ゆかいな自転車リカンベント試乗会

自転車(リカンベント)

リカンベント試乗会のご案内です♪
リカンベントってどんな自転車?リカンベントって難しくないの?みたいな疑問は【リカンベントの種類(リカンベント初心者の豆知識)】の頁をご参照ください。その他の疑問等はこの記事のカテゴリの中で書いてありますので、本記事下欄から、関心ありそうな記事を選択してご参照ください。

リカンベント試乗会のご案内

主催:利根運河交流館 試乗会案内記事は⇒こちら プリントアウト用⇒パンフ
日時:2011年11月26日(土)10:00〜13:00 (少雨決行)
場所:運河水辺公園特設ステージ ⇒地図


リカンベント&トライク試乗会ではお馴染みのNiKIRIN(ニキリン)さんはじめ、今回は多方面からのリカンベント愛好家大集合なので展示・試乗車含めて20台以上は揃うと思いますヨ♪

折り畳み自転車とマウンテンバイク

また、リカンベントだけではなく、ロードバイク・MTB(マウンテンバイク)・折り畳み自転車etc
スポーツ自転車専門店やメーカーさんも参加します♪

http://yaplog.jp/unganikki/archive/679
http://yaplog.jp/unganikki/archive/678
http://yaplog.jp/unganikki/archive/677

「これから自転車生活をはじめてみようかな?」
「メンテナンスについて聞きたいことがあるのだけど?」

という方は、是非、11月26日(土)に運河水辺公園特設ステージにいらしてくださ〜い♪

ツナミ960USS鈍竜

勿論、私(たすけ)の愛車【TSUNAMIツナミ960-USS 下ハンドル車】も試乗用に出展しますので、どうぞご遠慮なく乗ってやってください♪
たぶん、私当日ご案内係をやる事になると思いますので、【チーム東葛の青いウィンドブレーカー】を見かけたらお声かけてやってください♪

チーム東葛ジャンバー

当日は、うんがいい!朝市が8:30から同時開催されています。リカンベント試乗会は10:00〜13:00までとなっていますが、時間は目安なのでそれより早くから&遅くまで可能だと思います。



・・・で。ついでに、この記事を見た江戸サイの自転車乗りの方々に、お願いが・・・

実は先週、Gibsonさん主催の地下神殿見学会の集合場所に向かう途中。
流山橋手前あたりで、一人の紳士に声をかけられまして...

「あっ!ちょっと、ちょっと、すみません。」
「はい?」
「私、先日あなたを江戸川土手でお見かけして写真を撮らせて頂きました。」
「あ、そうなんですか?ありがとうございます!」
「いや、もしかしたら、あなたではないかもしれないのですが・・・」
「もし、よろしかったら、写真お送りしますのでご連絡先を・・・」
「恐縮です。じゃあ、これ私の名刺ですので、このアドレスに^^」


てっきり、メール添付写真が届くのかと思っていたら本日、丁寧なお手紙と紙焼きプリント5枚が。
結局、それは私ではなく別人だったのですが...手紙には『もし、違っていましたらご処分ください』と書かれていましたが、せっかくのご親切を無駄にしたくはないので、『一応、自転車仲間やインターネットを通じて該当者を探してみますね。』とのご返信のお手紙を本日お送りした次第です。
まぁ、リカンベントを見慣れない方にとっては、どれも同じように見えてしまうのでしょうねぇ^^;

リカンベント乗りたずね人

お顔は写っていない後ろ姿なので、差し障りないと判断して、写真を掲載します。
「このベントライダー(=リカンベント乗り)にお心当たりの方いらっしゃいますか?」
撮影したのは10月23日(日)の江戸川土手(野田市川間付近)だそうです。

もし、ご本人orお心当たりの方がいらしたら、拙ブログへコメントか、もしくは右の猫の隣にあるメールアイコンをクリックすると私のアドレスですので、こちらにメールを頂けたら幸甚です♪
ここにメアド表示していてある事に、気がつかない方が多いみたいなので、補足テキスト入れておきました^^;

11月26日(土)の利根運河でのリカンベント試乗会には、私は8:30〜15:00くらいまで居る予定です。幸運にも、このベントライダーご本人がこの記事に気がついてくれれば、万々歳なのですが...
当日は送って頂いた写真を持参して行きますので、ご本人もしくはお知り合いの方がいらっしゃれば、ご親切を無にすることがなくなりますので、皆様どうか何卒宜しくお願い致しますm(_ _)m

PS.上記↑↑↑写真は、当日無事にご本人に手渡しすることが出来ました♪
  なんと同じ流山市民でほとんど、私の自宅のご近所さんでした(^^;)

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2011年11月25日

posted by たすけ at 22:15 | Comment(10) | TrackBack(0) | 自転車(リカンベント) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山旧道(裏道)ポタのご案内 / 大人の遠足

自転車(ポタリング)

流山旧道(裏道)ポタの予告編です。
2009年10月に第1回流山裏道ポタをしてから早三年。あの時は、ご案内場所を欲張り過ぎて、てんこ盛りポタになってしまいましたm(_ _)m 今回はその反省を踏まえて、わりと単純なルートにしました。

流山旧道ポタの概略ルート⇒こちら
ネっ?単純でしょ?(嘘です^^;)
解説にあるように、自転車に優しくない流山街道(表通り)を走らずに、どこから〜どこに向かって走るか、方角(方向)だけのルートです。実際には、利根運河で寸断されているし、旧道がすっかりつぶされて、住宅地になっている箇所があります。

実際の走行予定ルートは⇒こちら
ネっ?相変わらず、くねくねルートでしょ?(笑)
今回は安全ルートを重視のため、同じ道を戻ったりします。あるいは、ぐるっと1周して、今走った道がどこに通じているか、わかるようにしたいと思います。

初めて流山を走る方に⇒明治初期頃の流山の旧道地図 明日、印刷して持参しますね♪
流鉄流山駅・東武野田線の駅・つくばエクスプレスの駅と、旧道の位置関係を示しています。
地図に示している箇所を全て回る訳じゃありませんので、あくまで目安としてください。



流山チャンネル

では、流山旧道(裏道)ポタの報告編。画像は過去画像や参加者の方から拝借しましたm(_ _)m
なんと言っても今回ポタの最大のメインは流山割烹柳家さんでのうなぎランチでした(^-^)

割烹新川のうな重とうな丼

割烹柳家 流山市流山1-252     左:鰻重(並)...¥2,625  右:勇丼(うな丼)...¥1,575
営業時間11:30〜14:30 / 17:00〜 TEL.04-7258-1078 月曜定休  関連記事⇒こちら

参加メンバーが口ぐちに「是非、もう一度来たい!」と(^-^)
断腸亭さんが仰った一言。
「タレの少ない鰻重は、自信がないと出せない料理だよ」

なるほどぉ。煙モクモクの鰻専門店も鰻も美味しいけれど、食べたあとに器にタレ汁残るようなベタベタな鰻重や、うな丼でなく「鰻&飯の美味しさを両立させる」これが割烹料理なんだなぁ。と、この言葉に感心しました。中年以上の自転車乗りは、あちこちで鰻を食べていて舌が肥えているので、そんなメンバーから絶賛頂いたので、私もご案内し甲斐がありました(嬉)

お会計を済ませ、最後にお店を出る時に大旦那?さんから
「どうぞ、皆さんに気軽にいらしてくださいとお伝えください」と。
自転車乗り皆様&流山観光にいらした皆様。
どうぞ、流山市役所前、割烹柳家をお気軽にご利用くださいませませでぇ〜す♪

サイクルラック

これ、鴨鍋ポタの松伏「桂」の駐車場で撮影した、手作りサイクルラックです。スポーツ自転車はスタンドがないので、駐車場の隅にこーゆーのがあると自転車乗りには嬉しいなぁ^^;

曙輪友会と秋元家

さて先ず、こちらの写真ですが・・・
左上:天晴味醂創業家:秋元家(本家)の商家跡の一茶双樹記念館
左下:天晴味醂創業家:秋元家(分家)現在は、杜のアトリエ黎明
右に居並ぶは、流山の自転車乗りの大先輩「曙輪友会」のメンバー
(背景が味醂工場なので、おそらくこの写真は本家or分家の庭で写したものと思われます)
秋元家と自転車乗りの関係は?⇒裏道ポタのエピソード(大正時代の自転車乗り)

実は流山ポタには、地元自転車乗りの大先輩「秋元平八(洒汀)」や「曙輪友会」のエピソードを入れるように心がけているのですが、今回は夏目漱石の利根運河訪問なども入れてしまったので、かえって混乱しちゃったかも^^;(これは後日、別項としますね)

チーム東葛流山旧道ポタ(平成23年11月)

そして、こちらが今回の流山旧道(裏道)ポタ参加メンバー、Withお見送りE-ponさん^^
今回は、利根運河交流館からスタートして、秋元家施設&赤城神社がゴールでした。

左成田道・右流山道

寸断された旧道

理窓公園と古墳公園

ポタの前半は、曙輪友会のメンバーたちも走った、百年前と変わらない風景でした。
あっ!例の秘宝オブジェは、当時はなかったと思われです^^; to 参加者各位(笑)

野馬除土手の模式

その後、江戸川台開発前の名残が残る(松林や日光東往還や野馬除土手)場所を走り(この模式図が一番わかりやすかな?)旧道づたいに流山の加村岸に向かいます。
首都圏の衛星都市としてすっかり宅地が多くなった流山ですが、その遷り変わりは江戸川台周辺の風景を航空写真で比較するとよくわかります。

1947(昭22)年10月の風景 と 2004(平16)年10月の風景
↑↑クリックで国土変遷アーカイブ空中写真に飛びます↑↑

2枚の空中写真の中央が江戸川台(昭和22年の白黒写真にはまだ江戸川台駅はありません)
一帯は、ほとんどが上野牧(かみのまき=小金牧の一部)で、原野と植林森(杉)であったことがよくわかります。1947年(昭和22年)の白黒写真の左下が上新宿の集落で、ここの雰囲気は百年前とさほど変わっていません。

上新宿の集落をぐるりと一周して、旧道づたいに、金刀比羅神社〜西栄寺〜北千葉広域水道企業団(北千葉浄水場)〜下花輪城址を経由して加村岸に向かいます。

以下、加村岸の新川屋から流山本町(根郷)の観光スポットを時系列で。

加村岸新川屋の大黒様

国登録有形文化財となっている加村岸:新川屋
屋根上(鬼瓦)の大黒様がポイントです♪(反対側には恵比寿様)

