鮮魚街道今昔物語 / 鮮魚道ポタリング

ちばらきチャンネル

鮮魚道ポタリングの本編です。唐突ですが...えっとですね...
「時代劇を見ていて「馬車」を見たことありますか?」
江戸時代大量輸送の主役は水運(船)ですが、陸路で荷物を効率よく運ぶには、西部劇に出てくるような幌馬車があればいっぺんに荷物が運べると思うのですが、日本で馬車が登場するのは明治以降です。

馬運送

江戸時代まで馬で荷物を運ぶ場合、馬の背に振り分けて1頭づつ荷物を括ります。
「なんて、非合理的なんざましょ!」
「いやいや、幕府が武器の大量輸送を恐れて馬車輸送を禁止したのさ」
「いやいや、雨が降ればすぐぬかるむ日本では、車輪は不都合なのさ」
「いやいや、いっぺんに荷物運んだら、駄賃の割が合わねーじゃん!」

ここでは3番目の理由に注目したいと思います。

現代でさえ、貨物自動車運送事業は国交省の認可制だし、車検制度や免許更新など、なんやかんや、お上に銭が入る仕組みになっとりますが、江戸時代はもっと規制が多くて...
「あ〜白猫ヤマトさん。あなたの営業範囲は東葛地区だけよ」
「ん〜佑川急便さん。あなたの営業範囲は印旛地区だけよ」

...てな具合で、自由に運送ができなかったんですね。
具体的には油屋.comの宿場と中馬とかWikiの中馬をご参照ください。


以上を踏まえて、やっと鮮魚道ポタリング【鮮魚街道今昔物語】です^^;
ご企画:東葛人さん、白井ご案内人:愚兵衛さん、いくさん
見送り:鉄ポタさん、emoさん                   ...ありがとうございました♪
参加者:断腸亭さんワンチャンjoypapaさんdadashinさんpacketさん、spiritさん、はんぞうさん、まっちさん、ジャズの紳さん、フリーさん、DAIさん、   ...またご一緒してくださ〜い♪

木下街道と鮮魚街道

我孫子市布佐⇒松戸宿河岸まで「鮮魚(街)道」....「なまみち」と読みます。
印西市木下⇒市川市行徳まで「木下(街)道」....「きおろしみち」と読みます。

木下街道(きおろし街道)は道幅こそ広くはありませんが、現在でも主要県道で道筋は江戸時代とほとんど変わっていません。江戸時代この道は、成田・銚子・鹿島方面に向かういわゆる表街道で■がついてる宿(駅)がありました。それに対して鮮魚道(なまみち)は、松戸に向かう宿(途中駅)なしの、いわゆる裏街道(脇街道)です。道筋が江戸時代でも多少変更があったようで、また現在では宅地開発や自衛隊基地(下総基地)で分断されて、鮮魚道を当時と全く同じように辿ることはできません。

今回の鮮魚道(なまみち)ポタリングは起点の我孫子市布佐⇒鮮魚道中間点の常夜燈(柏市藤ヶ谷)まで、できるだけ当時の道筋に沿って走り、西白井駅前でランチで終了。その後に「鮮魚街道今昔物語」を聞きに白井市郷土資料館まで....という企画でした。

鮮魚道今昔物語 講演資料
タイ・カツオ・ブリ・コチ・ヒラメ・マグロなどの鮮魚は、一刻も早く江戸の魚市に送るため、陸路が短く通し馬で行ける松戸への道が選ばれた。松戸までの鮮魚道は宿場ごとに荷を積みかえる必要のない、いわゆる中馬で運ぶことが可能であった。しかし、さすがに暑い夏は鮮魚がいたみやすいので、こうした輸送は毎年秋から翌春にかけて、ちょうど農閑期の時期に盛んに行われた。
でも素朴な疑問が残りました。
■どう考えても、マグロは無理っしょ?長方形の荷桶を使ったとしてもマグロが入る??
■ヒラメやコチは江戸前(東京湾)で捕れるのにわざわざ鮮魚道使う?
私自身、今まで鮮魚道とは鮭と鰻を中心に運んでいたのだと思っていたんです。布川の鮭は当時最高ブランド魚だし、印旛・成田も鰻の名所だから、ブランド力あって高価で売れたのではないかと?
元来鰻の旬(脂が乗る)は初冬。土用の丑の日(夏バテ防止に食え)をブームにしたのは、江戸中期の平賀源内の発案で、売上減少の夏場対策コマーシャル効果。それによって鮮魚道が年間を通じて活況したのだと思っていました。

