失われた30年 / アルバイト時給の追憶

■昭和の追憶

失われた30年と題していますが、その答えは最後の方です^^;

1979年(昭和54年)十条のスナックでアルバイトしていた21歳の頃。
この店は戦後間もなくバーとして開店した店で、その名残りが残っていました。
カウンター席が中心でお客様もグループでワイワイ来るというより、たいてい1人か2人連れで来るお店で、常連のお客様同士がカウンターで昔話や世間話に花を咲かせます。そんな自分の知らない昔話や、にわか政治評論を傍らで聞いている時間がとても好きでしたf(^、^;

東京兵器補給廠(TOD)

戦後の北区十条周辺は東京兵器補給廠(TOD)があり、進駐軍(米兵)もこの店のお客様だったそうで、そう言えばこの店のBGMは1950年代の洋楽やジャズが定番でした。
私が生まれた1958年(昭和33年)に東京兵器補給廠地区が日本に返還され、陸上自衛隊十条駐屯地になりました。※注:海自や航自は基地と言いますが、陸自は駐屯地と言います。

時折
「久しぶりに来たよ」という自衛官OBのお客様が来店する事がありましたが
だいたい10年ぶりとか、長くても20年ぶりの久しぶりという事になります。

ところが
「あらぁ?久しぶりねー」
「そうだねぇ、30年ぶりだねー」


長く、地方勤務だった会社員のお客様が30年ぶりにいらした時。
21歳の私にとって、自分の人生の時間よりも長い30年という時間の実感がなく。同時にそんな長い時間を経ても、ごく普通に会話が進む状況に、まるで異空間に迷い込んだような気分になったことを覚えています。

実際自分が、波平さんと同じ54歳となり、30年前の事をこうしてブログに綴っている訳ですが・・・
もし拙ブログを10代や20代の人が読んだら、異次元の世界として読まれているかも知れないですね(苦笑)

さらに異次元の話として・・・
サザエさん一家で、1895年(明治28年)生まれの波平さんが2012年の今年117歳。
サザエさんは、1922年(大正11年)生まれで、今年でちょうど90歳。
タラちゃんは、原作で1947年(昭和22年)or1948年(昭和23年)なので今年65歳。
タラちゃんは、ちょうど団塊の世代になるのですね。

昭和40年の漫画ではマスオさん(28歳)月給が32,000円となっているらしいのですが、
原作通リにマスオさんが1917年(大正6年)生まれの32歳(昭和24年当時)だとすると
本来のマスオさんの月給は、3500〜4000円くらいだったのではないかと思います。
月給3500〜4000円って、私にとっても異次元の世界です^^;

やがてタラちゃんが大卒で1970年に就職したと仮定して大卒初任給の変遷は。

1970年(昭.45) 40,000円
1975年(昭.50) 91,000円
1980年(昭.55) 118,000円
1985年(昭.60) 144,000円

うん、まぁ、これくらいだったような実感があります。
でも、私自身はすべてまだ小学生〜大学生の期間なので月給の体験はありませんから
タイトル通リ、昭和50年代のアルバイトの時給について書きたいと思います。

昭和50〜54年(1975〜79年)
高校生や卒業後、流山市内の飲食店でアルバイトした時が、時給330円〜350円くらい。
大学生なり上京して、都内の飲食店でアルバイトした時が、時給400円〜450円くらい。

そして昭和55〜57年(1980〜82年)
配膳会に所属して皿洗いから〜ホールでアルバイトした時が、時給600円〜800円くらい。

バブル景気後の1991年以降、失われた20年と言われる「平成大不況」の現在。
2012年(平成24年度)地域別最低賃金改定状況を見ると最低賃金(時給)が、650円〜800円となっています。

私の場合は、少し恵まれていたかもしれませんが
1980年(600円)〜1982年(800円)と比較すると
30年経ってもアルバイトの時給が変わってない事を鑑みれば
「失われた20年」ではなく「失われた30年」ではないか?

なんだ、「いい時代を過ごしやがって」と今の若者は思うかもしれませんが・・・
しかし、時給や月給は上がらなくなりましたが、この30年で物価も変わっていません。
いや、むしろ食費や旅行費用などは安くなったと思います。

例えば1980年当時は、牛丼(並)も喫茶店のコーヒーも350円くらいでした。
何より1980年当時の円相場は、1ドル=250円くらいでしたので、海外旅行は現在の3倍以上の費用がかかりました。私自身は、海外に卒業旅行に行くことなど叶わぬ夢でしたが、どうやら娘は来年の卒業旅行は海外に行くことになりそうだと。娘は飛行機が苦手なので、あまり乗る気でないようですが、私にすれば贅沢な悩みです。


現在(いま)...私は、こうして取留めのない追憶をブログに綴っていますが、すべて戦後の体験です。でも、愛読させて頂いているブログには、80歳代のブローガーさんがいらして、戦前・戦中・戦後の体験談や、当時の生活ぶりを綴られています。すごいなぁー70年前以上の追憶です。

...で。そんな追憶を読ませて頂く時。
十条のバーカウンターで、常連さん達の話を聞きながら感心していた
30年前と同様な気持ちになるのですf(^、^;


2012年08月29日

posted by たすけ at 23:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■昭和の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷109のモンテローザと那須高原レスランモア