根郷浅間神社と、このはな幼稚園

根郷の浅間神社:万上味醂創業家の堀切文次郎の名があります。
浅間神社のご祭神は、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ) 根郷にある"このはな幼稚園"はここから命名されていて、こちらは天晴味醂の秋元家が経営。流山といえば味醂、みりんと言えば、堀切家と秋元家は外せませんね。

流山浅間神社の富士塚

浅間神社裏にある富士塚。3年前は登山できましたが、残念ながら震災後は・・・
途中経由する下花輪城址も震災後、立ち入り禁止のままですm(_ _)m

流山本町(根郷)の街並み

ランチは流山市役所前の割烹柳家で、コスパ最高うな丼を♪
その後、飛地山(とびっちやま)を経由してまた流山本町の根郷に戻ります。

寺田園茶舗見世蔵(万華鏡ギャラリー)

今年、国登録有形文化財に指定された寺田園茶舗は
現在、「見世蔵」万華鏡ギャラリーになっています。

流山本町清水屋本店(和菓子)

すぐ向かいが清水屋本店(和菓子)で、実は店内に骨董品がいっぱいで楽しいのです。
「あのぉ〜1個からでもいいですか?」
「えぇ♪もちろん。ありがとうございます♪」

と、こちらの若女将さんもいい感じ♪(^-^)

是非、店内の見学がてら、清水屋本店さんでおやつをゲットしてください♪
「あっ!水曜休みだ!」(>_<)

加村台いちべえ商店(岡本商店)

なので市役所前の岡本商店(いちべえさん)で駄菓子を購入^^;
『ん?どこで食べるの?』

閻魔堂(えんまどう)休憩処

の閻魔堂(えんまどう)にある、北総新選組屯所の観光客用休憩処をお借りしておやつタイム♪
3年前(右上写真)には無かった庇やベンチも増設されています。

早速、dadashinさんがご用意してきたコッヘル+コーヒー・紅茶・番茶+お菓子でティーブレイク♪
清水屋本店さんで饅頭や陣屋もなかを調達したかったけど、定休日に重なってちょっと残念。
ま、いちべえ商店の駄菓子でも、それはそれで♪...そして、誰かがポツリと一言。

「こりゃ、大人の遠足だね♪」 そうそう!この言葉、好きだなぁ(^-^)
どうぞ皆様、都心から一番近い『大人の遠足、流山』においでください♪

あっ!でも、せっかく近藤勇陣屋跡でボランティア新選組が観光案内してくれているのに、休憩処に観光客用のWCがないのが、痛いなぁ。。。それから浅間神社のWCもドアに鍵がかかって使用不能、これも痛い。神社・お寺は、氏子さん・檀家さんの共有財産なので、流山市観光課も流山市観光協会も放置しているのかしら?どういう理由か知らないけれど、これでは流山本町(根郷)の観光は台無しです。いずれまた流山ポタをやる時までには、改善しているといいのですけど。。。


今回の流山旧道(裏道)ポタの参加者
dadashinさん...ティータイム演出ありがとうございました。(大感謝♪)
joypapaさん / kincyanさん / NOBさん / ワンチャン / 断腸亭さん
フリーさん / daiさん / bebeさん ...また一緒に遊びましょ♪
ジャズの紳さん / TCR-Nさん ...シンガリ役有難うございました♪(おかげさまで、あんなにくねくね走ったのに迷子なし♪)

前回の反省を踏まえ、立ち寄り場所を少なくしたつもりが...
やっぱり全部回れず、特に最初の山歩きは余計でしたね(苦笑)
いつかは、飛騨里山サイクリングのように、下総流山サイクリングを恒例催行したいと思っているのですが、まだまだ流山自転車ガイド役としては失格だなぁ(反省)

もう少し流山旧道ポタの関連記事が続きますが、ひとまずここまで。ポタ参加者の皆様、そして
利根運河交流館さん、割烹柳家さん、北総新選組さん、ありがとうございましたぁ♪



〜人の縁とは不思議なもので〜
このポタの直前に...岩手県遠野市にお住まいのhisaさんから、自転車購入に関するご相談がありました。自転車という共通項だけで、見ず知らず方でもオープンマインドになるのがチーム東葛(笑)です♪
早速に自転車仲間の断腸亭さんやkincyanさんがhisaさんにアドバイスをお書きになりました。

まさか流山の閻魔堂で、自転車愛好家である、遠野倶楽部代表の亀田さんにお会いするとは!
なんでしょうねぇ...偶然なのか必然なのか。

もし、遠野にお出かけになり、hisaさんとご当地でお会いする機会がございましたら....
『流山の自転車仲間が、新緑の中で新車を漕いでいるhisaさんのお姿を楽しみにしていますよぉ〜』
(^0^)/ とお伝えください。

「えっ?また、他力本願?」...えぇ〜f(^、^;)
わたしは今日まで生きてみました いつでも誰かの力をかりて
そして今 わたしは思っています 明日からも こうして生きて行くだろうとぉ〜♪


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2011年11月23日

posted by たすけ at 23:57 | Comment(17) | TrackBack(0) | 自転車(ポタリング) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クロスバイク購入のアドバイス / 趣味は友を呼ぶ

■シニアの自転車生活

ロードバイクかクロスバイクか / 自転車初心者の図解入門講座⇒こちらの過去記事
「ドロップハンドルに乗りたい」と言ったら、ブログ仲間から「無理」と言われました。
クロスバイク購入のアドバイスをお願いします。
...というコメントを、まだまだ77歳じゃん日記のhisaさんから頂きました。
はじめまして。岩手県遠野市に住む77歳の男です。
1年ぐらい前から、自転車に夢中になっています。(自転車はずっと前に買ってありました)
というのも、目の前の国道に広い自転車道があり、全然自転車が通らないこと、シニアでも自転車に乗る人が増えていること、健康のためなどが理由です。いま、乗っているのはブリジストンのロックスターU。たすけさんのいうママチャリの部類でしょう。

そこで、「ドロップハンドルに乗りたい」と言ったら、ブログ仲間から「無理」と言われました。それで方々の自転車ブログを探していたら、こちらのブログを見つけました。偶然ですが、身内が流山に住んでいるのです。

私が住んでいるところは、合併前は旧村でママチャリ以外に乗っている人がいません。自転車店も15キロ離れた町に2店ぐらいがある程度です。
これからは雪のシーズンになって、自転車には乗れなくなりますが、来春に向けて足腰を鍛え、クロスをゲットしたいと思いますので、アドバイスをよろしくお願いします。
「えっ?私に??」
「いえ、私なんかよりずっと参考になる方のBLOGがありますので・・・」

...ということで、他力本願寺でもって、勝ってに輪友ブログを引用しまくります^^;

その前に...
幸いな事に私は自転車生活をはじめて、すぐに自転車仲間に恵まれました。
...というより
愉しそうな自転車仲間の一員に加えて頂きたくて、クロスバイクを購入したのですが^^;

「趣味は友を呼ぶ」...誰でしたっけ?この有名な言葉を言った人は?

ともあれ、私が恵まれていたのは、最初から自転車に詳しい友人が出来たことで
メンテナンスのアドバイスを頂いたり、時にはパーツを譲ってもらったり...と
とてもラッキーな自転車生活を始める事ができました。

しかし「身近に、スポーツサイクルの友人も、自転車屋さんもない」
...という場合も結構多いのかも知れませんので、コメント返信では字数が足りないので
hisaさんからのコメントを引用の上
「クロスバイク購入のアドバイス」を記事にして回答とさせて頂きますm(_ _)m

機械いじりや工作が好きであれば・・・
通販で気に入った自転車を購入して、自分で組み立てる。
工作は苦手で、とても最初からは無理・・・
多少割高になっても自転車さんを通して購入された方が良いですよね。
(但し、車種は自転車屋のメーカー系列で仕入可能な自転車になる)

自転車はメンテが大切で「長く・楽しく・安全な自転車生活」の肝です。
えっ?「ろくにメンテもしない、おまえが言うな」(-。-;)
はいはい、「だから、趣味友のブログを引用しまくります」f(^、^;)

ママチャリ・クロスバイク・ロードバイクを乗りこなし、改造・メンテが好き
・・・という代表例は、断腸亭髭爺さんです...50代
歳末大掃除始末記〜自転車掃除など〜
単速ママチャリのクランクセットをロード仕様に交換
ロードバイクに改造可能なクロスバイク〜これから自転車を始める人へ〜

自転車生活を始めるにあたり、自転車屋さんと相談しながら
小径⇒クロスバイク⇒ロードバイク購入の変遷(履歴)が参考になるのは、joypapaさんです...60代
■1台目:ドロップハンドルの小径車購入⇒ラレー RSW CARLTON
■2台目:クロスバイク購入⇒GIANT TRADIST(トラディスト)
■3台目:ロードバイク購入⇒ラレー カールトンCRM

他に80代の輪友...というか博士がいらっしゃいますが
この方は、フレームから自転車を自作する...という方なので割愛しますf(^、^;

>「ドロップハンドルに乗りたい」と言ったら、ブログ仲間から「無理」と言われた。
hisaさんのブログをちょっとだけ拝読致しましたが、その理由がよくわかりませんでした・・・

もし、「いい年して、スポーツバイクなんか止めた方がいい」
というような、エイジハラスメント(年齢差別)なら間違っていると思います。私の本業(健康管理)の立場から言えば、椎間板ヘルニアなどを経験していると、前傾姿勢が深くなるロードバイクは、あまりおすすめできませんが・・・。

ドロップハンドル(=ロードバイク)は、長距離を乗っても疲れないが第一で。
そのために、クロスバイクを購入後、やっぱりロードバイクを買う方多いです。
またフラットロードのように前傾が深くならないバイクも選択肢の一つだと思います。

但し・・・
断腸亭さんからjoypapaさんへのアドバイスのように、クランク・ギヤ比は購入前に、自転車屋さんに相談した方がいいと思います。もし、身近な自転車さんがスポーツバイクに全く疎い場合は....たぶん。
断腸亭さんやjoypapaさんはじめ、この記事を読んだ、自転車仲間がhisaさんにアドバイスしてくださると思いますよ。

