昭和40年代の追憶
子供に怪我なんぞはつきものである。というか、多少の怪我をしながらだんだんに危険回避能力を身につけていくものではないかと思っている。
思えば男3人兄弟の私であるが、3人が3人とも小1で怪我を負っている。
末っ子の怪我が一番大きく、当時家で営んでいたおもちゃ工場のベルトコンベアーのギアに腕をもっていかれて複雑骨折。
小学校に入学直後であり、確かな記憶はもう薄れたが、たしか奴はちゃんと学校に行けるようになったのは、2学期からではないかと思う。
よく覚えているのは、入院中に同室で親切にして下さった青年が将棋好きで、弟は小1の1学期は病室で将棋三昧となり、兄弟3人の中で一番将棋が強くなっていたことだ。
さて、それに比べれば私の怪我などたいしたことはない。
ひろっぱに遊具が揃い出し、やんちゃな子供たちはそれを規定通りに使っておとなしく遊ぶようなことはしなかった。
ゴンドラ式?のブランコでは、片側に5〜6人立ち乗りし、思いっきり反動をつけて、これでもかというくらいに揺らす。もう片側に乗った1人が最高点までゴンドラ上がったタイミングで飛び降りその飛距離を競った。
通常の1人ブランコでも、ほとんど水平近くになるまで揺らし、その勢いで飛び距離を競ったが、やがてそれも飽きてくると、海老飛びという、後ろ向きで飛ぼうと云うことになった。
要するに、後ろ向きでブランコに乗り、最高到達点に達したときはケツが空を向き、頭は地面を向いている、そのタイミングのほんの一瞬前に、エビのようにケツから飛び出して飛ぶのである。
さすがに、最初は怖かった。しかし、だんだん慣れてくると飛距離の争いがエスカレートしていき、通常の乗り方同様に大きく反動をつけられるようになっていた...
そして、何度目かのジャンプの時着地に失敗した私は腕で身体をかばった。
....ペキっ!....あれ!?Σ( ̄ロ ̄lll)なんか音がしたぞ....
次の瞬間、腕の痛みに耐えかねてその場にうずくまってしまった私を心配して仲間が母を呼んでくれた。
「ハイ!見事な骨折です♪ ほらほら、きれいに折れている(^^)v」
後年、何度もお世話になった、接骨院のヒゲ先生がレントゲン写真を見ながらとても明るく言った。
それからしばらくの間、首から大きな三角巾で腕を吊るして小学校に通う私が居た。とりあえず怪我人なので、そのしばらくの間だけは集団登校時に上級生が優しく接してくれた記憶がある...
.....ひょっとしたら
今でも私が、いわゆる遊園地の絶叫マシンが大好きなのは、この時の上級生の優しい気持ちが、脳裏に残っているからなのかもしれない.....

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