昭和50年代の追憶

今から約30年前の昭和55年(1980年)
大学(美術部)の先輩が、渋谷109のモンテローザを紹介してくれました。

「時給600円のバイトあるけど、やる?」
「やります!やります!なんですかそれ?」
「渋谷109のレストランで皿洗いなんだけど」
「飯付きます?」
「賄い飯が食えるよ」
「是非、是非、やります!」


当時、それまでのバイトは時給450円くらいでしたから、600円は好条件です。
でも学生時代、私が飲食店のアルバイトにこだわったのが時給より飯付きです。
なにせ、一食、食費が浮く...これ長い学生生活ではとても重要な節約術です。
毎年夏に、那須高原のレストランに出稼ぎ先に行っていたのは3食付きだからでした。

渋谷109(2012年)

渋谷109は1979年(昭和54年)に開業したばかりで、当時はコギャルほとんど見ることがなく、ターゲット客層は20〜30代のOL層だったように記憶しています。いずれにしても私には興味がないので、109は通用口からバイト先のイタリアンレストラン「モンテ・ローザ」の往復ばかりで、その他の109店内の記憶は全くありません(苦笑)

最初の2ヶ月だけ皿洗いでしたが、店がどうにも忙しく繁盛して、ホールの人間が足りません。
元々私は飲食店のバイトが多く、料理皿を片手に4枚乗せる事は既に出来ていましたので、急遽皿洗いからホールに回るようになりました。

「モンテ・ローザ」は、やがて東急東横店の1階・ハチ公前に喫茶店をオープンさせて、そのオープン時のホールスタッフになりました。これらのアルバイトは東急との直接契約ではなく、私はある配膳会(ホテルや宴会場に配膳人=ウェイターを派遣する会社)に所属していました。

なので、自分の空き時間を連絡しておけばいつでも派遣要請があり。
昭和55年にオープンしたホテルセンチュリーハイアット(新宿)の他、都内各所のホテルの宴会や結婚式に、ウェイターとしてアルバイトしていました。有名芸能人の結婚式などは、先輩(ベテラン)ウェイターに招集がかかりますので、私は某女子プロレスラーの結婚式くらいしか記憶にありませんがf(^、^; また、年末年始の宴会は特別手当が出るので、大晦日や正月は稼ぎ時でした。

大学4年の後期、教育実習も終わり
1982年(昭和57年)には、時給800円くらいになっていて。授業も少ないのでフルにアルバイトができた月の収入は28万円くらいになっていました。そんな時は、自分が学生でありながらも三男(弟)の学費の為に、家に仕送りが出来ました。

また、晩酌の習慣もなく、ほとんど下戸に近い私ですがf(^、^;
当時学生でありながら仕事(アルバイト)終わりに、渋谷センター街の奥にある「門」に週一ペースで通って、一杯ひっかけながらバーデンダーさんとの会話を楽しみにしていました。

そうそう、夏休みの栃木県那須高原での住込みアルバイトも5年(回)続けましたが
ある晩の閉店間際(23時頃)に、お客様が

「ごちそうさま。じゃ、タクシー呼んで」
「かしこまりました。どちらまですか?」
「うん、六本木まで」
「あの...どちらの六本木ですか?」
「東京港区の六本木」


折しも1979年(昭和54年)にエズラ・ヴォーゲル著のジャパン・アズ・ナンバーワン[Japan as Number One]が出版され。もしかしたら日本は世界第1位の経済大国になるかも?「日本の驚異的な経済発展をアメリカの鏡にせよ」と言われた時代で、誰もが時給も月料も右肩上がりに伸びていくものだと信じていました。

次記事は、「失われた30年」...ってタイトルにする予定です^^;

2006年5月21日筆...2012年8月28日加筆

2012年08月28日

posted by たすけ at 22:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷ハチ公前のモンテローザ

昭和50年代の追憶

先日、久しぶりに渋谷に行って、渋谷ハチ公前のモンテローザを思い出し。
そこでハチ公の向きの違いに気づいた訳なのですが^^;

昭和のハチ公

私がまだ学生だった30数年前は、ハチ公は東急東横店に背を向けていました。
ハチ公前には噴水があって、六大学や東都大学で優勝が決まると、優勝校の学生はハチ公に跨り校歌や応援歌を歌い、ハチ公前の噴水にダイブしていました。母校が優勝した時も、うちの部員(美術部)が噴水にダイブして、ノズルで額を割って噴水の水を赤く染め、部長が交番で始末書を描かされたことがありましたっけ。そんな事は結構あったようで、大学野球の決勝戦の日はいつまにか、噴水の水が抜かれているようになりました(苦笑)

東急東横店(2012年)

学生時代最後アルバイトは、そんなハチ公前にあった東急東横店1階に開店したばかりの「モンテローザという喫茶店」でした。店は、ハチ公のすぐ裏側(当時は背中側)で、待ち合わせ場所のメッカでしたので、めちゃくちゃ忙しかったです。

コーヒーは、当時では珍しい自動抽出機でしたで、注文から3分も立たずに出すのですが、その間に全面ガラス越しで待ち人をハチ公側に発見すると、代金だけ払って店を出るお客も少なくありませんでした。
しかし、特に金・土の夕刻になると、全面ガラス越しに見えるハチ公前はラッシュアワーの電車内のごとく人、人、人、だらけでほとんど頭しか見えませんでした。

店内は1Fですが、ステップ3段くらい上がるのでハチ公広場より目線が高く、また暗くなると店内がまる見えになるで、ハチ公側から店内に待ち人を探す、目目目(笑)
また、あきらかに人探し為だけにオーダーをせずに店内に入ってくる人も多かったです。

夜11時の閉店の際、大きなシャッターを電動で下ろすのですが、ガラスに背をつけて座り込む若者や、酔って寝てしまっているおじさんたちをシャッターの下りる位置からどいてもらうのが、これまた大変でした。

それは、どんなに起きなくても、決して身体に触ってはいけないというルールです。
親切心で酔った人を介抱してあげても、いざ財布がないと言い出した時に、あらぬ疑いをかけられぬようにするためです。都会のルールの厳しさでしたねぇ...