自転車愛好家ブログリンク←から参考になりそうな方を記事(各ブログ内のカテゴリから探すと早いです)をお読みになってご質問されてください♪
そーゆー訳で、皆さん宜しくお願いしますm(_ _)m

「おいおい、どこまで他力本願なんだよ!」(-。-;)
え?だって...
「趣味は友を呼ぶ」って、柳田國男か宮沢賢治が言っていたような...f(^、^;

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2011年11月20日

posted by たすけ at 22:46 | Comment(14) | TrackBack(0) | ■シニアの自転車生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

柳家(やなぎや)鰻(うなぎ)/ コスパ最高のサービスランチ

美味いもんチャンネル

日本料理割烹柳家(やなぎや) 流山市流山1−252 お店⇒HP
営業時間11:30〜14:30 / 17:00〜 TEL.04-7258-1078  月曜定休

流山市役所前の柳家

秋に利根川で捕れる下りウナギ(=産卵のために遠くマリアナ海溝付近に向かうウナギ)は、長旅に備えてたっぷり脂肪を蓄えます。通常の鰻は1尾250gで、下りウナギで500g以上のサイズは"ぼっか" 利根川下流の小見川や佐原じゃ1kg以上の大うなぎじゃないと"ぼっか"と言わないそうだけど、まぁとりあえず鰻の旬は10〜11月ですね♪

でも天然大うなぎ"ぼっか"は、樋口一葉以上を覚悟?
福沢諭吉さんが財布に入ってないと不安かなぁ....。
私にとって料理で何より怖いフレーズは「時価」です(笑)

流山市割烹柳家

そしてもうひとつ、ランチ選択場所で怖いフレーズは「割烹」(笑)
流山市役所前の坂を下る道と、流山街道との交差点の信号は「流山1丁目」
その流山1丁目交差点に面しているのが、流山本町でも老舗の割烹柳家です。

日本料理の柳家

あ〜!「ふぐ料理」...なんて書いてあると、ますます敷居が高くなるぅ(T_T)
と。思うでしょ?
ご安心ください♪
流山本町割烹柳家さんは、ランチメニューでリーズナブルな鰻料理を提供していますよ♪

柳家店内1階

こちらは、柳家店内1階。中庭にうなぎ用の桶が見えますね♪
元々ここは、加村台地の斜面下になるので、川魚料理に欠かせない湧水が豊富な場所です。
同じ条件にあるのが、夏に記事にした佐倉の割烹うなぎ玉家ですね。

柳家店内2階

柳家店内2階。廊下もゆったり広々〜♪ こういう造りが老舗割烹の品格。

柳家小部屋

ただやはり、こういうお店は1人でふらりと来るお店じゃないです。
こんなゆったりした部屋に通されても、かえって落ち着きません^^;

柳家ランチメニュー

柳屋さんのランチメニュー(月・風・風・みちとせ)

柳家鰻メニュー

そしてこちらが、私おすすめの、柳屋さんの鰻メニューと、勇(いさみ)メニュー♪
勇(いさみ)メニューとは近藤勇の事で、柳家さんでは近藤勇陣屋跡など流山本町の観光に訪れた団体のお客様用に手軽なランチを用意しているんですね♪ エライ!柳家さん!
老舗でありながらこういう観光客用のサービスを提供していることに大感謝です♪

...で。料理評価の前に大きな声で 言いたい事が二つ。

一つは、若女将の接待が素晴らしい!

一つは、四代目店主が自転車乗り!

これは、私にとってポイント非常に高いです。あ...ランチメニューを説明せねば(^^;)
勇丼とは、うな丼。勇弁当とは、鉄火重です。あ...書いてあるか(^^;)

柳家勇丼(うな丼)

待つこと40〜50分...予約のお客様優先なのです。
キターーーー!!勇丼(=うな丼)

柳家の勇ランチ

え〜とですね。うな丼の中身の写真は、もうちょっと待ってね^^;
柳家さんの勇ランチの定義は、箸袋が「新選組流山隊」なのです。

流山チャンネル

2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」放映が決定した際、流山市観光プロジェクトとして行政・商工会などが連携して「新選組流山隊実行委員会」が結成されました。そして同時期に市内の(株)アーテックの松下英治さんが任意団体として新選組同好会を結成。

流山駅前の観光案内版

2005年3月に実行委員会は解散したのですが、その後、松下さんが任意団体「新選組流山隊」として各種イベントなどで流山の新選組をPRされています。松下さんは流山観光協会副会長でもあり、本業が看板・印刷業なので、このような箸袋から流山観光MAPの印刷・設置。それから江戸川左岸の土手に【○○の渡し】などの杭を設置したのも(株)アーテックなんですねぇ。

流山本町観光案内図

ですので私。近藤勇陣屋跡で観光案内されていた、だんだら羽織の方々を、てっきり「新選組流山隊」の方々だと思っていましたら、【北総新選組】の方だったと言う訳です。他にも、流山市中野久木にお住まいで、前.新人物往来社社長の大出俊幸さんは、全国に会員を持つ【新選組友の会】の代表者です。毎年4月には、流山本町6丁目(宿)の長流寺で『近藤勇忌』も行われていて、流山本町は、地元住人が思っている以上に、全国の新選組ファンから知られている場所なんですね。




柳家ランチうな丼

さぁ、お待たせしました^^;
こちらが、流山市割烹柳家さんの観光サービスランチの勇丼(うな丼)¥1,575です。
この他、勇弁当(鉄火重)¥1,575 勇膳(刺身・鯛兜酒蒸・うな丼)¥4,500もあります。
せっかくの鰻の旬なのだから、柳家さんで鰻を堪能したいという方は
鰻重¥2,625 特上鰻重¥3,150 うなぎ膳¥3,885 鰻会席¥5,250 もありますよ♪

えっ?これらは天然大うなぎの"ぼっか"なのかって?
まさか^^; この価格でそれは流石にないですよぉ(苦笑)
でも、サービスランチのうな丼でも、決して手抜きのない割烹の鰻が堪能できますヨ♪

柳家の極上うな丼

アップで見ると良くわかりますが・・・
老舗の割烹に卸されるうなぎは、身が厚く脂の乗った上級品です。
焼きもすごく丁寧で、ふわっとした身は口の中で優しくほぐれます。
タレも上品で、しつこくなく、それでいてしっかり味がしみています。

特筆すべきは、米粒1つ1つが立っていて、タレのかかっていないご飯だけ食べても美味い!
こういう丁寧な炊飯は、老舗ならではの伝統と技術ですねぇ。
女性の方なら、この勇丼(うな丼)でもお腹いっぱいになります。
ゆったりとした割烹の席で頂く1575円のうな丼は、コスパ最高レベルです♪
一人では敷居が高いけど、グループなら柳家サービスランチをおすすめしま〜す(^-^)

自転車(ポタリング)

・・・という事で、次回の流山旧道ポタ参加者の皆様へ

流山旧道ポタ

今回も鮮魚街道(うなぎ道)を経由しますので、当日のランチ場所は
流山市役所前、割烹柳家で鰻を食すことに致します。団体なので予約必須となりますので...

勇丼(うな丼)...¥1,575  鰻重...¥2,625  特上鰻重...¥3,150
の3品の中から、いずれかを決めて、以下のBBSにレスをお願い致しますm(_ _)m
http://www.teamtoukatsu.com/bbs/read.cgi?no=93

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2011年11月19日

posted by たすけ at 11:13 | Comment(18) | TrackBack(0) | 美味いもんチャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

里山と古民家を訪ねる / 飛騨里山サイクリング

自転車(ポタリング)

はじめまして、飛騨里山サイクリングと申します。blogを拝見させていただき、是非ツアーのご紹介をさせていただけないかと思い、書き込みをさせていただきました。

「えっ!?なんだこれ?」と突然の連絡に戸惑いながらも
■飛騨里山サイクリングweb ⇒http://www.satoyama-cycling.com/ を開いてみたら....

飛騨里山サイクリング

飛騨里山サイクリング02

「おぉ〜!面白そう!!」...って、興味津々に閲覧した私。
そして実際に体験された方のBLOGも拝見⇒里山サイクリング〜飛騨古川
そう!そう!まったり里山ポタ専科の私は、こーゆーのやってみたいんですよ(^-^)
やってみたいのは、案内される方じゃなくて、案内する側の方なんですけどねf(^^;)

最近は千葉県白井市や印西市に日本の原風景を求めている私ですが、岐阜県飛騨でこんな嬉しいことやってくれている団体があるんですねぇ♪
近日中に流山旧道ポタをやる予定なのですが、流山でもちょっと横道を奥まで行けば、まだディープなスポットや古民家や里山風景が残っています。けど、案外気がつかないみたいです。

たぶん飛騨へ行っても、たいていの観光客は飛騨高山止まり帰ってしまうのでしょうが、ディープなスポットや、日本の原風景は飛騨古川辺りにあるのかも知れませんね(^-^)
まだ知られざる飛騨のスポットを、自転車で案内して頂けるとはホントに嬉しい限りです♪

satoyama-experience.com

でも、ここはNPOとかボランティアではなく、事業運営は美ら地球(ちゅらぼし)という株式会社なんですね。コンセプトは日本の原風景「里山」の暮らしを伝える[Satoyama-Experience]
なるほど、なるほど、観光で名高い飛騨地方でも高齢化や人口減少で、貴重な古民家も維持や存続が難しく、都会の人に里山風景を案内すると同時に、古民家生活体験もすすめているのですねぇ。

飛騨民家のお手入れお助け隊

関心したのが、飛騨民家のお手入れお助け隊という『昔ながらの家屋にお住まいのご家庭を訪問、家屋のお手入れ(掃除など)をお助けする、言うなれば飛騨民家を応援するプロジェクト』
ちょっと前まで日本では、大きな労力を必要とする作業は集落の住民総出で助け合う『結(ゆい)』という相互扶助があったのですが、高齢化&人口減少でそれも難しくなっているのですねぇ。