どなたか魚に詳しい方がこの記事を読んでいらしたら...
東京湾では捕れずに、銚子経由で入って高価で売れるような魚って、どんなのがありますかね?
サンマは当時は今以上に商品価値が低かったらしいですから、サンマをわざわざ運んだとは思えないのですが・・・
※.銚子出身の断腸亭さんより『当時は遠洋漁業はないので、マグロサイズは今より小ぶりでしょう。』
...解決(ありがとうございました♪)


従来、木下街道もなま道と言われてきたが、印西市中央公民館の佐藤純夫さんはこう語る。
木下河岸の荷を、一切取り仕切ってきた大問屋吉岡家の古文書には、鮮魚を扱った記録がほとんど見当たらないんですねぇ・・・たったの一件しか。つまり木下街道は、香取・鹿島・息栖・成田へ向かう商用や観光が主で、鮮魚はほとんど布佐から松戸へ向かう道を利用したんじゃなかろうか?
私もこれまで、木下街道=ほぼ鮮魚道、だとばかり思っていたので、今回の鮮魚道ポタは大変楽しみにしていたポタでした。
特に木下街道が表街道で、鮮魚道は裏街道?という道筋の面影がとても愉しかったです。
鮮魚道の始まりが裏街道利用だったすると...
■記録がないのは、正規ルート外の駄賃を隠してしたんじゃないかなぁ?と私は妄想しています^^;

鮮魚街道起点(布佐観音堂)

...という訳で、我孫子市布佐の観音堂から鮮魚道(なまみち)ポタがスタートしました。
この観音堂、側面&背面に応急措置が取られていますが、これは震災ではなく先日の台風12号による被害だそうです。しかし、我孫子市布佐地区は東日本大震災の時に液状化が問題になった地区で、ここを出発して道脇を見つづけながら走ると、液状化の痕跡がそこかしこに残っていました。

さて、ポタ参加者が熱心に見ているのは....

鮮魚街道(我孫子市布佐)

いや〜、これまで全くこの案内版知りませんでした。他にもこの近辺を何度も通ったことのあるサイクリスト(自転車愛好家)が居ましたが、みんな口ぐちに
「へぇ〜!全然気がつかなかったぁ〜」の歓声。やっぱり東葛人さんすごいです♪
参加者と対照的な余裕ポーズの東葛人さん、愚兵衛さん、いくさん、御三方が印象的でしょ?(笑)

鮮魚道(月影の井)

その後、大六天神社のアドベンチャールートを通り、赤影 月影参上!!
えっとですね...
「日影の井戸」福島県二本松市
「月影の井戸」千葉県印西市浦部
「星影の井戸」神奈川県鎌倉市
を合わせて【日本の三大井戸】とか【日本の名三井】と云うらしいのですが。おそらく実際に行ってみて、がっかりする【日本の三大がっかり】のひとつではないかと^^;
たまたま、日影・月影・星影の関連性を見つけた人が、これぞ日本三大井戸!と、テキトーに名づけちゃったんじゃなかろうか。講演でも鮮魚道(なまみち)は俗称であり、布佐の住人は松戸に通じるから松戸道と言う。だから水戸街道も水戸の人は江戸道と言っていた....。
つまりは、案外呼び名なんてものは、ある時誰かが言い出した名称(ガッツポーズとかハニカミ王子なんかも同様で)が使われていくテキトーなもんなんですね。

月影の井の直後、最後尾3名が一瞬神隠しになりましたが(笑) 次に白井市平塚分校を訪ねた後、柏市(旧沼南町)に入って、金毘羅宮の祠堂と大沼枕山の撰碑を見学しました。

鮮魚道(藤ヶ谷の金毘羅宮)
鮮魚道(藤ヶ谷の金毘羅宮02)

ここは、案内してもらわないと気づかず通り過ぎてしまう確率80%以上の難所です。
大沼枕山は尾張出身の書の名人ということらしいのですが、碑文の詳しい内容までわかりません。しかし、どうやら藤ヶ谷地区台町は鮮魚道の中間点にあたり格好の休憩所で、それなりに賑わっていたようです。

鮮魚街道(常夜燈)

そしてそこからほど近い、鮮魚街道常夜燈を見学したのですが。2011年3月3日に更新された、リンク先の柏市文化課の紹介頁に写っていた常夜灯の上部がありませんでした。今年の東日本大震災で落ちてしまったのですね。震度5だった東葛地区でこの状態ですから、東北の被災地ではことごとく史跡が崩落しているのでしょうねぇ。ともあれ、鮮魚道に常夜灯まで設置されていたということは、それまでの制度や既得権を打ち破って繁栄した街道のようです。