ゆっくりくつろぐような店ではなかったので、いわゆる常連のお客さんはあまりいませんでしたが、強いて言えば宝くじ売り場のおばちゃんおねえさん達だったかなー。
休憩&トイレに利用されていたけど、我々も時々宝くじを店内で購入させてもらっていました^^;

おねえさんと言えば...
ほぼ毎日のように1人で来店して、いつもきわどいファッション(身体の線が見えるような)のアジア系のおねえさんがいました。

注文以外、ほとんど会話したことはありませんでしたが、いつもニコニコ笑みをたたえていました。しばらくしてから先輩アルイバイターに、あの人はコールガール(売春婦)だと聞かされて、そういえばたまに同席する男性は、みなギトギトしたお金持ち風なおじさまばかりだった。

もう1つ、おねえさんネタで言うと...
早番をしているとデパートの化粧品売り場のマネキンのおねえさん方が来店します。
そんなマネキンさんのうちの1人が、先輩アルバイターの彼女だったのですが・・・

ある朝、早番シフトの時に、その女性から「おはよう!」と挨拶されたのですが。
まだ戦闘モードでないほとんどスッピンだったので、誰だかさっぱりわからず^^;
化粧の凄さというか・・・プロの技術というか・・・
ま〜いろんな意味で驚きました^^;

そんな早番の時間帯でTVのロケ隊などもよく来店していました。
店内に大きなロケ機材を置かれるのでウエイター泣かせだった。

いわゆる芸能人もたくさん来店しましたが、この記事の流れで挙げると・・・当時まだ高校生だった、女優の杉田かおるが一人で来店した時。

席の前を通過する度に...「あ!すみません。これ下さい」
と、次々に追加注文をするものだから、テーブルの上に、ほんの一口しか手をつけない、ドリンクやパフェやケーキやサンドイッチが埋まっていったことが印象に残っています。でも、決してタカビーな印象ではなく...ニキビの多い、田舎から出てきたおとなしい女の子って...雰囲気を出していたんですけど、それもある意味女優していたのかしら?(^、^;

男性客で記憶に鮮明なのは..
国○舘大学の空手部が団体で来店して、店内の半分が黒い学生服で埋まりました。
オーダーはなんと全員同じで「チョコレートパフェ30数個!!」

食べ終わった下級生達が先輩達に、「押忍!美味でありました!!」
とデカイ声で連呼して、他のお客さんたちが失笑していたっけなーf(^、^;

ま、とにかくここでバイトさせてもらった2年間...
いろんな人間観察ができて面白かったですf(^、^;

moyaizou.jpg

ハチ公前の待ち合わせは大変込み合うので、東急東横店の反対側にまわれば、モヤイ像がありますが、実はこのモヤイ像。私が十条でお世話になったマスターや友人達が新島から抗火石を持って来て彫ったものです。
完成当時1980年(昭和55年)は真っ白できれいだったのですが、今では排気ガスですっかり黒くなってしまいました。

...次記事は
このハチ公前のモンテローザでアルバイトするようになったキッカケの追憶です。

2006年5月20日筆...2012年8月27日加筆

2012年08月27日

posted by たすけ at 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水もれ甲介とカースケ

昭和50年代の追憶

TVドラマや漫画の追憶

今やコースケと云えば、水泳の北島康介ですが、水もれ甲介と云えば俳優の故.石立鉄男。
石立鉄男さん(以下敬称略)は、岡崎友紀と共演した「おくさまは18歳」で一躍有名になり・・・
、杉田かおると共演した「パパと呼ばないで」で石立鉄男人気は不動のものとなりました。

水もれ甲介(役名:三ッ森甲介)は、日テレ系の日曜夜8時の番組ですが。
1975年(昭和50)前後の日テレの日曜夜8時のドラマを時系列に並べると

昭和49年春〜昭和49年秋・・・「われら青春!」主演:中村雅俊(初主演)
昭和49年秋〜昭和50年春・・・「水もれ甲介」 主演:石立鉄男
昭和50年春〜昭和50年秋・・・「おふくろさん」主演:石立鉄男
昭和50年秋〜昭和51年秋・・・「俺たちの旅」 主演:中村雅俊

俺たちの旅(役名:津村浩介)では、中村雅俊のニックネームはコースケではなく、カースケ(すぐカッとなるから)でした。実生活の上では、どうやらカースケは石立鉄男の方で、共演者と殴り合い、突然外国に行ってしまったという設定でドラマを降板した事件もあるようです。

まともかく、現在50歳前後の世代にとって
コースケ=石立鉄男。カースケ=中村雅俊。
とすぐに連想できるのだろうと思います。

コースケとカースケの共通点は、くせ毛のボサボサ長髪で
昭和50年前後はこうした髪型をした若者が多かったです。
...って、かくいう私のその一人でしたf(^、^;