(株)美ら地球では、Rural Japan Explorer = (外国人観光客へ)日本の原風景の中で生活体験 をPRする英文サイトも運営していて...う〜ん。これはニーズがあるだろうとなぁと、感心しまくりなWebサイトでした。それで、どんな人たちがやっているのかなぁ?と、飛騨高山サイクリングの運営スタッフさんたちのプロフィールを拝見したら
スタッフ一部の方々のプロフィールを抜粋させて頂きましたm(_ _)m
■ニュージーランドに渡り、Adventure Tourismを学んだ後、「世界で一番美しい散歩道」といわれるMilford Trackでガイドとして4シーズンを過ごす....
■ニュージーランドでは1年バックパッカ−生活ファームで働きながら旅を楽しむ。その後イギリスへ。1年間、現地の施設で介護スタッフとして働く....
■カンボジアでの日本語教師とアリゾナでの木こり生活を経て飛騨へ移住。
■アメリカ在住25年で、何を思ったか、突然飛騨に住むことに。
うへっ!すげ〜奴ばっかりで、面白そう!こんなユニークなスタッフばかりなら、日本の原風景を楽しみながら、海外面白エピソードも同時に聞けそうで、ホント興味津々です(笑)

以下、書き込み(連絡)の原文です・・・
私たちは飛騨地域を中心として、ルイガノを使った少人数のサイクリングツアーを催行しており、地元に精通したガイドが、ふだんの町歩きでは行けないようなディープなスポットへご案内させていただいております。

これからのシーズン、飛騨は冬に向かいますが、雪が積もってくる12/20頃まではツアーは毎日催行予定です。
冷たい風を切って走るポタリングで里山ぐらしを体験していただける、今シーズン最後の機会となりますので、ご都合よろしければ是非遊びに来ていただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。突然の書込み失礼いたしました。

飛騨里山サイクリング by 株式会社美ら地球(ちゅらぼし)
担当:大沼・松尾 Tel: 0577-73-5715 Fax: 0577-73-5717
Blog: http://hsc811.blog52.fc2.com/
facebook:http://www.facebook.com/SatoyamaCycling
Twitter: http://twitter.com/satoyamacycling 
早速、電話で確認したところ・・・。
※.自転車を輪行で持参した人には、割引があるそうです。
※.ポタの距離は、20km程度でアップダウンは少ないそうです。

なので自転車初心者や、まったりポタ専科の私のような人向けですね。
自転車乗りの中でも、ツーリングやヒルクライム好きな、そこのあなた!
もし現地に行っても、スタッフさんを後ろから煽っちゃだめよ(爆)
1日は自由に走り回って、1日はじっくり案内して頂く。というプランが良いかもですね(^-^)


追記:山形県遠野市から頂いたコメントでも、冬は自転車に乗れない...とありました。
    そうかぁ〜、たった5cm積もっただけで大騒ぎする首都圏とは違うんだなぁ・・・

ん?まてよ!雪が積もっても自転車遊び出来るじゃん!⇒雪上自転車(雪陸両用自転車)

どーよ!?どーよ!? 飛騨里山雪景色ポタリング♪
...って。いつもこんな事ばっかり考えている私です(笑)

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2011年11月18日

posted by たすけ at 23:46 | Comment(4) | TrackBack(0) | 自転車(ポタリング) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なでしこ新選組 / 休日、私は武士になる! / 北総新選組案内処

流山チャンネル

なでしこ新選組...は、私が勝ってに感じつけたネーミングで
休日、私は武士になる!...は、北総新選組・式部少輔(=なでしこ新選組キャプテン)さんの受け売りなのですが...その前にちょっと時代劇の思い出を。

ボクはいつか武士になる!1962年(昭和37年)

これは、1962年(昭和37年)の流山セントラルパーク駅入り口付近に立つ4歳の私^^;

流山セントラルパーク駅前付近の風景

んで、こちらが現在の同場所で、同じアングルで撮った写真。
ちょうど、マンホールの位置が私の立ち位置で、昭和37年の写真の正面に見える木立の辺りが、現在セブンイレブンや歯医者さん(亀の井歯科)がある場所です。

休日、私は武士になる!

んでもって、これがそれから約50年後の私。
「ワ〜イ!50年経ってようやく念願の武士になれたぞぉ〜♪」(爆)

え?そんな小さい頃から新選組が好きだったの?...いいえ^^;
たぶん竜巻小天狗になったつもり、だったのだと思います。
忍者と同じように背中に刀を差していますから^^;
私らの子供時代は竜巻小天狗をはじめ、忍者部隊月光、風のフジ丸、サスケ、仮面の忍者赤影、カムイ外伝とか時代劇ヒーローは忍者物が多かったような気がしますねー あ!忍者ハットリ君も(笑)

何故に突然、新選組? ...実はですね....

利根運河・流山本町ツーリズム(=流山の観光を盛り上げよう)の勉強会に出席させて頂いて
流山本町と言えば何? 味醂と一茶と新選組?
ん〜...新選組については「新選組血風録」「燃えよ剣」とかのドラマの世界しか知らないしなぁ。。。

過去記事にあるように、私は2004年に放映されたNHK大河ドラマ「新選組!」は、ほとんど観ていなかったのですが、この大河ドラマによる新選組ブームで、全国あちこちで新選組同好会や町おこし隊のようなサークルや団体が誕生したようです。
それと今回の新選組ブームは大河ドラマ「新選組!」の近藤勇、土方歳三、沖田総司が、SMAP香取信吾、山本耕史、藤原竜也というイケメン隊士の影響なのからか、いろいろな新選組関連のイベント動画を見ても女性隊士(=なでしこ新選組隊士)の比率が高いことに驚きました。

う〜ん...ちょっと新選組について、勉強し直せば...つまりは、
思い立ったら、直ぐに現地(フィールドワーク)に行かねばと。

しかし、新選組誕生のルーツを辿れば、清河八郎の庄内藩(山形県)なんですが、まさかそこまで足を伸ばせないので、とりあえず、近藤勇や土方歳三の出身地の日野市に行った時、ちょっとコスプレしてみた訳なんです^^; (それについては、後日記事にします)

流山近藤勇陣跡01

...で。流山駅や流山本町(根郷)の新選組陣跡(=近藤勇陣跡)前に、いつも新選組のだんだら羽織を着ている方々がいらしたのですが、これまではお見かけしても特にお話しするでもなく、素通りしていたのですが、ほんのちょっと自分も新選組気分を味わってしまったものですから、なんとなく親しみ感じちゃって(苦笑)

流山近藤勇陣跡02

「こんにちわ、新選組流山隊の方ですよね?」
「いいえ、私たちは北総新選組です!」
「・・・え?・・・」


・・・これが、私と交通文化連盟との出会いだったんです・・・
     [関連記事その1]  [関連記事その2]

休日、私は武士になる!

休日、私は武士になる!...とは。【幕末機動警察隊・新選組 北総新選組案内処】で、なでしこ隊士のリーダー役を務める『稲葉式部少輔さん』の台詞だったのです...すみません、パクリました(^^;)

「休日、私は武士になる!」どころか1年365日、身も心も武士みたいな方で。しかも、これは私のようなコスプレではなく、れっきとした制服だそうで(驚)若い隊士をリードする率先垂範ぶりは、なでしこジャパン・キャプテンの沢穂希のような方でした。

何より驚いたのは、7年以上も新選組:近藤勇陣跡で流山本町を訪れた観光客のご案内係を継続されていたことで。現在は、3〜11月の晴天日祝日11〜17時ということですが、ほとんどの土日祝、北総新選組の方々が流山近藤勇陣跡にて無償の観光案内をされていたのですねぇ。

まさに、流山本町ツーリズムの率先垂範ホスピタリティを実行されていた訳で なんだか...
『先ずは、新選組のにわか知識とコスプレから入ろう』とした私が恥ずかしくなりました。そして、地元でずっとこのような地道な活動をしている団体があることを知らなかったことに恐縮いたしました。

【北総新選組】の正式名称は、「幕僚長=吉野さん」曰く 特定非営利活動法人交通文化連盟社会局地域部主管・鉄道輸送警備隊第三業務隊東葛方面派遣隊」...って。長すぎるよぉ(T_T)

長いのには、それなりの理由がある訳なんですが...
リンク先読んだ方は目が点になったでしょ?
..っていうか、全部目を通さずに閉じてしまった人が大部分かと(^^;)
だって私も最初「なんじゃこりゃ???」だったもん(^^;)

まぁ、直接お会いしてお話しすると
なでしこジャパンの佐々木則夫監督みたいな、とても気さくな方なんですけどね(^^;)

幕僚長さん自身も『普通 そんな煩い事言うところに、ボランティアなぞしに来ませんて。指揮官は変態でも 隊員は立派です はい』と書いていらっしゃいますが。
7年以上も流山新選組本陣跡を中心に流山本町の観光案内のボランティアが続いている事。
交通文化連盟の奇怪なる仕組みと活動が30年も続いていることに興味を惹かれまして。

交通文化連盟の各コンテンツ
【常在戦場!〜安房守義将之勝手御免〜】
【幕末機動警察隊・新選組 北総新選組案内処】などを通読してみた訳です。

いや〜耐震偽装事件や広島ドッグパークの時に【きっこのブログ】を通読して以来の記事数と文書量でした(>_<) でも、そんなこと言いながら、のめり込んで通読した私も変態ですよね(自爆)

北総新選組オリジナルキャラクターしもうさ.
これは、北総新選組オリジナルキャラクターの "しもうさ"(^-^)

北総新選組の運営母体は、規律と統率を重んじる【交通文化連盟】なので、上下関係や礼儀作法などはしっかりしているのですが....
他の新選組サークルと同様、若い女性の「なでしこ隊士」が多いものだから
鉄道趣味とは全く縁の無い新選組ボランティアから声が上がりました。
「これって何処に行けば乗れるの?」
「無くなったよん。部品が確保できないってんで、何年か前に・・・」
「そ〜なんだ、可愛いよね。」
こっちがへ〜そ〜なんだ。です。
汽車見て・・・可愛い・・・なんだ。
...と。もはや、中年となった『C623復活に夢をかけた少年』も
ジェネレーションギャップに戸惑う日々のようです(笑)

流山で生まれ育った私にとって、正直、流山の近藤勇陣屋跡なんて、全国に点在する他の新選組関連の史跡と比較すると、しょぼい史跡だよなぁ...とこれまで思ってきたのですが
北総新選組案内処のおかげで、胸を張ってご紹介できる史跡になりました♪

流山市(流山駅)にお越しの際は、是非⇒地図【近藤勇陣屋跡:北総新選組案内処】
にお立ち寄りくださいませませです♪ 『徒歩5分』もかかりませんヨ♪
冒頭写真の、流山セントラルパーク駅(つくばエクスプレス)からだと『徒歩25分』くらいです。
但し3月〜11月の日・祝(11時〜17時位)で
雨天の場合は、休止となっていますのでご注意をば(^-^)

