ちばらきチャンネル
江戸落語で大川と言えば隅田川のことで、落語好きな方はご周知だと思います。江戸時代の隅田川は今よりずっと川幅が広く、かといって単調な一定の川幅でもなく、砂州もあったり狭い部分もあったりと、景観的にも美しかったので江戸庶民の観光スポットだったようです。
東京湾へは大川(隅田川)よりも、もっと川幅の広い太井川(太日川)も流れていたはずなのですが、これについてが不明です。たぶん太日川は湿地帯(広大な葦原)を、幾筋にも分かれて、うねうね流れるような川であって、景観的にも面白みがないので、あまり絵も記録も残っていないのかなぁ...
まぁ、江戸初期においては防衛上の理由から、江戸府内に至る水上路を描いた地図はご法度であった...てな解説をどこかで読んだ記憶もありますが。

先代より落語が上手いとか下手とかではなく、脳に刻まれた顔の記憶がそう判断してしまう...ということですが。たぶんこのお二人を話題にするとき、まだ林家こぶ平、三遊亭楽太郎と言ったほうが多くの人に通じると思うのです。
平成になって天皇陛下と言われても、すぐ浮かぶのは昭和天皇の御顔であって、今上天皇をTVで観ても皇太子さまと言っていました。ところが、「表の家」の『皇太子さまと房総』を表題を見て逆に「現皇太子殿下(浩宮様)」の御顔が先に浮かんだことで、「あ!ようやく脳が平成の世に対応した」...と実感しました^^;
前記事で、広重が「鴻之台とね川風景」と題したのはそんな理由もありかな?と。
つまり、この版画が発表された時代の人々にとって、江戸川といっても馴染みがなく、旧呼称の利根川と冠した。
それでなくても、江戸時代は大規模な河川改修・変遷が多くて、河川名称が頻繁に変わりましたから、多くの人々に伝えやすいのは、当時いちばん伝えやすい名前にしたのだろうと思います。
実際、利根川東遷後もここを利根川と表記している文献が多いです。
え?ちょっと待って?じゃあ太日川はどこにあるの??

そのつとめて、そこを立ちて、下総の国と武蔵との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物など渡す。(その翌朝、そこを立って、下総の国と武蔵の国境になっている太日川という川の上流の「まつさと」の渡し場に泊って、夜通し、舟で少しずつ荷物を渡す。)
これは、更級日記(菅原孝標女=すがわらのたかすえのむすめ)の4日目の紀行(行程)文で、この「まつさと」は現在の松戸??なんせ千年も前のことで、作者本人も50歳を過ぎて12〜13歳の頃を回想して書いている訳ですから曖昧な部分が多いのですが。
引用させて頂いた更級日記の行程地図は、市川市にお住まいで松戸でインターネット園芸店ポトスを経営されている「松太夫さんの更級日記紀行」から拝借&加筆致しましたm(_ _)m 特に【菅原孝子、東海道を京へ上る】 のコンテンツは、日記を現代語で実に読み易く書かれていますので、古典が苦手な方でも更級日記入門には、超おすすめです♪
松太夫さんは、まつさと(松里)を、市川市内としていますが、私もまつさと=松戸ではないと思っています。上総国府(市原市)から出発し海岸線沿いに西進して、市川に到達したことは間違いないとは思いますが『夜通し、舟で少しずつ荷物を渡す』とすごい荷物だったようで、わざわざ松戸まで行くのは不自然だし、今回、官道が上小岩から伸びていることを断腸亭さんにご案内頂いて、ますますそう思いました。
...で。私にとって最大の関心事は、太日川が現在の江戸川かどうかなのです。
更級日記で菅原孝標女も通ったであろう、古代東海道のスタート時点で国府台方向を見た時に
「平安時代にここに大きな流路はないだろうし広重の絵のような断崖はあり得ない。」
1)下総国府(国庁)へ上がる道の省略はいいけどいくらなんでも傾斜が急すぎる。
2)すぐそばに上小岩遺跡(古墳)があるとすれば、大河がここにあるのは不自然。
3)たぶん戦国時代(国府台合戦)までに、斜面林下のハケを拡充して掘割とした。
要は、国府台断崖下の流路は鎌倉〜戦国時代に造られたもので、更級日記の時代はハケの道の小川程度か、せいぜい反対側にあるじゅん菜池程度の小沼であり、江戸時代にそこを江戸川の流れにつなげたのであろう。...と推測いたしました。
国府台直下に大河がなかったと仮定すると
『太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて』の部分の謎ですが...
1)太井川(太日川)は、現代より西寄りで中川に近いあたりをうねうねと流れていて。
2)荷物運搬は川の流れも利用し 上流の船着き場→下流の船着き場 が原則。
3)菅原孝子ちゃんが泊まったのは太日川船着き場(上流位置)という意味。
4)乳母が居たのは官道(古東海道)脇の自然堤防上の集落(現京成小岩駅近辺?)
ではないかなぁ・・・どこかにそんな確証が持てるサイトないかなぁ...
と探していましたら。もの凄い詳細なサイトがありました♪
"かたばみさん"が運営する古代で遊ぼ の中の 江戸川は下流域も人工河川です。
もの凄い詳細で専門的(マニアック)ですので、ご興味のない方はスルーしてくださいf(^_^;
ただ、文章は飛ばしても利根川東遷概史の示されている地図を上からざっと見るだけでも、河川変遷の様子がよくわかりますよ♪
...って。それではあまりにも手抜きのご紹介になってしまうのでf(^_^;

この地図は、上記「江戸川は下流域も人工河川」のコンテンツから抜粋させて頂きましたm(_ _)m 画像サイズの都合で、全部は網羅できなかったのですが、8月13日に断腸亭さんにご案内頂いた範囲を抜粋しています。地図中の古奥州道?が古東海道です。我々は当日この直線を走りました。
そして...なんと!?当日ご参加の皆様!!