水もれ甲介とカースケ

写真はトムボーイ十条店の店内ですが、この時はすでにトムボーイのバイトと叔母の店(スナック)のバーテンのバイトを掛け持ちしており、少しでも年上に見られたくて、口ひげまで生やしています。...が、元々髭が薄いので、どんなに伸ばしも写真中の石立鉄男のような生え方にしかなりませんでした(苦笑)

枕が長くなりました...
今記事は、当時十条のバイト仲間からカースケと呼ばれていた私が、水もれ甲介と呼ばれる事件があったという追憶です。

大学に復学できたのは、本来長男である私が継がなければならない家業を・・・
「兄貴、教師になりたいんだろ?大学に行けよ。」と言ってくれた次男のお陰です。

そんな訳で家を出て...
復学時(前期の授業料)は世田谷の叔母に借り、住まいは十条の叔母の経営するスナックの2階(当時は衣装部屋)に下宿することで、所持金3万円で十条での暮らしが始まりました。
先ずは、生計を立てなきゃいけないので、大学のカリキュラムよりバイトのシフトが優先でした。十条ではトムボーイや叔母のスナック以外にもいくつかバイトを掛け持ちしていましたが、ある時・・・

「すみません、今度の試験は合格点とらないとマズイので休ませてください。」
「え?アンタ学生だったの?」


...と。バイト先の居酒屋のマスターに驚かれた事がありました。
そう言えば、十条でのアルバイトは履歴書を書いた記憶がない。

「ちょっとさ、人手がいるんだよな」
「そうなの?じゃ誰々を紹介するよ」


みたいな...ほとんど人づての紹介でアルバイトが決まったり、昨日まで客だった人が、今日来たら店員になっていたり。そんな風で、十条の飲食店はみんな顔見知りで成り立っていたように思います。

ま、とにかく学業より稼ぐことが最優先事項でしたが、『苦学したとか計画的に貯金したか?』と言えばそうでもありませんでした^^; 十条仲間や後の渋谷モンテローザ仲間とも麻雀はよくしたし、美術部の合宿もバイトの日程と重ならなかった時に2回参加できましたし、充実した学生生活でした。

奨学金をもらっていたし、何より学費が安い大学だったので(たぶん前期12万 後期15万)
毎年春休みと夏休みは、昼夜掛け持ちバイトや住込み出稼ぎに出れば、前後期の授業料もなんとかなりました。

ただ当時いつも決まって見る夢は、大学を卒業できなかった夢で。
それなりのプレッシャーや『自分だけこんな楽しい学生生活を送っていていいのだろうか?』
という自責の念もあったのかもしれません。

そんなアルバイト最優先の学生生活を送っている中・・・
ある時、下宿(スナックの2階)が断水となり、朝台所の蛇口をひねったまま閉めるの忘れて大学に行き、その日は帰らず。翌日夕刻に下宿に戻ったら、階下のスナックが大騒ぎになっています。

「あれ?叔母さん、どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ!見てみなさい!ホラ!」


うわっ!(@@;)地面より階段3つほど半地下になっているスナックの床は、くるぶしより上に水が溜り、壁は水で剥がれ、ボトルのラベルもほとんど剥がれています。急いで階段を上がって部屋を見ると、台所は水浸しで畳もすべて、水を吸って膨らんでいます。

蛇口はシンクからはみ出ませんが、蛇口を全開にひねったままにしていた為、強い水圧で弾きこぼれた水が、36時間以上2階で溜り、それが1階に滴り落ちていったようです。その夜は当然スナックは臨時休業です。

翌朝から私は店のドアと窓を開け放し、2階から下ろした畳を道路に出して乾かす守番です。人手が要るので、十条のトムボーイ仲間がやってきて色々手伝ってくれて、そして途方にくれる私を慰めてくれましたが・・・

もう、オチは先に書いておきました
今でも十条トムボーイ仲間で集まり酒が進んでくると

「あれ?キミ誰っだっけ?」
「カースケ...じゃないよなぁ?」
「あ!そうそう、水もれコースケだった!」
(一同爆笑)



先日、ふと懐かしい十条に立ち寄ってきました。

昭和のホームドラマで東京下町の定番が・・・
銭湯に定食屋に一杯呑み屋
私の実録ドラマでは
十条銀座商店街の裏にあった「銀座湯」は、すでに自転車置場になっていて・・・
いつもおかずをサービスしてくれた線路脇の定食屋「トキワ食堂」は別な呑み屋に・・・。
でも、晴れてオトナになった記念に仲間に祝杯を上げてもらった斎藤酒場だけは、当時のままでした。嬉しかった・・・と。日記(Blog)には書いておこう!(笑)



PS.そうそう、水もれ事件で忘れ得ぬ思い出がもうひとつ。

世話になっている叔母に大迷惑をかけてどうしよう・・・と。
自分では気づかなかったのですが、やはり相当気落ちしたようで
大学の中国語の先生(日本人)が授業が終わってから

