昭和50年代の追憶
梅小路蒸気機関車館 京都府京都市下京区観喜寺町...1975年(昭和50年)
突然、SL(蒸気機関車)と高校の修学旅行の記事になりますが...
今日某所で特定非営利活動法人交通文化連盟の方と鉄道(SL)の話etcをしていたら
見慣れない制服の高校生たちが私に向けてビデオカメラを。
「こんなおじさん撮ってどうするの?」
「ところで、それはどこの高校の制服?」
「私たち、小金高校放送部(局)です♪」
あらま!?なんだ私の高校の後輩でした^^;
私の母校は一旦私服になったのですが、デザインが変わって制服が復活していたんですね
ということで、私がちょうど彼らと同じ年代だった1975年(昭和50年)の追憶...てな訳です(笑)
1975年(昭和50年)は、広島東洋カープが球団史上初のセ・リーグ優勝を果たし、パ・リーグ覇者の阪急ブレーブスと10月25日から11月2日にかけて日本シリーズを戦った年でした。それほど野球好きでもない私が何故覚えているかと言えば、ちょうどこの時期に高校の修学旅行があったのです。
1975年(昭和50年)の3月には山陽新幹線が岡山駅-博多駅間の営業運転を開始し、この年の千葉県立小金高校の修学旅行は、小郡駅(現新山口駅)まで新幹線で行き、バスに乗り換えて秋芳洞を見学後、湯田温泉泊。
2日目の広島原爆ドーム見学以降からは、クラス単位・グループ単位の自由行動で、指定の時間までに指定の集合場所や宿に戻ってくれば良い。
...という感じでした。(最終日と、いくつかの行く先は学年全体行動でしたが)ともあれ、広島駅に降り立った途端、広島市内は街中日本シリーズ一色だったことをよく憶えています。野球好きのグループは、チケットを入手し日本シリーズを観戦したんじゃないかな?
というのは、結局この年の日本シリーズは、阪急ブレーブスの4勝2分けでチャンピオンとなったのですが、タクシーに分乗して広島球場に向かったグループが
「広島は結局0勝でシリーズ終わるんじゃない?」
「阪急に勝てる筈ないじゃん!」
みたいなことを車内で笑いながら話していたら...
「料金はいらないからここで降りて、歩いて行け!」
と運転手さんを激怒させてしまい。...実際は広島弁で
「広島弁で怒られると迫力ありすぎ、ビビったよぉ」(>_<)
と、宿で話していたことを憶えているからです(笑)
さて、史跡好き&鉄道好きグループの一員だった私は、京都観光の最初の目玉は1972年(昭和47年)に開業した、梅小路蒸気機関車館でした。
この画像を見て「おぉ!D51(デゴイチ)...しかもナメクジのD511!」
と瞬時に判断出来る方は、紛れもない鉄ちゃんですね(笑)
D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)それにしても、蒸気機関車って、どうしてこんなに美しいんでしょう?
主に貨物輸送のために製造され、太平洋戦争中に大量生産され総数1,115両。
ディーゼル機関車・電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大数。
特に初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水暖め器を覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴で、その後の通常形ドームとの区別のため「半流形」と呼ばれ、その形状から「ナメクジ」の通称もある。
ハイテクの新幹線はカッコイイとは思うけど、美しいとは言い難い私です。
「なんでだろう?」
手作業で部品の一つ一つまで丁寧に磨き込まれた、モノへの愛情からかなぁ
京福電鉄(嵐電) 嵐山駅にてモボ129【モボ121形】...1975年(昭和50年)
京都市内観光もできるだけ京都市電を使ったように記憶しているのですが写真が見つかりません。
昭和50年は、京都市電も3系統程度は存続していたのですが、修学旅行の3年後の1978年(昭和53年)には全線廃止になってしまいましたねぇ(悲)
この記事を書くにあたって確認したら...
梅小路蒸気機関車館のD511も、京福電鉄モボ129も、1936年(昭和11年)頃に川崎車輌で製造されたほぼ同級生。ということは、この写真を撮った1975年(昭和50年)は、D511もモボ129も、39〜40歳のまだまだ働き盛りの年齢だったという事ですねぇ。
1975年(昭和50年)から36年経過した、今年2011年(平成23年)
D511は煙を出すことはなくなった(=静態保存)けど、今でも大切に保存されていて、京福電鉄のモボ129は解体されてしまったようです。
今日出会った小金高校放送部(局)の後輩達が、36年経って私と同じ年代になった時...
郷土の歴史遺産で、何が大切に保存され、何が解体されてしまっているのかなぁ...
どうぞ、郷土の文化活動や歴史遺産をしっかり記録しておいてくださいね♪