*お詫び:関連記事中に大山格氏に関わる記述がございましたが、私は同氏とは面識も関係もなく、誤解を招いてしまった事を、ここにお詫び申し上げます。

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2011年11月15日

posted by たすけ at 23:21 | Comment(6) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

交通文化連盟と流山線と新選組

流山チャンネル

交通文化連盟と流山線と新選組・・・これらの関連性について...また長文になりますが。

私、コンプレックスがあります。それはすぐに興味の対象が変わって、一途にやり遂げる継続力がないことです。なので、人生をかけて一つのことを追い続けている方に出会うと、その方を尊敬すると同時にすごく興味を惹かれます。
今回の吉野俊太郎さん(=安房守源義将さん)との出会いがそのケースで、代表を務める特定非営利活動法人交通文化連盟(以下、交通文化連盟)ってどんなNPOなんだろう?と、ここ3週間ずっと交通文化連盟の関連サイトやブログを通読させて頂いていました。

けど、まずちょっと、忌憚のない苦言をば...
特定非営利活動法人交通文化連盟のトップ頁(フレーム構成)は⇒こちら なのですが公式ホームページの文字をクリックすると、メニューが出ますが、ま〜、とにかく見づらい(>_<)! わかり難い!(>_<)!クリック先に同じ内容が重複する頁がいくつもあり、HPとしては最悪な作り方です。
いやぁ〜こんなにイライラするユーザビリティの悪いサイトは久々に出会いました。
これでは訪問者が、読み進む気が失せてしまいます。

最も感銘した【走将C623】のコンテンツもトップ頁から辿りついたのではなく、"C623,復活"という検索から辿りついた訳で。特定非営利活動法人交通文化連盟とはという自己紹介頁さえも、TOP頁から辿りつけないサイト階層(ディレクトリ)になっています。

もったいないなぁ・・・いずれ作り直すのだと思いますが・・・・
とりあえず、交通文化連盟に興味を持った方は、トップ頁ではなくこちらの⇒交通文化連盟総合案内をお気に入りに登録されておいた方が無難だと思います。

さて、交通文化連盟の事業(活動)一つに、鉄道輸送警備隊があります。

鉄道輸送警備隊01

明確な組織・指揮系統を持って警備ボランティア活動を始めたのは、私達が日本で最初で、昭和57(1982)年5月3日にスタートしました。当初は北海道鉄道研究会(任意団体)の部科として6名が任命され、以来20余年一貫してイベント列車や蒸気機関車運行時の「自主的な防災防犯警備活動」を行って参りました。

今でこそ、阪神淡路・東日本大震災を経て、ボランティアとは遊び半分(物見遊山)で参加するものではない。との意識は高いと思いますが、昭和57年当時でこのような意識をもってボランティアに参加する人は少なかったと思います。ましてや、年齢的に若いリーダーとなってしまった吉野さんにとって想像を絶する苦労があったのだと思います。

私、最初に、交通文化連盟の鉄道輸送警備隊規約⇒こちらを見た時、正気とは思えないほどの条項の羅列に「なんじゃこりゃ???」「このNPO団体に近づくのは止めよう」
...とまで思いました(苦笑)

しかし、前記事【C623復活に夢をかけた少年の話 / 大いなる旅路】を詳細と走将C623のリンク先まで、全て読まれた方なら理解されたと思うのですが、C623復活計画はボランティア(市民運動)によって成功し、その破綻(挫折)の原因もまた、ボランティア自身(=内紛や無責任感)であったことへの深い反省に起因しているのです。特に鉄道運行に関わるボランティアは安全運行が第一義であり、警察と同様、いえ、ボランティアであるがゆえに、警察以上の規律や統制をしておかなければ...という事だったのですねぇ。

交通文化連盟の代表者:吉野俊太郎氏のブログは常在戦場!〜安房守義将之勝手御免〜のブログというブログ名ですが....常在戦場!ってどういう意味から?
特定非営利活動推進法には「地域の安全」を行う事業と明記され、特定非営利活動法人として独自に市民防犯活動を行うものも随分増えて参りました。しかし、社会文化ボランティア系NPOで警備隊を持っているのは、私達交通文化連盟だけです。
(・・・そんな警備隊活動の中で・・・)
やはり、鉄道マニア相手に怒号浴びせて、駆け回る方が幸福ですよ。
そして・・・そんな現場=戦場こそが、小生が「生きている」っと実感できる唯一の瞬間でございまして、まぁ日々常に戦場に在る緊張感には包まれて居ります。
なもんで、タイトルが常に戦場に在り・・・「常在戦場」なんですけれどねぇ
http://ameblo.jp/alphax/entry-10929930013.html
ん〜...やっぱりこの人ちょっと変態かも?(笑)

吉野さんに会う時、この人、たいてい制服を着ています。制服フェチなのかなぁ?
と思っていましたら...上野駅学生臨時雇用員(臨雇)時代に、改札助役さんからの
「学生と言っても御客様から見たら、国鉄職員なんだ。我々は制帽と制服の襟に3つの動輪を掲げているんだが・・・これは御客様の身体・生命・時間に関する約束を守りますよと言う誓いでもある。だから仕事中は制服と制帽の3つの動輪を下げてはいけない。」
この心構えが、染みているのだと知りました。

鉄道輸送警備隊02

確かにスッタフジャンバーのような軽装よりそれらしい制服を着用した方が、警備する側は気持ちが引き締るだろうし、乗客や鉄道ファンへのアピールとしても効果的かもしれませんね。
それにしても同じく鉄道を愛する人々の、敢えて嫌われ役となり、なおかつ無報酬で警備ボランティアをすることは辛くないのかなぁ?...と思っていましたら。
現場で貰うエネルギーは、その汽車に向かって笑顔で手を振る人達なんです。
刹那的ですが、その位の覚悟が無ければイベント列車の企画・運営・警備なんて一貫して出来ませんよ。全て生身の人間が相手ですもの。
ですから鉄道輸送警備隊のコードネームは全て武士の名乗りとなっているのでございます。
http://ameblo.jp/alphax/entry-10518945269.html
...だから武士の名乗りなのねぇ。。。



私が交通文化連盟を知ったのは、小樽-ニセコのC623復活劇ではなく、流山線と新選組からです。⇒交通文化連盟:幕末機動警察隊・北総新選組

幕末機動警察隊・北総新選組

以下は、交通文化連盟サイトや〜安房守義将之勝手御免〜ブログからの引用で、本来は引用記事URLを記述しなければ失礼なのですが、どこの記事だったか探しても見つけ出すことできなくなりました すみませんm(__)m

〜吉野さんと鉄道関係の師との会話より〜
「君、これはまた面白いね、新選組?」
「路線全体の旅客誘致を進める為には、駅を基軸として魅力的、元気が必要と・・・」
「ほう・・・」
「駅ごとに御客様が立ち寄っていただける仕組みを出来る限り行政に依存しないで作る
そんな方程式を作りまして、各地に輸出したいのです・・・」


本来、当該事業は
「流山線沿線に於ける観光スポットの誘致促進を図り、当該路線利用旅客の増加を目論むもの・・・」(事業計画書による)でして・・・

基本方針は行政等に依存若しくは干渉されず、またしない・・・
つまり税金をとにかく使わないで民間力によって住宅街の観光史跡を盛り立てて、
「並行してこの周辺に徒歩での観光来訪客を誘致し、その「滞留時間を引き延ばす」ことによる周辺商店街への直接的「経済効果」の拡大と、流鉄利用者、ことに「普通乗車券」による利用を促進する起爆剤として」

つまり、街の中を色々歩いて頂いて、ついでに飲み食い買いして頂こうよ・・・
つまり、ファンクラブでもコスプレ倶楽部でも無いから出来たんです。

手作り観光スポットによる鉄道利用増加。
「流山スタイル」ってのを具現化しようぜ。
かなり多くの方に誤解をされていると伺いましたので、明確に否定しておきます。
特定非営利活動法人交通文化連盟は、交通文化財保存活用・地域観光創造・国内旅行需要喚起・ボランティア人口の拡大と言う四点が基礎で、目標は日本最大の蒸気機関車C62形式重連永久運行の実現です。
北総新選組=新選組ボランティアは地域観光創造事業の一環として行っているものでして、ウチは新選組のNPOではございません。


7月3日日曜日・・・私は流山「大久保大和守剛本陣跡」の隣で目覚めた。
前日の夜に地元商店会が主催した「せんげん誠祭」で、史跡とされている長岡屋七郎兵衛邸跡地土蔵前の通りにロウソクを並べたコンテンツの防災対策要員として泊まり込んでいた。
新選組とC623機、全く関係が無い様に見えて、歴史的には細かい事だが関係はある。
それもそうなのだが、現在のこの渾沌とした日本で「蒸機復活」を確実にして行く為には、この一見すると寂れた商店会がC623機復活の大きなカギを握っている。

私は政治家では無い、そんなものになりたいとも思わないし、あんな大変な仕事をやれるとも思わない。が、この国では鉄道は政治と密接な関係を保ち続けているので、単に趣味として好きだの嫌いだのと言っている限りには政治は無関係ではある。しかし、現場の職員や一歩その世界に足を踏み入れた場合にはイヤになる程政治的である。

殊に蒸気機関車プログラムは、独自の機材としなくても巨額の費用があれよあれよと飛んで消えるもので、実現を考えた場合には「1円の有効的使用」が正否の鍵になるのである。
その為には無駄な費用=無駄な時間こそ大敵ではある。
その最先端は鉄文協による前回企画である。
しかし、その実現には直接政治的パワーは使われなかった・・・
むしろ「鉄道屋人脈」のパワーがモノを言ったのである。
かくしてC623機は走った・・・しかし、7年で破綻した。
その苦い経験から導きだした私なりの方程式は「地域活性化主眼」
と言う事だったのである。

さて、実効的に鉄道と地域産業活性化を結び付ける方法論を
と言うとこれが案外難しいもので、一定の方程式として簡単には当てはめられない・・・
鉄道の性質や地域の特性も大きく左右して来るからである。
他方、作業内容は差異があってもコンセプトが一定普遍なものがある筈で
「新選組流山本陣守備隊」はそれを見い出す為の壮大な実験場なのである。
とは言え、C623機の犠牲に流山をするつもりも意図も無い。
むしろ流山で大成功をしなければC623機は無いのである。
昨年3月から現場に出て、解った事が幾つかあるが、その中で最も大きい収穫は、
「誠実こそ最強の信用」と言う事である。