「どうかしたのか?」
「斯く斯く然々で・・・」
「そうか、まぁいつまでもクヨクヨしてもしょうがない」
「そのうち、私もキミのその店に行くから」


店の名前と場所は告げましたが...
『そのうちとお化けは出た例がない』...
と思っていました。

水もれした店の床・壁・天井を全てリフォームし
新装開店のようになった叔母の店(スナック)も
そろそろ看板を消そうかという時刻になった時

「よぉ!」
「えっ!?(@@;)ホントに来た!」


・・・今でもはっきり覚えています。
こうもり傘に長靴姿の先生がドアを開けるなり
千鳥足でよろけながらの第一声でした。

ビール2本開けて、もう看板です。

「さぁ!行こうか!」
「えっ!?どこへ行くんですか?」


先生は東京外語大出身で、先生にとっては王子や赤羽界隈が
「俺たちの旅的街」だったようで・・・
それから、先生と二人で赤羽の飲屋街に繰り出しました。

約5年間を過ごした十条の街は、私にとって
そんな甘酢っぱい数々の思い出がある街ですf(^、^;

2012年08月26日

posted by たすけ at 09:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷のハチ公のお話し

日記(動物写真館)

渋谷のハチ公のお話しです。

忠犬ハチ公のおはなし8番目に飼われた犬だから、ハチ。
ご主人のお迎えのついでに焼き鳥を
ご馳走になるのが大好きだった、ハチ。

ちなみに
ハチ公の片耳がたれているのを
気づいてました?

4月8日がハチ公の記念日だが
4月21日に銅像が建ったそうだ。

渋谷の待ち合わせ場所としてあまりにも
有名ですが、今日のような金曜日の夕刻
にハチ公前で待ち合わせなんてしない方
がいい。(携帯があれば別だが)

私は2年間、このハチ公のすぐ背中側の東急でアルバイトをしていた時期があるけど、もう満員電車並の人垣でほとんど頭しか見えないから^^;


...と。過去記事を振り返って「あっ!」と気がつきました。
そうなんです。ハチ公の向きは平成になってから変わっていたのです。

昭和のハチ公の向き

こちらが昭和のハチ公の向きです。
現在と違って、北側(スクランブル交差点側)を向いていました。
青ガエルの中にいた、ボランティアスタッフの話によると「ハチ公は3回向きを変えている。」
との事でしたが、私の脳裏にあるハチ公はこの向きなんですよねぇ。

ハチ公と青ガエル

わかりやすく言えば
現在、ハチ公口にある初代東急5000系電車(愛称:青ガエル)とハチ公は
同じ方向を向いていました。当時は青ガエルはなかったですよ(^^;) 参照:忠犬ハチ公

2006年4月21日筆...2012年8月25日追記
タグ:渋谷 ハチ公

2012年08月25日

posted by たすけ at 00:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(動物写真館) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

赤羽線十条駅前のトムボーイ / TOMBOY.106

昭和50年代の追憶

TOMBOY=おてんば娘 の意味です。
大学1年生の最初のバイトは、渋谷公園通りのフライドチキン屋でしたが。
昭和54年(1979年)に復学して2度目1年生のバイトは赤羽線十条駅前の喫茶店トムボーイから始まりました。

埼京線十条駅前のトムボーイ

今じゃ国鉄って言わないし、赤羽線も埼京線になってしまいましたが、つい赤羽線十条駅と言ってしまいますf(^、^;
トムボーイ自体も今では、十条本店の他、池袋や渋谷にも支店を持つ、トムボーイカフェとなりました。

昭和のトムボーイは、東十条駅前に本店(今はコンビニ)があり、十条駅前が支店でした。
私がバイトした当時、十条支店は東京家政大学と東京成徳短期大学の女子大生と地元の若者で客の9割を占めていました。なので、十条支店は大学が夏休みになると、店も長期夏休み休業となり、バイト仲間はサーファーが多かったので、新島や神津島の海の家(アクセサリーショップ)に出稼ぎに行きました。私はサーファーではなかったので、毎年夏休みは那須高原のレストランに住み込みアルバイトの出稼ぎに行ってました。

実は、トムボーイのマスターはデザイン芸術家であり、喫茶店の他に看板やディスプレイ・宝飾等の企画の会社も経営していて、新島や神津島や海の家で販売するアクセサリー製作も仕事の一貫でした。そんな縁もあり、新島産の抗火石で造った渋谷駅前にある「モヤイ像」はトムボーイのマスターと当時の仲間が彫ったものです。

トムボーイカフェ(十条店)

昨年2011年の秋に十条店は改装し、エントランスはすっかり変わってしまいましたが、モヤイ像を造る以前に、当時の仲間みんなで取り付けた店内のエジプト風の抗火石壁画は当時のままです。

私が十条支店でバイトを始めた当初は営業時間も午前0時までだったので、支店のバイトだけでなんとか生活ができていたのですが、後に営業時間が短縮され、東十条本店(午前2時まで営業)のシフトに入れてもらったりしていました。それでも生活費を稼ぐには時間数が足りず、やがて十条106から、渋谷109でのバイトに変わりました。

でもバイト先が変わっても、互いのアパートや下宿先を行き来して、トムボーイ仲間とは銭湯に通ったり、酒を酌み交わしたり、麻雀をしたり。赤羽線十条駅界隈は、学生時代一番多くの時間を共に暮らした「俺たちの旅的仲間」のとても懐かしい街です。

トムボーイ01

当時のバイト仲間は、ほぼ全員仕送り無しで自活する夜間大学・専門学生で、たいてい愛称がついていました。この写真は誰の部屋か思い出せないけれど...
当時の十条仲間のツチヤ・ジミー・カースケ・あんちゃん・万吉で。紅一点のイクちゃん?
が作ってくれた食事をご馳走になっているシーンですf(^、^;

