありませんから、銚子から関宿廻りの水運ルートと大杉神社の配置に納得しました。

大杉神社のあんば囃子も、田中玄蕃のルーツ紀州の悪魔払え囃子を奉納したのが起源だそうで、醤油伝播と野田・流山の大杉神社の創建が線で繋がりました♪
...って。
神輿を担ぐ人にとってそんな細かい事はどうでもいいことかも知れないので、ざっくり説明すれば・・・

江戸〜昭和初期まで、加岸の新住民は商業(物流)で栄えた財力がありましたから、大宮神社の普請(修繕費等)にも相当金を出したと思われます。大きな戦乱もなく町人たちが経済力をつけた江戸時代では、きらびやかな神輿を作り、祭りを楽しむ街が増えてきます。

「よぉ〜!俺たちとこでも神輿造んべよ!
そうだ!そうだ!いっちょ派手にやんべよ!」


まぁ、こんなカンジだったのでしょうが(^^;)
これが土着の住民(旧住民)と新興住民(新住民)の軋轢が生まれる原因となっていきます。

わかりやすく整理すると・・・
加村岸の大杉神社は水運(商業)の、江戸時代以後より新住民の氏神
加村台の大宮神社は土着(農耕)の、鎌倉時代以前より旧住民の氏神

...で。金も出し、お神輿も作ったのですから神輿渡御(みこしとぎょ)のルートに、自分たちの地区を中心としたいのは新住民(加岸)として当然の人情です。しかし、そのルートをおもしろく思わないのは旧住民(加台)の人情。

「あー!そんだったら、俺たちゃ俺たちで、大杉様のお祭りすんべよ!」

...と。幕末近くになって加岸に現在の大杉神社が建立され
加村岸と加村台は別々に祭礼をするようになった。

加村岸大杉神社
加村台大宮神社
加村岸(加岸)=大杉神社                加村台(加台)=大宮神社

まぁ、こんなカンジなのではないでしょうかね?

信じられないかも知れませんが私が小さい頃は、まだ
「加台(加村台)の奴ら」
「加岸(加村岸)の連中」
という確執(ライバル心)が残ってました。
諏訪大社の上社vs下社ほど壮絶なものではありませんが(^^;)

因みに...
大宮神社、大杉神社の祭祀を執り行うのは、駒木諏訪神社の宮司さん
大原神社、浅間神社、赤城神社の祭祀は、松戸神社の宮司さん
です。

(この 項つづく)

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2014年07月30日

posted by たすけ at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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