猛暑の中、我々がガリガリ君休憩をしたこのコンビニあたりが、かつて太日川があったところで、更級日記の「まつさとの渡し」と推測されるのですよ!
まぁ話半分としても、その奇遇さに嬉しくなっちゃいますよねf(^_^;
迎え盆、ミンミン蝉に見送られ、水元を立ちて、古東海道いふが道の途、あつさとまらず輪とめにて、ひとときがつがつ氷など食らふをのこら。...ってところでしょうか?(笑)
ところで更級日記の更級とは?
作者の夫の任地が信濃の国の更級であり、そこには姨捨山があります。また更級日記の終わり近くに「月もいでて闇に暮れたる姨捨(をばすて)に何とて今宵たづね来つらむ」とあり「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集)に因すると言われています。つまりは、作者自身を「をばすて」と観じ、その縁をふくんで『さらしな』としたのではないかというが通説です。
断腸亭さんのブログによくコメントを寄せられている、相子老婆的山南海北的話ブログ主の相子さん。傘寿を迎えられて、なお正確な記憶力。そして平明な文体、含蓄ある内容に「これぞまさしく、現代の更級日記だ!」と密かに愛読させて頂いているのはここだけの秘密です(笑)
ご企画頂いた...断腸亭さん お見送り頂いた...ミンミンさん
ご一緒頂いた...しゃあさん、横山さん、joypapaさん、kaccinさん、TCR-Nさん、bunaibuさん
ジャスの紳さん
資料ご提供頂いた...道草亭ペンペン草様、松太夫様、かたばみ様
時々立ち寄ってくださる...相子様
皆々様に多謝でございますm(_ _)m
次回は水路を廻るポタ企画とのことで、楽しみにしております♪
あおと...もとい...おあとがよろしいようで...この項 了。





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われわれが休憩したあたりが、古代東海道の「まつさと」の渡しだったとは、面白いですね。
「古代で遊ぼ」の江戸川人工開削説は、非常に綿密な論立てがされていて説得的ですが、その正否については、私には判断つきません。
私の推測ですが、古代東海道は、王朝支配が終わった後は、権力による保線が行われなくなって、きわめて不安定な道だったのではないかということです。
しかも、たぶん、道筋としては真っ直ぐで便利な街道だったのですが、当時の推定渚ラインからして、1キロ以内に海が迫っていましたので、最下流域の土手状の道は、度々決壊したものと思われます。
もっと安定した道は、やや大回りになりますが、旧水戸街道だったように思います。
旧水戸街道の道筋は、たぶん、古代には既に存在していたのではないかと思われますが、平安期には、駅と駅とを一直線に結んでいた訳ではないので、まあ、二級国道だったかもしれませんが、陸地になってから、約700年ぐらい経た土地に通された道だったので、安定感は抜群だったと思います。
ですから、もしかしたら、孝標女は、鎌倉街道下道の元道を辿って、現・松戸→金町→新宿→亀有→堀切→鎌倉下道→住田宿で隅田川を渡った可能性もあります。
墨田区内の鎌倉街道下道は、もしかしたら、古代東海道よりも古道だった可能性があるからです。
いやあ〜、面白いですね。
こんな「思いつき・思い込み・思わせぶり」の記事に、過分なるお褒めの言葉ありがとうございます(笑)
それにしても、ペンペン草さんや松太夫さんはじめ、多才な趣味人が多いのに驚きますねー。
色々な見解があってほんと楽しいです♪まぁこれが素人(知ろうと)骨頂でしょうか?
...って。駄洒落しつこい??^^;(自爆)
書く度に若き日の不真面目さと勉強不足を悔いております。
ご面識・ご了解もないまま勝手に拙ブログに掲載してしまい、恐縮しておりました。
コメントを頂き、安堵いたしました(^_^)
富士登山の記事は娘の件もありますが、相子さんのゼミナール30周年の記事に触発された次第です。
私こそ学生時代はまったく不真面目でして、今頃になってようやくフィールドワークの面白さがわかってきたような気がしております。
PS.お目もじ...恥ずかしながら、はじめてこの言葉を知りました。
そして早速、別な方へのコメントに使わせて頂きました(笑)
むかし、現在の江戸川から中川あたりまでは流れの決まっていない川が何本もある低地で、大雨が降ればそれこそ川幅の太〜い「ふとゐ川」になったのでしょう。その中で少し小高い茂みには「葛」が群生していたから「葛飾」ではないかと。
葛飾に東西南北が付く地名で考えても、「この低地=ふとゐ川=葛飾」の正体のように思えます。
ついでに、「まつさと」は市川市北部の江戸川近くではないかと。ちなみに市川の「市の木」はクロマツ。
「松戸」は川を渡るため陸路の終端にあたるので「馬つ処」と考えたほうが無理がないみたいですね。
うっひょう〜 おひさおひさ。
ふむふむ、なるほどなるほど。
俺もふとゐ川はおそらくそんな川だったと思います。
ただ単純に自転車で走っていて「なんで土地の高いほうに流れが向く??」
という素朴な疑問から記事にしてみました。
PS.自転車仲間がヨコスカのファンで欠かさずコンサートに来て頂いているようです^^