2006年5月22日筆...2012年8月24日加筆

2012年08月24日

posted by たすけ at 21:49 | Comment(4) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渋谷区公園通り / ゴールデンスキリット・フライドチキン

昭和50年代の追憶

自転車でシルクロードを横断し「世界を見ずして世界を語れるくぁ!!」の桑原青年の行動力と言葉に圧倒され、何も書けなくなってしまったので...しばらく私の20代頃の追憶記事の書き直しをしながら、頭を冷やそうと思いますf(^、^;

IENA SLOBE ゴールデンスキリットフライドチキン渋谷公園通リ店のあった場所

私の学生時代の最初のバイトは、1978年(昭和53)に渋谷公園通りの「たばこと塩の博物館」に隣接している【ゴールデンスキリットフライドチキン】でのアルバイトでした。2012年現在、ゴールデンスキリット・フライドチキン渋谷店があった場所は「IENA SLOBE」というブティックになっています。

家の事情で大学を休学した為、わずか半年ほどのアルバイトでしたが、まだ真新しい公園通り(昭和47年パルコの開店を機に、区役所通りから渋谷公園通りに)では、バイトに向かう途中でよく、ファッション雑誌の撮影やドラマのロケ隊と遭遇し、あぁ〜絵になる街だなぁと、この街で働いていることが何故か誇らしく感じられて嬉しかったなぁ。

バイト店のはす向かいには、東武ホテルがやパルコ劇場があり、また坂のすぐ上にはNHKホールや渋谷公会堂があったので、いわゆるギョーカイ人の常連客も多かったです。当時からファンだった中島みゆきさんも、何度となく来店しましたが、いつもテイクアウト専門でした。
地方(田舎)の道端で突然芸能人とかを見かければ驚きもしますし、店にサインでも飾りますが、一般のお客様も芸能人も、わけ隔てないごく普通の接客応対でした。そういう流儀が、当時の公園通りに店を構えているスタイタスだったのかなぁ。

ゴールデンスキリット・フライドチキンは、当時都内には、ここ渋谷公園通り店と港区大門店の2店しかなかったように記憶しています。その後あまり時間をおかず閉店してしまったので、この店の当時のバイト仲間とは音信は全くありません。
印象に残っているは、恰幅の良いマネージャーさんの独特な「イ〜ラッシャイマセェ〜」という言葉と多古町出身の女子大生の純情で爽やかな笑顔とチーズ薄切り競争かな?(^^;)

そんなチーズ薄切り競争をしたバイト仲間は、場所柄、青学の学生が多く、ある日バイト仲間がレコードを数枚もってきて「これ、うちの学バンのデビューシングルなんだよ」と見せてくれたのが、サザンオールスターズの「勝手にシンドバット」でした。

その後大学に復学し、北区十条駅前の
http://sazaepc-tasuke.seesaa.net/article/12878205.html
喫茶店【トム・ボーイ】のバイトに変わりましたが、その喫茶店においてあった、ジュークボックスで一番選曲されていた曲が「いとしのエリー」でした。
「勝手にシンドバット」と「いとしのエリー」の2つの曲が流れてくると、私の瞼には当時の渋谷区公園通りと北区十条駅前の風景が浮かんできます。

2006年5月4日筆...2012年8月22日加筆

2012年08月23日

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私の声が聞こえますか / EAST ASIA

昭和50年代の追憶

私の声が聞こえますか...って。この記事は6年前(2006年)に、TVで「激闘大家族、青木家完全密着」という特番があり。その長女あざみちゃんから、ふと中島みゆきのファーストアルバム【私の声が聞こえますか】の思い出を書いた記事でした。

私の声が聞こえますか(中島みゆきファーストアルバム)

中島みゆき(昭和51年).あぶな坂を越えたところに あたしは 住んでいる
坂を越えてくる人たちは みんな けがをしてくる


この詞ですぐに中島みゆきだ!
と浮かんだなら生粋のみゆきファンでしょうね♪

昭和50年(1975年)に発売された「時代」が中島みゆきのデビュー曲だと思っている人が多いようですが、「時代」はセカンドシングルで中島みゆきのレコードデビュー曲は「アザミ嬢のララバイ」です。

翌、昭和51年(1976年)私が高3の春にファーストアルバムが発売されました。
そのアルバムタイトルが【私の声が聞こえますか】


【私の声が聞こえますか】のA面の出だしが「あぶな坂」で、最後が「アザミ嬢のララバイ」。
B面のエンディングが「時代」でした。

当時、先輩にダビングしてもらったアルバムのカセットテープを押すと、真っ先に 「あぶな坂」が流れてきて、実はどの曲よりも私の耳に残っている曲です。

中島みゆきの歌はどちらかというと、暗いイメージの詩が多いです。
昭和55年(1980年)発売のアルバム名は【生きていてもいいですか】
しかも、出だしの曲は「うらみます」だし(^^;)

しかし、中島みゆきの詞の底流にあるのは応援歌だと思います。
泣きたいときには思いっきり泣け!とことんまで自分を悲しめ。
でも明日からは、はい上がってこい!立ち上がれ。....と。


-ここから追記分-

中島みゆきの「世情」は、昭和53年:私が20歳の年(1978年)に発売されたアルバム【愛していると云ってくれ】のエンディングの曲。
金八先生でも使われたそうですが、当時の私は学費&生活費の一切をセルフするためアルバイトに明け暮れていたので、その番組は見ていませんでした。