西白井駅前 松栄鮨

富塚鳥見神社見学して、せっかくなんで鮮魚料理を食べましょう♪
という計らいで西白井駅前の「松栄鮨」でランチとなり鮮魚道ポタは終了。

松栄鮨 うどん・鉄火丼セット

私がいただいたのは、天ぷらうどん+鉄火丼ランチセットで920円♪


ランチ終了後、白井市郷土資料館に移動して
聴講予約者は山本鉱太郎先生の【鮮魚街道今昔物語】を拝聴しました。
最後に鮮魚道(なまみち)な話題だけに?"なまめかしい"逸話も。

山本先生、講義終了間際に
「いや〜、松戸平潟の遊郭の話までしようと思ったんですけどねぇ」
「鮮魚運送で駄賃稼いでも、遊郭で散財してしまうのですよねぇ」
「あ!残念ですが、もう時間なんで今日の話はこれまで!」

....ちょ、、ちょっと、、センセー!!....質問コーナーもないの??(^^;)

んじゃ、僭越ながらあっしが鮮魚道終点の松戸宿の逸話をば....
銭が集まりゃ、それを吐き出させる仕組みが世の常というものでござんして...
『松戸女郎衆は錨か網か、上り下りの船とめる』
よっ!上手いねぇどうも(笑)  あっしとは道草亭ペンペン草さんですよ(^^;)

松戸の歴史に"深化"した【表の家】のサイトを運営する、道草亭ペンペン草さんの【松戸行脚 元平潟遊廓街と中央司法会計研究室】の冒頭にこの一首が出ています。特に面白いのが、赤線廃止後、松戸平潟の旧遊郭が中央大学の学生寮として利用されていて、実際に学生時代にそこで寮生活を送った方へのインタビューかな?昭和63年...ってわりとまだ最近まであったんですねぇ。
ねぇ〜、もうこれだから、専門家と素人のボーダレス化が進む訳ですよ(^^;)

場所と写真は控えますが、松戸宿には「首を取る=1位を取る」と心無いギャンブラーたちに首を取られたお地蔵様などを供養されている寺があります。

もしかしたら「切られ庚申」の逸話も...鮮魚道で稼いだ銭(駄賃)を
松戸宿の遊郭や賭博で散財した野郎(荷駄人足)の苦し紛れの言い訳だったのかも?(笑)

鮮魚道ポタリング関連[1][2][3]...本記事[4]にて 了。


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2011年10月06日

posted by たすけ at 12:25 | Comment(12) | TrackBack(0) | ちばらきチャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本シリーズ、サラの「松戸市祖光院と・・・」からトリの本編まで楽しく拝読し、
さながら寄席に行った様な心地でした。
白井市にも関心を持っていただけたようで、これからもぜひたびたびお越し下さい。

「東葛学」の件、これからは領域を広げ「下総学」で行きませんか?(笑)
Posted by 愚兵衛 at 2011年10月06日 13:27
>愚兵衛さん
ホントに白井の里山風景に魅せられました。
ちょっと前まで流山にもたくさんあった風景なんですが、TX開通で流山の里山は激変です(T_T)

下総学...いいっすね^^
てなことでこの記事のカテゴリは、ちばらき=下総にしておきました♪
Posted by たすけ at 2011年10月06日 20:00
さすけさんが詳しく書いてくれたお陰で、やっと鮮魚街道の全貌が見えました。

香取海が現在の低地を被っていた頃の下総台地は、まさに、複雑な形をした「島」だったわけですね。
とすれば、その島の沿岸部に建てられた神社は、船乗りにとって、航路を決定する指標の役割を果たしたのだと思います。

江戸期の日本橋河岸の絵を見ると、大きなマグロがたくさん登場します。
と言っても、遠洋漁業をやっていたわけではないので、2〜3尺のものが多いですね。
房州から運ばれたマグロもあったと思いますが、銚子から馬のキャラバンを組んで運んだ物もあったのではないかと思います。

今後とも、下総学の発展に尽くしましょう!
Posted by 断腸亭 at 2011年10月07日 08:14
>断腸亭さん
いえいえ、私というより"かわさきさん"さんはじめ"深化サイト"のお蔭さまです^^;
...ん?あれ??サスケさんか?ま、どちらにしても他サイト様のお蔭さまです^^

...マグロのサイズ
あ〜!そうか!!常々歴史は現在の尺度で考えては駄目だと自戒していながら
ついつい、TVで築地市場に出てくるようなマグロ思い浮かべていました。
考えてみれば、日本人のサイズも江戸時代は最小サイズでしたね^^;

明日からの3連休天気絶好のようですが
今度の土・日は、仕事や用事で自転車乗れません(泣)
Posted by たすけ at 2011年10月07日 16:37
たすけさん、こんばんは!