時として余りに道のりが遠く、弱気にもなるし愚癡も出る。
しかし、電灯の下で私達ボランティアに多々御馳走を用意して提供し、労いをしてくれる大恩あるかの商店会の人々の姿を若干二日酔いの頭に水を掛け考えれば、遠い様で確実な前進になっているのである。

しかし、小樽は遠い。その精神的距離を粘り強く諦めないで走り続けられるかどうか・・・
実はその一点がC623機再復活の「答」だったりするのである。
(2005/07/06)


正直、私(たすけ)にとっては「もし、C623の再々復活が叶えられたら凄いなぁ...」
という他人事なんです....すみません^^;

C623復活

興味と感銘を受けたのは『行政等に依存若しくは干渉されず、またしない・・・つまり税金をとにかく使わないで民間力によって住宅街の観光史跡を盛り立てて』
ということがホントに実現するなら、何か自分でも協働出来ることはないかなぁ...
という点で、交通文化連盟に賛同する訳なんです。....と同時に

もし、拙ブログ読者の中で、流山市民の方や、流山行政に関与されている方がいらしたら
このような団体がすでに7年以上も、流山市内で地道な活動をしていることを知って頂きたい
と思い、長々記事にしてみた訳です。

ただ、吉野俊太郎さん...この人、基本的に変わり者です。
自論も何十年と歌い続けておりますと、迷惑がキャラクター
と評価の変化が現れる事がございます。
どんな人でも主義や熱くなれるものはあります。
その「骨」が、ふらふらしないかどうか・・・
どうもそれが重要なのらしいですわ
...とご本人が仰っているくらいですから(笑)

行政予算の縮小を迫らている現在、流山市をはじめとして、文化施設・事業のたいていはNPO団体に委託という形で運営されています。委託=下請けと考えれば、結局は税金を使っているのと変わりありません。全くの行政支援なくして町おこしをすることは、現状ではかなり困難だと思うのですが、国鉄分割民営化(合理化の嵐)の中で、C623復活という不可能を可能した体験を持つ吉野俊太郎さんの、強い信念に敬服する次第です。

※.本記事の画像は、全て交通文化連盟に承諾を得て掲載しました。
  私自身は、同団体のメンバーではありません。

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2011年11月14日

posted by たすけ at 23:51 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

C623復活に夢をかけた少年の話 / 大いなる旅路

お気に入りサイト

C623復活に夢をかけた少年の話の前に少し解説をば。
※注.リンク先の動画はいずれ削除されるかもしれません。
 かなり長い動画もあるのでご興味のある方は、時間のある時にでもご参照ください。

鉄道ファン(SLファン)なら説明不要なのですが・・・
日本の機関車史上、1,115両と最も多く製造されたのがD51形(デゴイチ)
通称「貴婦人」と呼ばれ、戦前から201両製造されのが蒸気機関車がC57形(シゴナナ)

ここに⇒昭和15年制作のC57に関する動画(44分)があります。
蒸気機関車を動かすために、如何に多くの訓練や労苦が必要というのがよくわかります。

蒸気機関車の「CとかDとか」って何?⇒こちらのイラストわかりやすいです。
ABCD⇒1234 つまり、C=動輪が3つ D=動輪が4つです。
自転車乗りなら体感しているのですが、車輪が大きいほど高速運転が可能です。
C形(動輪3つ)は主に旅客用。D形(動輪4つ)は主に貨物輸送と考えてください。

終戦後、旅客用牽引用SLが圧倒的に不足してた日本でしたが、GHQの許可なしに新造できなかったので、苦肉の策として余剰となっていたD51形やD52形を改造したのがC61形やC62形です。特にC62形(シロクニ)は、特急・急行列車の牽引を目的に全49両生産(=改造)されました。
このうち、C6217号(=C62型17番目)は、狭軌による世界最高速度129km/hを記録した蒸気機関車であり、この記録は蒸気機関車としては未だに破られていません。(もう、破られることも無いでしょう。)
また、C62形は銀河鉄道999のモデルとしても知られていて、鉄道ファンにとって特別な存在です。

C62(シロクニ)に深化(特化)したサイトは⇒こちらがおすすめ
ここに⇒函館本線を走っていたC62重連の動画があります。(全43分)
こちらは同短編⇒雪の峠に挑むC62重連の動画【函館本線】(10分)

重連とは2両の機関車を連結して客車を牽引することですが、スピードを優先するC62にとってその重い体重(自重)は致命的で、その為に寒冷地(=車輪がスリップしやすい)で、しかも峠越えの多いこの路線(山線の方)ではトルクのあるD51との重連や、C62同士の重連という形で運用されていました。
そして1971年(昭和46年)の「さよならC62三重連」を最後に、栄光のSLC62は現役を引退。その後臨時(記念)列車として、1972年8月に小樽-岩見沢館でC622が「さよならC62号」を経て、京都の梅小路機関車館へ。C623は同年9月の小樽-長万部間の普通列車牽引を最後に、小樽市手宮の北海道鉄道記念館(=小樽交通記念館 )で休眠につくことになります。



ここからがC623復活に夢をかけた少年の本題です。
国鉄の分割民営化以降、復活した最大の蒸気機関車で、最初に市民主導で実現し、ボランティアがSL運行に直接参加した初のケースが、北海道鉄道文化協議会のC623復活計画でした。

以下は、【走将C623の序章・邂逅】からの抜粋
彼がC623機に出会ったのは、昭和56(1981)年7月28日の正午だった。
親戚の葬式と言う名目で上野から寝台特急「はくつる」に飛び乗ったのは一昨日だった。
8月には仲間達と道内旅行を楽しむ事としていたが、ホームで5M車中に消える彼の姿を見て、仲間達は地平第二ホーム(15番線)に参集してきた。皆、彼と同じ日本トレインクラブのメンバーで、日本国有鉄道上野駅学生臨時雇用員(臨雇)の仲間達であった

レール上に置いてあった99.95tのC623機は、黒く後志の真夏の太陽を浴びて輝いていた。傍らに「小樽築港機関区」と書かれたトラックが停まっていて、国鉄職員達が一服していた。

「これ、もう走れないんですよね?」
「SLは部品換えて、ちゃんとお守すれば幾らでも走るさ、百年や二百年位・・」
「ええっ?百年ですか?それは無理では・・・」
「いやいや、蒸機はな、部品を換えて手入れすりゃ、なんぼでも走るよ、特にコイツは最後までウチに居て、言う事聞く奴だったから、まだまだやれるべ」


高校生が何が出来るのだろうか・・・普通の人間ならばそう考えたろう、しかし彼は違った。
そう・・・一旦執着すると寝食無関係にのめり込む・・・本物の馬鹿だった。

以下は、【走将C623の宿命・転換】からの抜粋
秋葉原の交通博物館のC57135の前で動輪を眺めていた少年は、隣の老人に声を掛けた。
「こんなのが走ったら、凄いですけれど
C62はもっと大きいんです。御存知ですか?」

彼は見学に来た一人の老人と思ってこんな事を言ったのだが、老人は
「C62ですか・・・」
「ええ、小樽のC623の走るのを見てみたいと思っておりまして・・・」
「君、面白そうな話ですね・・・ちょっと松澤君、彼を部屋へ・・・」

そして老人は「財団法人交通文化振興財団会長」と書かれた名刺を渡した・・・

少年はあの夏の日にC623機と出会ってからC623機に取り憑かれてしまった。
本当に本気の馬鹿になったのであった。日本トレインクラブの仲間達にC623機復活をぶち上げてやはり馬鹿!と言われたのだが、その11月28日には北海道鉄道研究部を立ち上げて、翌年には北海道鉄道研究会として独立して「C623機復活」をテーマとして追い掛けていた。

仲間達は国鉄新規採用停止で国鉄を諦め、臨雇を去り民鉄に散ったが、彼だけは最後まで国鉄と上野駅に留まりたい!と頑固だった。誰もが同じ気持ちではあったから、誰も説得も説教もしなかった。が、C623機だけは皆一様に諌めた。

「俺達に何が出来る?どんなに銭掛かるか知らないんだぜ」
「なら、銭の掛からないところで攻めるよ」


散々罵倒された。しかし、怯まなかった。むしろ罵倒されればその反論を一生懸命考えて、法律的と言われれば図書館に通い詰めてその突破口を探した。

その結論が、「鉄道輸送警備隊」だった。運行に際して最も危倶されるのは群集する鉄道マニアで、その警備は彼等の行動を警備会社や警察が把握しにくいだけに困難で、また警備費だけで復元費用に相当する事も解った。問題はそれに「悪戯」が横行している事だった。

沿線で人の家の庭や畑を踏み荒らす、道路やレールにまで鈴生りになって列車を停めてしまう事もあったし、SLを撮る為に対向列車に接触して死亡する事件などもあった。SLにとって何よりの敵は「事故」だと認識した。であれば、ボランティアの警備チームを配置して事故や犯罪を防圧しよう、と考えたのだ。

それと並行して、SL企画のスタイルも研究していた。国鉄がこんな状態ではとてもSLなんて言い出せない、ならば民間主導の「主催型」=オーダーメイド列車で実施する方法は?となり、その実験としてその8月に北海道で団体専用臨時列車の運行の準備をしていたのだった。その資材を買いに行った秋葉原で交通博物館に立ち寄ったものである。

以下は、【ぐらふぃてぃC623】からの抜粋
昭和62年1月、始めて「小樽SL復活の会」の人と直に初めて会ったのは、札幌京王プラザホテルのティーサロンでした。
「僕達は真剣です、君は真剣ですか?」
「真剣です。」
「この機会を逃したら二度とC62の本当に走る姿は見られないと思いますから」
「何の為に、真剣になれるの?」
「君は小樽の人間でも、これで金儲けが出来る訳でも無いのに?」
「国鉄人として・・・」
「一瞬でも良いから本物の国鉄人として生きた証しを残したいんです!」