愛していると云ってくれ(中島みゆき).jpgシュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を 
見たがる者たちと 戦うため

世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている

包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる



34年前に、こんな歌詞を中島みゆきは書いていた訳ですが。

 中島みゆきが還暦を迎えた今年、2012年。
「再稼働反対の声が聞こえますか」「反日(抗日)運動の声が聞こえますか」
という「世情」になってしまいました。


19年前の1993年《最後の女神の意外な素顔》と題された中島みゆき&筑紫哲也の対談

【Part01】
中島:「たぶん私の場合は、時間の捉え方が、1年とか10年とかという数え方じゃないのかも。」

筑紫:「そういう人に(日々出来事が刻々変わる)ニュース番組のテーマ曲をお願いしちゃって
   大変申し訳ない。そういう点では、ふだんと違うものを作らなくっちゃという感じはあった?」

中島:「私に出来る事って言ったら
   たぶん、日々起こる事の、底に流れている事を見ることができることかな?と思います。
   人間の心の熱みたいなもの。そういうところから出来事は起こってくるんだという
   その大元のところの歌にしたいな...そういう願いで作りました。」

【Part02】
筑紫:「夜会はコンサートというよりは、ワンマンミュージカルみたいな・・・」

中島:「あくまでもこれは言葉を目指している実験劇場なので・・・」
   「言葉の得体の知れなさ..っていうところに魅入られています。」
   「一つの言葉が、いろんな条件で変わっていく。言葉そのものが問題なんじゃなくて。」
   「それをどういうつもり言おうとしたか?どういうつもりで聞こうとしたか?」
   「その意識が出会う時に、言霊(ことだま)っていうものが生まれていると思うので...」
   「見えなくて、届きそうで届かない言霊...」
   「それをなんとか掴まえようとすることにエネルギーをかけているような気がします。」

筑紫:「ただ、歌っていうのがすごいのは・・・。」
   「みゆきさんが伝えた言葉を受け取った側は、勝手に乱反射すると思います。」
   「作者が想像もしない方向に、てんでんばらばらに乱反射していると思うのですが。」

中島:「自分の歌は、鍋釜やザルや箒と同じように、実用品として役立てて頂けるのが夢です。」
   「それを使って、生きて行くのが便利になったり・・・」
   「何か気晴らしになったり、そういう事で使って頂ければ充分だと。」
   「私の作品は、実用品コーナーでお買い求めください(笑)っていう気持ちがあるんです。」


2012年の夏、日中・日韓で・・・・

うらみますうらみます あたしやさしくなんかないもの
うらみますいいやつだと 思われなくていいもの
うらみますうらみます あんたのこと死ぬまで


...でも。中島みゆき実用品コーナーのEAST ASIAには

EAST ASIA(中島みゆき).jpg大きな力にいつも従わされても
私の心は笑っている
こんな力だけで 心まで縛れはしない
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA

世界の場所を教える地図は
誰でも 自分が真ん中だと言い張る
私のくにをどこかに乗せて 地球は
くすくす笑いながら 回ってゆく
  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA

  くにの名はEAST ASIA 黒い瞳のくに
  むずかしくは知らない ただEAST ASIA



2006年5月10日筆...2012年8月23日加筆

2012年08月22日

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世界一周の教育実習〜シルクロード自転車横断〜と樹懶庵(じゅらいあん)

お気に入りサイト

現在の中国や韓国との領土問題や、反日(抗日)運動について、日・中・韓それぞれの国の学校教育(歴史教育)から問題点を考えてみよう...なんて内容の記事を途中まで書いていたのだけれど・・・。

世界一周の教育実習〜シルクロード自転車横断10000キロ編〜
教師のたまごが世界に飛び出したっ!! ただの知識で得た観念上の言葉ではなく、実体験に基づいた確信の言葉で、世界の広大さ、大自然の美しさ、生きることの素晴らしさを子どもたちに伝えたい。「世界を見ずして世界を語れるくぁ!!」



上記のDescription(ブログ説明文)と
自転車でシルクロードを横断した行動力を目の当たりにして、何も書けなくなりました。

ひとりだから何もできないんじゃない。
ひとりだからこそできることがある。
そして、あきらめない。




Free Hugs for Korea-Japan Peace (日本人が韓国でフリーハグをしてみた)

ちょうど1年前に一人の教師のたまご(日本人青年)が韓国で行ったこの行動力が
政治家や評論家や、私を含めた大人たちの愚にもならない論理を喝破しています。

パソコンや図書館で資料や本を通した知識で
知ったかぶりの反日(抗日)運動について語ろうとしていた自分が恥ずかしい。




とは言いつつ....では身体も張らず、何も行動しない(できない)人間は
日中・日韓の軋轢問題について、何も語る資格がないかと言えば...それは否。

樹懶庵(じゅらいあん)

「樹懶庵じゅらいあん」
研究所勤務のオヤジで、専攻は人口学。専門以外の関心領域は、数学、懐疑論、朝鮮史など。趣味は昼寝。極度の出不精で休日は引篭り状態。動くのが嫌いなので前世は樹懶=ナマケモノに決定。
ナマケモノと自嘲されていますが、日・中・韓(朝)の三国間の歴史教育(歴史認識)や、欧米からみた日本・中国・韓国(朝鮮)を、これほど要点をまとめて整理したサイトは比類がないと思われる秀逸サイトです。