3部作読ませて頂きました〜、
やっぱり、たすけさんの記事は楽しいですね。
先週のポタの内容がよーっくわかります。
常夜灯の写真が、、心霊写真の説明みたいでおかしかったです(すみません)。

僕は日曜日に流山(バスケ)に行く予定があります。
自転車が良かったんですが、運転手兼任なので、残念ながら車なんですよね〜。


Posted by ワンチャン at 2011年10月07日 20:57
>ワンチャン
どーもです♪
いっそ心霊スポットポタでもやりますか?
いえいえ、「それだけはやるな(--;)」と
役所の友達から釘を刺されております(笑)
Posted by たすけ at 2011年10月07日 21:22
地元の歴史が良くわかる記事ですね。木下街道は、私も行徳に住んでいる関係で、利根川に抜ける道として以前から使っておりました。芭蕉の鹿島紀行なども本所深川あたりから船で行徳に出て、八幡から木下街道で木下(布佐)に着きます。
しかし、鮮魚(なま)街道は知りませんでした。手賀沼の下を通りますが、これは農免農道そのものでしょうか、それともその横の一般道なのでしょうか。どちらにしても、裏道っぽい道ですね。

みなさんのblogを見ていると、教えられるところが大きいです。わたしも木下街道が魚を運ぶ街道だと思っていました。松尾芭蕉もこの道を通って鹿島に行きましたしね。
ご紹介の道は、一種の裏道だったのでしょうね。
Posted by kincyan at 2011年10月08日 04:46
たすけさん、おはようございます
鮮魚道ポタの1週間後に、ようやくのコメントです(苦笑)
いやぁ、それにしても充実したコンテンツですね。
たすけさんを鮮魚道にお連れした甲斐がありました(笑)
そういえば、実は私もつい最近まで、鮮魚道=木下街道だと思い込んでいました(苦笑)
東葛・印旛地域は歴史が重層的に重なっていますから、歴史ポタにするといろんな企画ができそうですね。
では、またよろしくお願いします。
Posted by 東葛人 at 2011年10月09日 07:05
たすけさん、こんばんは。
私も月影の井戸に行ってがっかりした一人です。(苦笑)
それにしても、たすけさんの記事はいつもとても面白く、楽しく読ませていただいています。
またよろしくお願いします。
(カスクの取り扱い店のアドレスを載せておきます。ご参考までに。http://www.rinproject.com/
Posted by 鉄ポタ at 2011年10月10日 00:01
>kincyanさん
コメント遅れてすみません。土日出掛けておりようやくPCの前です。
私の生家は流山町加(加村台)で諏訪神社に至る諏訪道の街道沿いでした。
諏訪道は利根川布施(柏市)に至る布施道につながります。
この街道で鰻が運ばれたことは、間違いないと思うのですが
私の知っている限り地元の人間でそれを鮮魚道と言ったことを
聞いたことがないんですよねぇ^^;

ともあれ、自転車に乗るようになって往時の面影を探すルートはとても楽しいので
下総に残る鮮魚道ポタはまだまだ続きがありそうですよ^^
Posted by たすけ at 2011年10月10日 00:12
>東葛人さん こんばんわ
今回ご企画頂いたポタの呼びかけで真っ先に"あのお方"のこの記事
http://ikawa67.seesaa.net/article/67402725.html
を振りかえりまして、私としてもまさに4年越しの待望ポタでした♪
もし、鮮魚道ポタが1週間ずれていたら私が参加できず、大粒の涙を流していたことでしょう(笑)

その記事の直後から愉しい東葛ポタに参加させて頂くようになりましたが
今後も東葛・印旛地域の歴史ポタのご企画を楽しみにしておりま〜す♪
Posted by たすけ at 2011年10月10日 00:28
>鉄ポタさん
お褒め頂きありがとうございます。
私というより、東葛人さんや愚兵衛さんの企画力(ルート選定)と、先人"深化サイト"のおかげです^^

今回のポタ中でも結構お仲間の中に、隠れ鉄チャン&鉄子がいることが判明しました(笑)
是非、小径主体の[まったり&乗り&撮り]鉄ポタご企画をされてみてくださ〜い♪

PS.差し入れ飴&カスク情報、ありがとうございました♪
Posted by たすけ at 2011年10月10日 00:46
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