流山チャンネル
10/25の流山裏道ポタリングについて、全部ネタばれさせちゃうと当日の楽しみがなくなりますので... 味醂の町流山と、流山線のエピソードだけ簡単にご案内しておきますね。
当日は万上味醂(みりん)から出発して、ぐるっと地図の外を大回りして、最終的に天晴(あっぱれ)味醂に戻ってくるというルートなのですが...流山の町民鉄道として発足した流山線は秋元家や堀切家などの味醂酒造家の財力がなかったら誕生してなかったでしょう。

1961(昭36)年当時の地図の赤い実線は流山線です。点線は流山線の引込線で両方ともすでに線路はありませんが万上味醂の工場に向かっている引込線は現在も道路として残っていますので名残は感じられると思います。
旧陸軍糧秣本廠流山出張所(糧秣本廠=りょうまつほんしょう)への引込線の当時の名残は全く残っていません。そこが元陸軍糧秣本廠であったという名残は石碑に残るのみです。もっとも私が、この陸軍糧秣本廠跡の脇にある流山幼稚園に通って居た頃は、すでに焼酎などを造る工場になっていて、行き帰りにその焼酎工場から漂ってくるサツマイモ?の匂いが苦手で、いまだに芋焼酎は苦手です(苦笑)
まだ平和台の造成が始まっていないので、飛地山の射撃場(クレー射撃)跡が写真でわかります。
大正時代に流山飛地山射撃場には西寄りに六つの射撃台があり、空薬莢があたりに散らばっていて、当時の子供たちは射撃練習が終ると、先を競って薬莢を拾い集めていた。この飛地山射撃場には、宮家がお忍びで来ていて宮様一行は、秋元家まで馬で来て射撃の練習をしたり、宿泊して日の出前後の江戸川の葦原で、鴨や鷭撃ちなどを楽しんでいた。
昭和33年生れの私は、もちろん空薬莢は拾っていませんよ(笑) ただ幼い頃に、この飛地山の中にあった洋館で紅茶をご馳走してもらったことがあり、まるでここの空間だけ軽井沢の別荘地のような場所であったことを記憶しています。
赤城山(赤城神社)境内の風情は今も変わっていませんが、天晴(あっぱれ)味醂発祥の地は→三楽オーシャン→メルシャン→現在更地となっており赤城山が流山街道から丸見えになっています。
この赤城神社からすぐがゴール地点の旧流山橋になります。いつまでも旧橋桁が撤去されないのは、終戦時に旧日本軍が橋脚下に爆弾を処分したという噂があったからですが....

実際に大量の小銃弾・機関銃弾・砲弾や銃剣・機関銃などが自衛隊によって発見された時はさすがに仰天しました。
流山裏道ポタではTX(つくばエクスプレス)開通によって分断されてしまった旧道を多く走りますが...TXの影響で、我が愛すべき流山線もかなり経営が苦しくなっているようです。
十数年後、この写真の実線が点線に変わらないことを祈るばかりです。





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もっと早く、こっそり掘り出していれば、武装蜂起ができたかもしれません・・・。
たすけさんの記事を読んで、銚子沖に投棄された旧日本軍の武器弾薬こと思い出して、以前に書いたものを、ブログに再録しました。
http://danchotei.blog75.fc2.com/blog-entry-394.html
25日、いよいよ楽しみなってきましたが、先日、クルマと衝突事故を起こして、今は自転車に乗ることができません(クロスバイクは廃車!)。
でもたぶん、来週には復帰できると思います。
事故を知らずに断腸亭さんのブログに能天気なコメント書いてしまいました。
バイクは廃車なのに本人は来週には復帰って...
相当受身が上手か、身体が頑丈、ってことなのでしょうが、また裏道ポタはいつでもやりますので、どうぞご無理なさいませんように...
もし25日当日参加されても、断腸亭さんは自転車での崖下りは、ゆるさんと一緒に自粛してください(苦笑)
へぇ〜、それは知りませんでした。
確かに小学生の時に、風呂場の改造か故障か忘れましたが、家風呂が使えなくてご近所でもらい湯をしていたのですが、いつもいつもでは申し訳ないと、流山線を使って馬橋まで銭湯に何度か行ったことがあります。
その時にはすでに江戸川台に銭湯があったと思うのですが、当時は自家用車がなかったのでわざわざ流山線に乗って銭湯なんてことをしていたんでしょうね^^;
50オーバーの流山の常識なのかな、お湯運んだトウホウの名前は良く聞きました、撤退のさいに市役所が人材の雇用を一気に引き受けた
ってとこまでは聞いてます
私は50オーバーですがトウホウさんとか、全く覚えがないんですよねぇ。
昭和30年代前半までに造られた流山の市営住宅に風呂がついてなかったのは
そういうお湯の配達があったからなのでしょうかね?
トウホウでは質の悪い焼酎を作っていた
やっていけなくなったんでしょう、私の子供の時はメルシャンに代わっていました
配達ではなくリヤカーや天秤棒?って言うんですかね、肩に担いでバランスを取る、で取りにいってたみたいです。うちは近いからかな?
昭和50年代まで[家に風呂を作る必要]がなかったってことですね
あ!トウホウさんって東邦酒類のことですか?今理解しました^^;
お湯を運んだ...運送会社の事かと読み取ってしまいました(^^;)
だいぶ以前に帝国清酒→帝国酒精→東邦酒類の→三楽オーシャンの変遷
http://www.city.nagareyama.chiba.jp/section/hishokouhou/sanngyousi/sangyousi7.htm
で勉強させて頂きました。でも私が小学生に上がる時にはすでに三楽オーシャンになっていたので
(さらにメルシャンと社名変更したのは、1990年くらいなのかな?)
私の同級生同士では「ケーズデンキの裏だよ」というより「三楽オーシャンの裏だよ」
という会話で、場所を説明する癖は抜けてないですね(苦笑)
[昔はキッコーマンで働いてると良かったんだよ、まだ畑仕事してる時間に風呂入って酒飲ましてくれるんだよ、そこでならいくら飲んでも良いけど持って帰っちゃいけない]
この話を他の人にも聞いてみた
さすがに子供の時から通った駄菓子屋だ、色々教えてくれた
営業時間8時〜4時のくせに4時きっかりに鼻赤くして出てくるんだよ、全部終わらせて。昔はフラフラしながら中村に向かってく人とかいてよ〜[現、中の事]
って言ってました。
すごい逸話ですね(^^;
もっとも当時はキッコーマン(万上)と東邦酒類で流山町税収の6割を
占めていたそうですから、さぞ就職希望が殺到したでしょうね(^^;
一つ輸出品があれば他の町に輸出してカネを町に引き入れる。そのおかげで町は潤う。だからこその特権階級、だからこその特別待遇、簡単な説明でいう勝ち組。
そして労働組合が強かった時代に農家を積極的に取り入れた、首にしてものたれ死ぬ事が無いように
祖父のセリフは畑仕事をしなければいけなかった自分と、正直キッコーマンで働いてる兄貴を羨ましがる気持ちからきてるんだと思います。
万上味醂の堀切家は、野田の茂木・高梨家と合同で堅実に経営し
天晴味醂の秋元家は、流山の文化隆盛におおいに寄与しましたね。
秋元家は散財してしまいましたが、私は秋元家に畏敬の念を持っています。