うっすらと渡部さんが涙ぐみ、工藤さんは満面の笑顔になってくれました。

少年が最初にこの計画に「接触」したのは昭和61年の4月初旬だった。
友人からの情報で小樽築港機関区C623機計画を知り、そもそも以前から「C623機復活に向けての列車運行=団体専用臨時列車の研究」として、とにかく道内で一本列車を仕立てる事として、その準備をしている最中の事であった。

以来4ヶ月余、初めて接した「小樽の先輩」達は、私の馬鹿が単なる馬鹿で無く、真剣に大馬鹿である事を知ってくれて、「仲間」と呼んで受け入れてくれた。
当初の「C623機」計画では、小樽〜倶知安間を1日1往復、年間90日程度として、14系客車6Bで「臨時急行」としたものだった。 とにかくC623機を「本線」に復活させる為の「理由付け」でしか無かったものだが、馬鹿は馬鹿なりに早速噛み付いた。

「在来型一般車で無ければ、全国区のSLにはなりませんよ、それにニセコと言い、急行とするならば食堂車か軽食喫茶は必要です。日本最大最速最美と言っても、それだけではアピールが弱いのでは?」
「在来型一般車、ですか?」
「食堂って、それは珈琲の飲める?」
「はい!イメージとしては喫茶店です。」


で、3人黙った。実は既にこの時に上島珈琲本社(UCC)のタイアップは決定していたのだ、しかしその時点で私はそれを知らなかった。

「君が考えるのは、どんな汽車?」
「はい、通常は小樽〜倶知安で在来型一般車5両程度、1両は内装を換えて食堂車にします・・・蒸気機関車は小樽から倶知安か、皿(転車台)の残っている長万部まで・・・来年には青函トンネルも出来るので、函館には随分観光客も行くでしょうから、その御客様を小樽へ直接引っ張る為に・・・」

以上は【走将C623】のコンテンツのごく一部からの抜粋です。
詳細は【走将C623】のメイン頁⇒こちらからお読みください。

あまりに長い旅路なので、かなり省略していますが、C623復活に夢をかけた少年の構想は
単にC623を復活して走らせることでなく、それを導線として沿線の観光産業を活性化させる(=現在の町おこし構想)であったことに、大人たちは驚愕したのでした。

1981年(昭和56)年7月
手宮の鉄道記念館で眠っていたC623号に少年が出会ってから7年後
1988年(昭和63年)4月25日、奇跡の復活を遂げ、15年ぶりに小樽・倶知安間を走りました。
『快速C62ニセコ号の記録上は
 運転開始日が1988年(昭和63年)4月29日で、運転終了日が1995年(平成16年)11月3日)』
奇しくも7年間の復活劇でした。

C623の復活までの道程で、最も大きなエポックは、国鉄の分割民営化=JR誕生です。最盛期に46万人居た国鉄職員は1986年(昭和61年)には、合理化に伴い28万人弱に縮小しましたが、1987年(昭和62年)の国鉄⇒JR分割民営化に向けて20万人への人員整理(リストラ)が必要でした。

多くの人員を必要とするSL運行は、そんな状況で特に赤字路線を多く抱える北海道でC623の復活など、夢のまた夢の話でした。そんな夢物語が実現したのは、元国鉄マン(機関区の人々)の情熱と、C623復活に夢をかける民間人(北海道鉄道文化協議会)の協働があればこそでした。



これは、国鉄最後の日1987年(昭和62年)の3月31日から、JR誕生の4月1日午前0時に変わる時の動画です。この中に北海道・小樽運転区で息を吹き返したC623が登場します。鉄道員(ぽっぽや)の意地と心意気で、1年後のC623通常運行に備えてC623は準備を整えていました。
この現場に、もはや青年となった【C623復活に夢をかけた少年】を居て、感涙にむせんでいました。 
ボーッ!
走将・C623機は甦った。
その汽笛は不可能を可能にした人間勝利を宣言する、走将の獅子吼だった。
昭和62(1987)年3月31日23時59分。
会場に螢の光が流れた。日本国有鉄道の幕を閉じる惜別の歌である。
彼は独り電気機関車庫の方に歩いた。誰にも眼に付かない所へ・・・そして、号泣した。もう二度と戻れない母なる日本国有鉄道、そしてC623機の復活にただ無心だった5年間・・・そして今、夢は現実になった。複雑な思いを大声で泣いて掻き捨てようとした

こうして手宮の鉄道記念館で眠っていたC623号機は翌年、1988年(昭和63年)4月25日、奇跡の復活を遂げ、15年ぶりに小樽・倶知安間を走りました。
このC623ニセコ号の画像は数多くの鉄道ファンの方々がHPやブログにアップされています。おすすめは⇒こちら

C623の復活運行には
機関士・整備士というベテラン鉄道員の情熱がなかったら、実現しなかったでしょう。
しかし、C623ニセコ号の運行母体は、JR北海道でなく1987年(昭和62)に発足した、任意団体・北海道鉄道文化協議会(略称:鉄文協)であり、鉄文教の最終目的が東洋一と言われた 「小樽築港機関区の扇形庫」 の保存と存続であったことを知る方は、数少ないと思います。

鉄文協の会長は、小樽の中澤漁網社長の中澤信行氏
副会長には、上島珈琲の上島達司社長とハドソンの工藤裕司社長
専務理事兼任事務局長として、工藤竜男氏
でしたが
C623復活に誰よりも情熱を傾け、大人たちにアイディア(企画)を提供した
【C623復活に夢をかけた少年】吉野俊太郎氏を知る方はさらに少ないでしょう。



こちらが小雪まじりの雨の日に、倶知安(くっちゃん)峠を登る、復活したC623(=快速C62ニセコ号)で、同場所で乗客側が撮った動画が⇒こちら
単独で山線(峠越え)を運行するために、C623は軽量化の改造が行われましたが、それでも『滑り止めの砂を撒きながら登坂しても、空転(車輪の空回り)しています。』
雪の中を走るSLは絵になり、そんな姿を鉄道ファンは望みますが、吉野氏曰く、最大最速の機関車とは『小錦がハイヒールを履いて走るようなものです』という言葉が、滑りやすい冬期の線路を高速仕様に造られたSLが登坂することの難しさをよく表しています。

吉野俊太郎氏は、C623ニセコ号運行時は、【鉄道輸送警備隊ボランティア】のリーダー役を引き受けました。鉄道輸送警備隊ボランティアは、列車の安全運行のために、危険個所で撮影をしようとする鉄道ファンを整理・排除したり、危険行為を及ぼす乗客を監視する、鉄道ファンから、最も疎まれる(=嫌われ役)の損な役回りです。

「何故?そんな嫌われ役のリーダーになったのですか?」
「警備してもお金にもならないし、絶対損な役回りですよね?」
「たすけさん、鉄道運行の第一義は安全なのですよ。」
「もし事故でも起こったらせっかく復活した運行が駄目になります。」
「それに、警備会社に委託したらそれだけ費用がかさみます」


吉野俊太郎氏は、常在戦場!〜安房守義将之勝手御免〜というブログを綴っていますが、その中の⇒こちらの記事中
鉄道の乗車券は入場券では無い。
 その表記された区間に於いて、旅客や貨物の運送を引き受けた契約書であり、有価証券なのである。
新幹線はその利便性追加の付加条件でしか無い。
本来は乗車券のみでその区間の運送をする責任があるのだ。
という一節を書いています。この言葉に吉野氏の鉄道員魂(国鉄魂)を見た気がしました。

引用を多用して、長々書きましたが、私が吉野氏(=安房守義将)に対してもっとも驚愕した点は、C623の再々復活を本気で考えていることでした。
法人と言う事もそうだがどうすればC623機とNPOが繋がるか・・・
一度まとめたPHOENIXプランの企画書を書き直し、2002年11月3日には今までの事を明白に報告し、鉄文協を一旦総括した上で、旗揚げしたい・・・

そして、私はもう一人の師匠にその報告をする為にJR東日本飯田橋駅に降り立った。
「君が何処までやれるか、期待してます。」
誰かに命令される訳でも、動かされている訳でも無い。
しかし私には果たさなければ成らない「義」がある。
「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」

今まで公表も報道もされては居ないが、確かに「不可能を可能」にした人達が居る。その名誉と「確かに此処に生きた」証を立てる為に、C623機は断じて「過去のもの」とはしない。
それが私達の「義」でありますから・・・。
かくして2003年(平成14年)6月に
吉野俊太郎氏はNPO法人【特定非営利活動法人 交通文化連盟】を設立しました。
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2011年11月13日

posted by たすけ at 21:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | お気に入りサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昭和30年代の東野鉄道と大いなる旅路

昭和30年代の追憶

旅は長く遠く 肩の荷重く 時に堪えかねて 涙をふけば
胸の奥に熱く 何かが騒いだ あの日とめどなく あふれた夢さ
なつかしい人が 遥かな日々が 時の流れこえて ほら めぐる旅路さ


私が生まれた1958年(昭和33年)に撮影された東野鉄道(とうやてつどう)の蒸気機関車を、SKOSHIRO29さんが動画でアップされていました(感激!)
東野鉄道は、私が10歳になった1968年(昭和43年)に全線廃線となってしまいました。



蒸気機関車やローカル線の風景を見ると、テレビドラマの大いなる旅路の歌が脳裏でリフレインする私です。ドラマ『大いなる旅路』は1972年(昭和47年)の作品ですが、それ以前1960年(昭和35年)に、高倉健が出演した映画『大いなる旅路』があったことを知ったのは、ずいぶん後年の事でした。

高倉健と鉄道と言えば、やはり『鉄道員(ぽっぽや)』でしょうか?
私の母は東野鉄道(とうやてつどう)の鉄道員の娘、つまり私はぽっぽやの孫【過去記事】になります。過去記事にあるように、祖父は享年36歳で亡くなっていますので、私の知る祖父は、駅長帽を被って微笑んでいる遺影だけです。現在は祖母も亡くなり、先夫であった祖父と仲良く西那須野駅にほど近い霊園に眠っています。

西那須野駅1968年(昭和43年)

でも実は、東野鉄道を走るSLは記憶になく、気動車と古い駅舎の方が懐かしい私です。今でも気動車が走る常総線沿線をポタリングすると、その風景に胸の奥が熱くなります。

そうしたら、ぼっちぼっちの旅日記さんが、東野鉄道廃線の1968年(昭和43年)12月と題して3頁記事にされていて、涙がチョチョ切れものの、懐かしい西那須野旧駅舎とキハ501に再会できました♪
(もしかしたら、SKOSHIRO29さんと bocchi_bochiは、同一人物なのかな?)

