自転車(ポタリング)
市川の赤レンガ見学会ポタ市川赤レンガ物語(千葉県市川市国府台の戦争歴史)について記しておきます。
こちらが、市川(国府台)の赤レンガの外観。
市川の国府台はかつて野戦重砲(=野砲)兵旅団司令部が置かれ、終戦時の資料によれば
野砲兵第7連隊及び野砲兵第18連隊、独立工兵第25連隊が置かれていたとされています。
工兵とは道路や橋の建設の他、自陣を造ったり敵陣を爆破したり、地雷の敷設あるいは除去をするというような、いわゆる軍隊の中にあって何でも屋のような存在で、この赤レンガはずっと野砲兵や工兵が使用する、武器・工具の倉庫であったようです。
こちらが、日本陸軍が使用した代表的な野砲です。
(陸上自衛隊宇都宮駐屯地の防衛資料館に展示)
こちらが、実戦訓練?の様子。野砲に関する詳細はこちらのブログが秀逸です。
こちらが、市川(国府台)の赤レンガの2階内部とレンガの細部です。
使役兵とはいわゆる雑用係ですから階級でいえば最下位ですね...
どれほど辛く危険な仕事をしていたのだろうか?
しごきのような仕打ちを受けていたのだろうか?
こちらが、明治34年当時の赤レンガ周辺図。
そして、太平洋戦争終戦時の国府台はこのような、連隊配置図だったそうです。
私が自転車を押して突っ切った里見公園分園Gは当時弾薬庫があった場所だったんですね。
これは、戦後間もない昭和22年の国府台の航空写真。
関東大震災や今年の東日本大震災でも耐えた堅牢な赤レンガに関心しますが、私にとってそれより驚きだったのはこれほどの軍事施設が米軍の空襲によって攻撃・破壊されずにほぼ完ぺきな形のまま残った事でした。江戸川のすぐ向こう、東京の下町は大空襲によって焼野原になったというのに、市川市への空襲は軍事施設と関係のない場所だったということ。当時の日本にもはや抗戦能力がなかったとしても、本来であればこれほどの軍事施設はアメリカ軍の攻撃目標になって然るべきです。
何故ここが攻撃目標から外されたのかという一説に。
国府台には里見公園に隣接する国府台母子ホーム、国府台保育園があります。これらはルーテル教会の宣教師として大正8年に来日し、国府台に居を構え母子保育活動の拠点していた米国人エーネ・パウラス氏が創設した施設。戦争当時はパウラス氏は帰国していましたが、パウラス氏は米国でも影響力があり国府台を空襲から守った。これらについては市川里見公園新聞の【パウラスさんのこと】の項で詳細に検証されていますが、まだこの説が本当であるかどうかの確証はないようです。
市川里見公園新聞には、国府台病院【現国立精神・神経医療研究センター】の歴史についても詳しく書かれています。
先日のニュースで『米国多発テロから10年。派兵を続けるアメリカでは精神疾患による兵士の自殺は増加する一方であり、現役兵士の自殺は2年連続で150人を超えた。2011年は過去最悪のペースとなっており、退役した兵士の自殺は推定で6500人にのぼるとみられている。』と報じられました。
国府台病院は1936年に国府台陸軍病院となり、1938年からは日中戦争の拡大により陸軍の精神障害者兵士の診療を中心となる病院となっています。おそらく当時の日本では現在のアメリカよりはるかに多い、精神病の兵士や自殺者を産んでいたのではないでしょうか。あるいは、戦場に行かずして厳しい訓練に耐えきれず精神障害を発症してしまった兵士も大勢いたであろうと思います。
そんな事を赤レンガにはめられた鉄格子を見ながら思索していました。
さて国府台にはもともと文部省管轄地で、大学等教育機関を建設する予定だったのが、交通の便・水の便の悪さから文部省が手放し、陸軍省がこの地に陸軍教導団を創設。その他、国府台の切通は囚人たちに掘らせた。里見公園分園から松戸街道への激坂を旅団坂という。等々は、旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡【千葉県内の戦争遺跡】ブログで知りました。
あ!やっぱり【千葉県内の戦争遺跡】の管理人:森兵男さんも9/24の市川の赤レンガ見学会にいらしていたのですね。私たちは市川アイ・リンクタワーからの展望後に、松戸市相模台の陸軍工兵学校跡に立ち寄ったのですが、当日見つけられなかった堅牢な倉庫跡はこちらの松戸市の戦争遺跡2の記事で紹介されています。(場所はゆきたんくさんのこちらの記事を参照してください。)
9/24の朝は、市川の赤レンガ見学会ポタの前に、第23回うんがいい!朝市に立ち寄り、利根運河交流館で展示されている東葛歴史かるたを見学して来ました。
実は9/15、利根運河交流館に陸軍士官学校61期生会の方々が訪問されたという事も、陸軍教導団(下士官養成組織)が置かれた市川の国府台に向かうきっかけにもなりました。
※時代により組織・階級制度が異なるので単純に置き換えられないのですが....
陸軍士官学校=防衛大学⇒尉官以上のエリート養成
陸軍教導団=少年工科学校(現高等工科学校)⇒曹長、軍曹、伍長などを養成
陸軍士官学校61期生と言えば、昭和20年8月卒の最後の陸軍士官学校生です。同期に今はブラジル日本人会でご活躍されている、東久邇宮稔彦王の第四王子の俊彦王(現.多羅間俊彦氏)がいらっしゃいます。父君であり終戦時に陸軍大将であった東久邇宮稔彦王は史上唯一の皇族首相(東久邇宮内閣)です。
前鈴木貫太郎内閣は終戦を使命とした内閣で、ポツダム宣言を受諾し日本の無条件降伏を決定し、8月17日に解散しました。しかし、日本の敗戦(降伏)を承服できない軍人は、国内はもとより各戦地にいました。皇族であり且つ陸軍大将であった東久邇宮稔彦王が首相になったことは、こうした軍人の暴走を抑制し、日本軍の武装解除を速やかに実行することについては極めて意義のある存在であったと思います。
最後の士官候補生であった61期生の方々や、国府台の各連隊の兵士たちが
どのようなお気持ちで終戦のその日を迎えたのか...。
もし、また61期生の方々が利根運河にいらした時
もし、赤レンガ見学会に砲兵連隊や工兵連隊の方々がいらしたら
そんなことを聞きたいようでもあり、否聞いてはいけないのかなぁ...と複雑な思いでした。
御礼:【市川里見公園新聞】と【千葉県内の戦争遺跡】
を知るきっかけとなったのは【表の家】と【勲侘記由】からです。
道草亭ペンペン草さん、ゆきたんくさん、ありがとうございましたm(_ _)m
最後の画像は、市川の赤レンガ見学会ポタ一行。
ご案内頂いたdadashinさん ご一緒して頂いたkincyanさん joypapaさん 断腸亭さん
テガさん、TCR-Nさん、ジャズの紳さん、東葛人さん ありがとうございましたm(_ _)m
そして何より、赤レンガをいかす会のスタッフの皆様、当日はお世話になりました。
市川の「赤レンガをいかす会」では、戦争遺跡の赤レンガを平和・芸術文化・環境の活動拠点にと構想されているようです。奇跡的に残されたこの赤レンガに、宇都宮駐屯地の防衛資料館のような展示がされて、国府台の戦争歴史が後世に語り継がれていくことをご期待申し上げます。