確かに現在の日中・日韓の摩擦は、為政者の「思惑・情報操作」や、ごく一部の「欲・功名心」に駆られた行為など、言い出せば切りがないほどの「吐き言葉」を挙げることができるけど。(例えば従軍慰安婦問題の日本側なら、植村隆(朝日新聞)・吉田清治・福島瑞穂・河野洋平etc)
でも、これら4人が存在しなかったとしても、現在の状況にそんなに変わりはないような気がします。

古の賢人は森羅万象の深奥を観相し
現代の愚者は情報の奔流に狂騒す

電脳の発育は音速に勝ると云えども
有用な知見は砂中に黄金を求むるが如し

ここに樹懶庵亭主漫然と愚考に耽り
亦無用な知識の堆積を重ねんとす


樹懶庵の亭主は『愚考に耽り、無用な知識の堆積』と...謙遜されていますが
電脳樹懶(=私)は、「この庵の読破」でかなり、有用な知見を賜りました。

ご興味のある方は、端折り読みでもご一読をおすすめします。
文書量が膨大なので速読するコツは、ウィンドウの幅を調節して
一行35文字程度になるような窓サイズにして読むことです(^^;)

2012年08月21日

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澤田隆治コレクション&プロデュース 近代マジック歴史100年

日記(家族・子育て)

「笑って健康を」の健康都市宣言流山市で開催されている「お笑い大行進」も今日8/19で22回目ですが、プロデュースは澤田隆治(さわだ たかはる)氏。
リンク先にもあるように、澤田隆治氏は【てなもんや三度笠・新婚さんいらっしゃい!・花王名人劇場】etc誰もが知っている人気番組を手がけてきましたが、その澤田氏が世界でも有数なマジックコレクションの収集家だったことを、流山市生涯学習センターで開催された澤田隆治コレクション&プロデュース 近代マジック歴史100年で初めて知りました。

近代マジック歴史100年

ギャラリー会場にアートバルーン2体を寄贈したPRINCOちゃんから
『8月11日のマジックショーはオススメですよ!無料で見られるなんてトレビア〜ン♪』とご連絡も頂き、最近笑いが少ない家内を誘って行ってきましたよ(^^)

澤田隆治プロデュースマジックショー

左から順に、澤田隆治渚晴彦ケン正木MIYAMONAOMI TIGERDOJI[敬称略]

11日のステージの1部は
澤田隆治が秘蔵映像で語る【伝説のマジシャン、ハリー・フーディーニ】

冒頭の挨拶が「いやぁ〜、私の道楽に付き合わせてしまってすみません」
という謙虚な言葉。やっぱり人気番組を作ってきた人の言葉は違うなぁ・・・

そして心に残った逸話

「ナポレオンズをアメリカに連れて行った時、ギャグで紙性の鳩をポトリと落として観客に大受けだったのに、国内の農協団体の興行でやったらマジメにやれ!と叱られたんですよ。」

「日本人は真面目な民族なのでどうも騙されているというマジックは向いていないらしい。一過性のブームがやってきては一旦寂れて、また数年経って復活する繰り返しなんですね。」

...なるほど。その他含蓄のある話も多数あったり

すごっ!こんな映像が残っているんだ!無声映画もコレクションなんだ!と感動。
ま、でも子供にとっては退屈な時間だったかもしれませんが(苦笑)

第2部がマジックショー
若手3名に続き、トリがケン正木でしたが、流石ベテランはトークも間のとり方の絶妙ですね♪なんでも病気の後遺症でまだ手指の自由が完全でないとの事でしたが、それをしてもあれが出来るのか!?と思うと不断のトレーニングの大切さを教えて頂いたマジックショーでした。PRINCOちゃんのおっしゃった通リ、このような充実の3時間が無料だなんて、とってもマ〜ベラスぅ♪(^^)

澤田隆治マジックコレクション

ギャラリー会場の多数の澤田マジックコレクションにも圧倒されました。
私が特に気に入ったのはイリュージョンの種明かしビデオと、サングラスをかけてない若き日のMr.マリックのマジック入門書かな?(笑)




さて、最近笑いの少ない家内と書きましたが...
子育ての終わった我が家にとって大きな問題は義父の介護です。今年の盆休みは連日、施設の見学やケアマネさんとの面接で終わりました。ずっと義母と家内で家族ケアをしていますが、どんどん認知症の進行が進む義父。
面接した各施設で異口同音に「申し訳ないのですが、当施設ではお預かりできません。お母さん、本当によく頑張って面倒みられていますね。」もう流石に義母も家内も介護疲れで精神的にボロボロになっています。そんな中、徘徊から義父を連れ戻す時、私自身も初めて大声で苛立つ家内を叱咤してしまいました(反省)

アンティグアの夏ランチ

カフェ・アンティグアの庭

一人、冷静になりたくて、お気入りのカフェ・アンティグアさんで夏ランチ。
アンティグアの庭で囀る小鳥に癒されました。小鳥さんありがとうm(_ _)m

実はアンティグアさんを訪れた事がきっかけで、PRINCOちゃんさんから8月11日のマジックショーをご紹介頂きました。ありがとうございましたm(_ _)m
「笑って介護を」...生易しい事ではないけれど。笑顔が心の健康の証であることには、確かですね(^^)

2012年08月19日

posted by たすけ at 11:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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