竜巻小天狗

TVドラマや漫画の追憶

竜巻小天狗...1960年(昭和35年)フジテレビ系で放映

私は根っからのテレビっ子世代だ。町営住宅という質素な家に住んでいたが、どういう訳だけだかご近所に先駆けてテレビを購入したらしく、幼少のアルバムに近所の子供が我が家に集まりTV番組をみている写真がある。

昭和のテレビ
メモに”大好きなテレビを見てるところ”と記してある

母親に「いったい何をみていたところ?」
「そんなの忘れたが、あんたは竜巻小天狗が大好きだったね」
との返答だった。

物心がつき始めた頃からTVを見ていた私だが、確かに私自身も「竜巻小天狗」の真似をしていた覚えがある。

テープの逆回し、スロー、早回し、など単純な特撮?作業で「忍法○○...エイっ!」と叫ぶと、塀に飛び乗ったり悪人を後ろ向きに走らせて退陣させたりと、今考えればまことにチープな忍法だったが私にとっては胸躍る術であった。

昭和の住まい

写真の中のト○ルお兄ちゃんには、隣の家に住んでいたこともあり、よく私と遊んでくれて、私の忍法で後ろ駆け足などをしてくれてたことをおぼろげながら記憶している。
ただ、ト○ルちゃんは5つ違いだったので、遊んでくれたのは私が小1までで、一番よく遊んでくれたのは上の写真に写っている1つ違いのカツ○ちゃんだった。

PS.この竜巻小天狗のサイトは最近やっと某掲示板である方に教えて頂いて判明した。なんでこれまで自分で検索していて見つからなかったか不思議だったがトップ頁をみたら懐かしグッズ専門のネットショップ(直営利サイト)だった^^;

うぅ〜ん...引用していいものかどうか悩みましたが、同世代の方で探している方もいると思うので、敢て記事中で引用させて頂きました。

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参照:シンカデホワイト

注:懐かしいTV番組などのリンク集は自サイト内「マスオの青春グラフィティ」で整理していますが、このサイトは直営利サイトと判断しリンク集には掲載していませんm(__)m

2006年01月09日

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マッチ箱のような家とひろっぱ

昭和30年代の追憶


私が育った、マッチ箱のような小さな市営住宅。4畳半+6畳+2畳の台所...風呂なし
というか、風呂場はたいていトタン板で囲うようなにわか造りで各世帯で各々に付け足したものであった。今、私も愛読していた西岸良平さんの「三丁目の夕日」が映画化され上映されているが、まさにあの頃の昭和30年代の風情が漂う住まいであった。

宮本団地

全部で60戸くらいだったであろうか..
同じようなマッチ箱のような家が整然と立ち並んだ市営住宅であった。私は昭和35年の2歳からここで暮らし始めて、やがて弟2人も生まれ、家族5人で暮らしていたのである。

ひろっぱ...広場のことである。

物心ついてから私の遊び場と言えば、家と地続きの市営住宅の子供たちが集まる、広場であった。
当初遊具はなにもなくただの空き地であったがやがてブランコや滑り台・砂場など一通りの遊具は揃っていった。

広場を「ひろっぱ」というのはふなっこ・どじょっこ等と同じようなニュアンスで小さくて愛着があるような呼び名である。
そのひろっぱ、周囲をぐるりとマッチ箱の家に囲まれ1ヶ所だけが車1台通れるくらいの入り口であったので囲んでいる家に住んでいる子供たちはみな、垣根を壊したひろっぱへの小さな出入り口を持っていた。

わずか、タテ20mヨコ7mほどの小さな空間であったが、そのひろっぱで1年中、夕食の匂いが漂いはじめるまで遊んだものである。

2006年01月08日

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おねえちゃん

昭和30年代の追憶


1959_昭和35年_06 おねえちゃん

私のブログを読んだ知人から「よくそんな昔の事を覚えているな〜」と言われた...勿論、私自身1〜2歳の頃などほとんど記憶にない。

流山市加02

この写真は昭和35年の正月を迎えた時の風景だそうだが、ここに写っている、お兄さんやお姉さんたちの名前を覚えている人は1人だけで、それは後年、たまたま私がバイトした珈琲専門店の常連客だったからだ。
西平井に引っ越した後に、幼い私が加台へ一刻も早く駆け上がりたかったのは、この私を抱いてくれているおねえちゃんがいたからだ。

加台のお姉ちゃん

本名を覚えていない。ただ「おねえちゃん」としてしか記憶になく、写真を見ても顔を思い出せない。ただおぼろげであっても、ほのかな優しい感覚が脳裏に刻まれている。年齢もこの当時で20歳前後だと思う。母が私を産んだのは23歳の時だったので、ほとんど母と変わらない年齢だろうから、もう70歳に近いおばあちゃんになっていることだろう。

だがいつまで経っても私にとって「おねえちゃん」という言葉で思い浮かぶのはこの加台のお姉ちゃんだ。

加台への足が遠のいたその後、小学生の高学年の頃だったか、一度だけこの「おねえちゃん」に会いに行ったことがある。留守だったのか、すでに嫁いで居なかったのかは忘れたが会えないまま、トボトボと段々畑の中の道を帰途した情景は覚えている。

タグ:昭和35年

2006年01月07日

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50年前の流山市加台

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_03

私が生まれた場所は、千葉県東葛飾郡流山町加....今の流山市加1丁目だ。
宇都宮から出てきた父親は、ここから徒歩5分ほどの距離にある流山駅から東京の金町にある自転車工場に勤務していた。

現在の加1丁目から市役所方面の坂を望む絵

流山市加の風景01

もともと、役場に近いメイン通りなので道幅はそれほど変わっていない。約50年前の写真と比較しても家並みの変化はあるが、風景の構図は変わっていない。

市役所への下り坂がはじまる左手に「いちべえ商店」があり今でも店舗は残っている。
乳母車にタンデム..(wしてるのは、ひとつ年上の床屋のヒ○シちゃんだ。いつも柔和な笑顔を湛えていて、その後私が引っ越した後も加台に行った時には一緒に遊んでくれた。

現在の加1丁目から後平井方面を望む絵

流山市加の風景02

50年前の道路は当然のごとく未舗装だ。
ヒ○シちゃんの床屋は、左手の青い看板の辺りにあってその向かい(右側の車の辺り)に同級生の家で○○商店があった。
西平井(後に平和台)に越してから、加台に遊びに行った時は5円玉を握りしてめて、この店にホームランアイスを買いにいったものだ。

今は、画面奥のセブイレブンの先に加1丁目の交差点があるが、これはだいぶ後年になってから出来たもので当時はセブイレブンの脇の坂道が、西平井から加台に上がってくる道だった。

タグ:流山の風景

2006年01月06日

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和風クレープ

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_流山町加02

同居したおばちゃんは、家計の足しに子供たち相手におやつ代わりのお好み焼きを売っていた。

今のお好み焼きは、キャベツ、豚肉、卵、ベーコンなど具がたっぷりだが、そのお好み焼きはほとんど生地だけで、具は真ん中へんにほんのちょっぴりだけだった。

今の人に説明しようとすれば、平べったい丸いエビセンのクレープ状...と想像してもらえればいいかな?
大きさはコーヒーソーサーくらいで、具は紅ショウガとサキイカが真ん中にちょびっとあるだけで、ほとんど小麦粉の生地にソースをつけて食べているようなようなものだ。


折り紙くらいの大きさの紙に乗せて、大人なら3〜5口で食べ終わってしまうだろう。もっとも小さい頃、お祭りで食べたお好み焼きも、だいたいそんな感じで、具を足したとしても、天カスや桜エビくらいだったと思う。
いったい、いつ頃から今のような具たっぷりのお好み焼きに変わったのだろうかなぁ・・


生家の前で近所のお兄さん&お姉さんたちと記念写真

昭和の風景_加台

戦後14年経っているが、この頃の地方の子供たちはだいたいこんな服装だろう。他の写真を見ても、野球のキャップをかぶっている子供はいなく、普段から学帽をかぶって遊んでいた。

生家の横から撮った写真

昭和の風景_乳母車

後ろに見える木々の向こうは、斜面になっていたおり、下った先は田んぼが広がっていたが、今は東急ドエルというマンションを中心とした住宅地と流山北小学校になっている。

タグ:昭和の風景

2006年01月05日

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2世帯同居

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_流山町加01

私の両親は共に栃木県産だ。
私自身も、本来は宇都宮の産院で生まれる筈だったらしいのだが、父の友人夫婦が先に流山に引越し半ば強引に両親を呼び寄せたらしい。

その時、母はすでに妊娠八ヶ月目であり、不承不承でこの地に来た。私が2歳半になるまでは、2組の夫婦が同じ屋根の下で生活し、母はかなりのストレスを抱えながら私の子育てが始まった。

住まいは、何かの店が空き家になったところに簡単な間仕切りをして生活したらしいが、台所や風呂は共同であった。

昭和34年の家屋

いかにも、昭和の香りがする絵ですな^^;風呂は当然、薪(マキ)で沸かし、ガスコンロの代わりの七輪(しちりん)が見えます。

昭和34年の風景

薪(マキ)の上に座ってますが、さすがに山に切りには行っていませんよ(w
近所に「いちべえ商店」という雑貨&燃料屋さんがあってたいていそこから、薪や練炭などを買っていたようです。

タグ:昭和34年

2006年01月04日

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お産婆さん

昭和30年代の追憶


私は、1958(昭和33)年6月の朝方に生まれたらしい。

昭和33年_産湯

私を取り上げたお産婆さんの最初の一言が
「黒い子だねぇ」だそうだ。

同日の夕方に、私の生まれた家から400mしか離れていない。
家で取り上げられた同級生も、同じ産婆さんなのだが、この日産婆さんは私と同級生を交互に面倒を見てその同級生を取り上げて、また私の元に来たときに
「ほんとにシンクロ(真っ黒)だねぇ」
と言ったそうだ(^^;

たしかに後年、夏場になるとすぐに日焼けして東南アジア系の人と間違えられる事が一度や二度ではなかった(w

ところで、最近産婦人科医の不足が問題になっているが、出産は病気ではない。自宅で産みたいという妊婦さんも増えている。自宅出産のメリットは、くつろぎながら、リラックスして出産でき生まれてくる赤ちゃんの表情もとても穏やかだそうだ。

私の知人の奥さんが、助産師として初のお産を介助したとブログに書いてあった。ご自身も5人のお子さんを育てているし、さぞ妊婦さんにとって心強かったに違いない。

さて、私が生まれた昭和33年はどんな年?であったかははすぴーさんの「昭和33年はこんな年」に詳説されているので是非お読み下さい♪

タグ:昭和33年

2006年01月03日

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昭和の追憶のカテゴリについて

昭和の追憶を書き出した時...私自身の半生記に重ね合わせて
誕生(昭和33年)〜結婚(昭和63年)の30年間を特に(小・中・高・大)の学校時代別に分けていましたが、内容がごちゃごちゃになってきてしまったので(苦笑)

これまでの記事を以下のカテゴリの中に、整理し直しました。

昭和30年代の追憶



昭和40年代の追憶



昭和50年代の追憶



TVドラマや漫画の追憶



流山チャンネル



なお、流山チャンネルについては、過去&現在の記事が混同しています。

2006年01月02日

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昭和33年戊戌(つちのえいぬ)

昭和30年代の追憶


1958 昭和33年は、戊戌(つちのえいぬ)の年。
平成18年1月1日現在の推計人口によると
十二支別人口では、戌(いぬ)年生まれは最も少ない。「丑(うし)年生まれが1109万人で最も多い」

昭和34年_1歳
戌(いぬ)年
生まれは975万人(総人口1億2771万人に占める割合は7.6%)
男女別にみると、男性は473万人 / 女性は501万人

私が生まれた、1958(昭和33)年生まれは158万人で
総人口比1.2%。日本人1000人中12人は今年48歳になる。

12年後の戌年(戊戌つちのえいぬ)が巡るといよいよ還暦。
ここらで、自分の半生を振り返ってみようと思います。


2006年01月01日

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