東野鉄道廃線跡地図

この西那須野駅から延びる東野鉄道の線路図は、那須塩原市にお住まいのうににんさんの花鳥風月Visual紀行サイトの東野鉄道の廃線跡を訪ねるのコンテンツより拝借しましたm(_ _)m

一度だけ、母と叔母家族(いとこ家族)と一緒に、このコンテンツ同様に東野鉄道の廃線跡を辿りながら、ドライブをしたことがあったのですが、母と叔母はとても懐かしがっていました。その時の写真やビデオが見つからず悔やんでおりまして、うににんさん本当にありがとうございました♪




さてこの先、鉄道話から脱線します^^;
【以下、Wikiもリンクしていますが、特に読みやすいリンク先を挙げておきます。】

幼い頃、わずかな期間でしたが黒磯神社の参道脇で祖母たちと暮らしていました。
正確には祖母の経営するラーメン屋が黒磯神社の脇にあり、住まいは少し離れた場所にあったのですが、住まいの方は土間の上りが幼い私には高すぎて、なかなか上がれなかったことくらいしか記憶になく、店と棟続きの母屋(大家)の方が記憶に残っています。

母屋には私より少し年上の姉妹が居て、時々遊んでもらっていましたが、名前はもちろん顔も思い出せません。何が一番記憶に残っているかと言えば、姉妹がまりつき遊びをしていた時の、かぞえ歌のメロディーです。幼い私にとって歌詞はうろ覚だったのですが...
後年、祖母や母がお手玉遊びを、従姉妹など教えていた時にそのメロディーと歌詞が蘇りました。

(一)一列談判(らんぱん)破裂して (二)日露戦争始まった
(三)さっさと逃げるはロシヤの兵  (四)死んでも尽くすは日本の兵



西那須野駅の近くに、乃木神社(祭神:乃木希典)や大山元帥墓所があります。祖父母が眠る墓所の隣にある、一際大きな墓所が大山元帥(大山巌=おおやまいわお)の墓所です。

中学生になる位まで、日露戦争で活躍した乃木大将も大山元帥も、てっきり西那須野(栃木県)出身だと思っていた私。まりつき歌も、お手玉の歌も、てっきりこの那須地方独特の数え歌なんだろうと解釈していました。

たぶん一般的には、映画やドラマで題材になりやすい乃木希典(のぎまれすけ)の方が知られているのではないかと思いますが、明治以降の戦史を良く知る人ほど、人望的にも大山巌のファンだという人が多いのではないかしら。

大山巌は西郷隆盛のいとこであり、池田屋事件(龍馬暗殺ではなく文久2年の薩摩藩士の同士討ち)から歴史上に登場し、日清・日露戦争で日本の勝利に貢献した名将ですが、先妻を亡くした後、後妻に迎えたのがなんと、会津藩国家老山川家の末娘の山川捨松(幼名=さき)

薩摩藩士に会津家老の娘が嫁ぐなんて、アンビリーバボー!
鹿児島弁と会津弁じゃ、デート中でも会話が通じない?...どっこい
山川捨松は当時では稀有な帰国子女なので、夫婦の会話は常に英語


大山元帥(大山巌)のエピソードで読みやすいサイトは⇒こちら
大山巌・捨松ご夫妻のエピソードを読みやすく整理されているブログは⇒こちら

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、幕末のジャンヌ・ダルクと言われた?会津藩の砲術師範の娘(山本八重=後の新島襄夫人)を綾瀬はるかが演じるらしいけど...私的には晩年に、西那須野の風景が絶対に出てくるであろう、山川捨松をヒロインに取り上げて欲しかったなぁ...

でも小説・映画「不如帰」では捨松は虚像の風評被害にあったし⇒こちらの最下段
仲良く静かに眠られている墓石の下から「映画も、ドラマも、懲り懲りですわ」
「どうか、そっとしておいて」
と仰るのでしょうねぇ・・・

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2011年11月08日

posted by たすけ at 00:19 | Comment(2) | TrackBack(0) | 昭和30年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第10回流鉄の鉄道の日 / 都心から一番近い森の街



流山チャンネル

明日(11月6日)は第10回流鉄の鉄道の日です♪
流山軽便鉄道株式会社の設立は、1913年(大正2年)11月7日となっていますが、営業運転を開始したのは1916年(大正5年)3月14日になります。

昭和初期の頃の流鉄

流鉄は何度か社名変更をしていますが、この路線図には流山鉄道株式会社と【赤城駅】が記載されていますので、昭和8年以降に印刷されたものだと思います。でも飛地山&加村台はだいぶ誇張して描かれていますね^^;
それと特に自転車乗りの方は驚かれるかもしれませんが、江戸川左岸の堤防上は松戸の古ヶ崎までずっと車道(旧流山街道)だったんです。

赤城駅は私が流山小学校1年の1965年(昭和40年)に【赤城台駅】と改称され、高校1年の1974年(昭和49年)に【平和台駅】とまた名前を変えました。←秀逸な参照先:二邑亭駄菓子さんのよろず話

この頃までは赤城台駅(平和台駅)の朝・夕は、鰭ヶ崎地区から流小に通う小学生で大混雑。児童数MAXの頃は約400人の流小児童が流山線で電車通学していましたから、そりゃもう流山線車内はピーチクパーチクの大騒ぎ(笑)
救いは都内通勤と上下反対方向でしたが、赤城台駅から乗車する通勤・通学者や馬橋方面から流山に通勤する乗客にとって、ランドセルに定期券ぶら下げた流小鰭ヶ崎軍団には、さぞ悩まされたことでしょう(笑)

台風や大雪などで、電車運行が難しくなりそうだ...流鉄から連絡が入ると鰭ヶ崎軍団は学校から早引き(早退)のお許しが出まして、授業も帰りの掃除も免除で帰る特権を持っていたものですから、それ以外の児童にとって、[赤城台駅←小→鰭ヶ崎駅]という定期券は、とても羨ましいご赦免状のように思えたものでした(笑)

まだ幸谷駅・小金城趾駅はなくて、大谷口駅が記載されていますが、私が高校生の頃までは、大谷口の踏切そばの新坂川沿いに、大谷口駅ホームの名残がまだありました。
母校小金高校の最寄駅は流山線小金城趾駅なのですが、流山線を使って小金高校に通学していたのは流山南部中卒の生徒くらいでしたね。私は普段は自転車通学でしたが、たまに流山線を使って通学することがあり、小金城趾駅でのタブレット交換はいつも見ていました。『信号保安設備をタブレット式から単線自動閉塞式に変更したのは1982年(昭和57年)』


流山町観光案内図(昭和30年頃)

この↑↑地図↑↑はクリックで拡大します。
(現在では想像もつかない記載がありますので、是非拡大してご覧ください^^;)
流山線は、流山電気鉄道株式会社と小金城趾駅が記載されており幸谷駅がまだありません。
東武野田線は、もちろん流山おおたかの森駅がある筈もなく、江戸川台駅も記載されていませんので、昭和28〜32年の間に印刷されたものだと思います。『江戸川台駅開業は、私の生まれた1958年(昭和33年)』

...で。現在では想像もつかない記載とは?
流山本町の赤城神社や近藤勇陣跡などは現在と変わりありませんが
初石駅の前後(=現在の江戸川台駅と流山おおたかの森駅)のキノコマークにご注目^^;
春の蕨、秋の茸狩り
老松にかこまれ、昼なほ暗き:駒木の里の諏訪神社は年々10万人の参詣者があり有名であるが、朝露を踏んで神殿も詣で、蕨、また茸狩りに一日を楽しむ者が多い。
また金比羅神社は、胃腸病に霊験があるといはれ共に、この邊り一帯は蕨狩、茸狩の好適地として都人を招んでいる。
 まさしく『都心から一番近い森の街』 流山です♪(笑)

上記2枚の路線地図画像は
ita-sanさんの【流山鉄道博物館 鉄道考古学】から拝借致しましたm(_ _)m
【流山鉄道博物館 鉄道考古学】には、これ以外にも流鉄の珍しい記念切符など、内容盛りだくさんでしかもコンパクトに整理されています♪第10回流鉄の鉄道の日記念に、是非ご参照くださ〜い♪

流山線に乗って(昭和36年)

これは1961年(昭和36年) 流山駅の流鉄車窓からバイバイする当時3歳の私です^^;
叔母に連れられて、祖母の待つ黒磯駅(現.那須塩原市)に向かう直前に撮影されたもので。どのくらいの期間だったか憶えていませんが、幼い頃の一時期、私は黒磯神社のすぐ脇で祖母・叔母・叔父と暮らしていました。

1962〜63年(昭和37〜38年)頃の、流山駅舎や構内の様子を鮮明な写真に残されているのが
katsuさんの1960年代流山電鉄の回想です。

流山駅舎(昭和38年)

懐かしいなぁ・・・幼い頃、流山駅の前には街頭テレビがあって、野球やプロレス中継の時はかなり人だかりがあったものです。

流山線と飛地山(昭和38年)

4枚目の写真で奥に見える飛地山が大きく削られていますが
小学生の頃は、よくこの崖面で爆竹や2B弾で発破ごっこをしたものです^^;


以下6枚は、つい最近2011年(平成23年11月撮影)の流鉄:流山駅付近の風景です。

流山駅舎(平成23年11月)

流山駅(切符売り場)

流山駅前(平成23年11月)

街頭テレビがあったのは、この写真で云うと『ようこそ下総流山へ』の奥くらいですねぇ・・・

流鉄(平成23年11月)

流鉄車庫(平成23年11月)

流鉄青空号(平成23年11月)

昔では撮れなかったアングルは、飛地山の斜面や線路を跨ぐ陸橋からの構図かな?

3歳の流鉄乗車の写真から50年が過ぎました。
その間沿線の宅地開発が進み流山線にも3両編成が登場しましたが、2011年(平成23年)5月15日をもって最後の3両編成(若葉号)が引退しました。編成車両の詳細や流鉄にまつわる逸話などを整理されているのは、安房守源義将さんの⇒こちらの記事です。

あと50年もしたら、今の小学生がこの写真に流鉄のノスタルジーを感じるのかなぁ・・・

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2011年11月05日

posted by たすけ at 05:38 | Comment(3) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする