ハンガリア舞曲第5番とハーモニカ

昭和40年代の追憶


ハンガリア舞曲第5番。私が最初にクラシックと出合ったのがこの曲であった。私の通っていた時代の小学校では打楽器は揃っていたが木管・金管楽器などは皆無であった。

また、特に部活動というのも固定してなくて、市内で音楽コンクール等があると、各クラスから何人かずつ音楽の先生に召集されて、臨時の音楽部が結成される。
陸上競技大会等も同様で、私はそんな機会に駆り出されるメンバーの1人であった。

さて、音楽部が結成されると複音ハーモニカが与えられた。昭和44年の小5の秋にハーモニカで演奏したのがハンガリア舞曲第5番である。

来る日も来る日も、この曲を練習させられ、しまいには楽譜を見ないでもすべて吹けるようになっていた。(というより、臨時の結成なので譜面を読める子供は少なく、先生は徹底的に反復練習をする方針をとったのだと思う)

もともと私はそんなに音楽に長けているわけでない。譜面を初見(しょけん)で読める訳でもないし、いろんな楽曲を良く知っているわけでもない。ただこのハンガリア舞曲第5番の猛練習の結果、ひとつ解かった感覚があった。それは、「楽器は身体の一部になる」 という感覚である。

譜面無しでも、メロディーがわかっていれば口と手が勝ってに動いて、完全ではないがどんな曲でもハーモニカで演奏できるようになっていたのである。

2006年01月19日

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りんどう湖と俺の太陽

TVドラマや漫画の追憶


栃木県の那須は、私にとって第二の故郷だ。

物心ついた時から30歳くらいまでは毎年行っており、特に幼稚園に上がる前は半年〜1年ほど、祖母の家で過し、小学生の頃は年に3回以上は那須に行っていた。高原山や那須連峰は私にとって一番山らしい形の山である。幼い頃は、黒磯駅に昭和天皇のお召し列車が到着すると、私も何度か小旗を持って参列したこともある。

大学生の頃には、那須街道のあちこちに小洒落れたレストランも出来たが、那須街道に一気に小洒落た店が立ち並ぶようになったのは、昭和天皇のご崩御後ではないだろうか。

那須でも古い観光スポットと言えば、りんどう湖ファミリーランドであるが、私の記憶の最も古いところではりんどう湖は田んぼに囲まれた、ただの溜め池に過ぎなかった。

もともとりんどう湖の正規名称は、江戸川用水土地改良区農業用温水溜池(ながっ^^;)であり、那須の御用邸付近を水源とする冷たい沢水を田に入れる前に水温を高める「ぬるめ」の役割でつくられた人造湖だ。

前記のカケスのチューちゃんで出てきた叔父の実家が田代にあることもあり、りんどう湖周辺の開発が進む前の田代や池田や高久の周辺の風景も記憶に残っている。

...で。
小学生の頃にTVを見ていたら、その田んぼの風景や畦道高原山・那須連邦が映し出された。
それは、「俺の太陽」というTVドラマで太陽という競走馬と少年の物語であった。

ほんとにかすな記憶なので、ネットで確認しようと検索しても、もっとも詳しく書いてあったのが、少年誌というコンテンツに..

『俺の太陽』(週刊少年サンデー) 昭和40〜41年
九州産のサラブレッドを競走馬を育て天皇賞に優勝させるまでの感動ドラマ「りぼん」に別冊ふろくで描いた連作を当時少年サンデーの編集長が読み、少年向けの漫画としてやりたい!との要望でリメイクした作品。

九州の牧場から騎手養成所まで徹底的に取材。養成所教官に馬の動きが1ケ所も間違っていないとほめられた。連続テレビ映画として東映で制作。放映されました...とある。

えぇ!?あのロケ地は九州だったの!?
私がずっと、那須の風景だと思っていた「俺の太陽」に出てきた背景は見知らぬ九州の山や草原だったの!?

ブログを書き始めて、とてもこの件が気になって仕方がない。

三橋美智也のヒット曲「達者でな」..
ワラ〜にまみれてヨ〜育てた栗毛〜♪
これは直接ドラマと関係ないが...

私はときおりこの曲が流れる度に、「俺の太陽」で出てきた丸刈りの少年が那須の風景をバックに馬をひく姿をオーバーラップさせていたのだが...

私の記憶違いなのだろうか?

どなたか拙ブログを偶然見た方でこの件をご存知の方がいらしたら、是非コメントや参照URLを下されば幸甚でございますm(__)m

2006年01月18日

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コチ吹かば

昭和40年代の追憶


昭和43年。小4の時の登校時に坂道を下っていたら、ふと頬に生温かい風を感じた。同時に鼻先に、柔らかな梅の香りが漂ってきた。

「あぁ〜春が来たんだなぁ」

その時の情景、感触、香りが強く脳裏に残っており。それいらい、季節は風が運んでくると感じている。

梅の香を感じると通学路の畦道にはオオイヌノフグリが咲き出し、ふきのとうが顔を覗かせ始める。
ふきのとうを摘み、土筆を摘み、セリを摘み、ノビルを摘み。やがて、タラボ(タラノ芽)を摘む頃になると初夏になる。

今はすっかり宅地になってしまったが、通学の途中でそれらの野草を、田んぼや畦道や崖の斜面で摘んで、母に調理してもらったり、自分で調理して季節の移り変わりを体感していた。

だから私にとって東風(コチ)は季節の変化を最初に感じる風であり

「東風吹かば 思いおこせむ 梅の花 時は変われど 香り忘れそ」

梅の香りから始まり、季節ごとのなつかしい野草のほろ苦い香りを連想するのである。

タグ:東風吹かば

2006年01月17日

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ある日の、天地真理

TVドラマや漫画の追憶


"天地真理"でぐぐっていたら天地真理は今でも『隣のまりちゃん』というブログにあたった...

・・・え?日活ロマンポルノにも出たの??

それは知らなかったな〜
でも、知っていたとしてもやっぱり見たいとは思わないだろうな〜

初めて買ったレコードが天地真理のレコードだった私としてはいつだったか、タレント時代のそのまんま東としてのコメントか東国原英夫知事となってからのコメントかは忘れたけど「真理ちゃんは真理ちゃんのままでいて欲しかった...」っていうコメントに同意するな〜。

話しはくるりんぱと変わるけど、天地真理の芸名の由来を読んで、先日「THE ALFEE」の高見沢俊彦が出演したテレビで、アルフィーの由来が、フランス映画の「ALFIE」からではなく、コンフィデンス→シド→ある日いきなり"あるひ"からアルフィーにしたと、本人が語っていたけど...

まぁ、ネタ半分の話しとしても、案外芸名はそんなのが多いらしい。似たような話で、夏木マリ本人が「私の芸名はこの夏決まり!」から”なつきまり”だと言っていた。

まぁ〜早い話がぁぁ・・・1966(昭和41)年当時
   ↑
このセリフをのんびりとした口調のイメージで黙読した人は「忍者ハットリくん」の花岡実太先生を知ってる世代ですな(笑)
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参照:天地真理は今でも『隣のまりちゃん』
実写版「忍者ハットリくん」禁断のハイブリッドマニアック

2006年01月16日

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百円札のお年玉

昭和40年代の追憶


私には7つ離れた弟(三男)がいるが、昭和40年生まれの奴は今年で42歳になるがいっこうに身を固める気配はなさそうだ。

ところで、弟の生まれた昭和40年の頃は、100円と言えば紙幣と硬貨の両方を使っていたように記憶している。

昭和28年:百円紙幣(板垣退助)発行

百円紙幣
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画像クリックで十円紙幣、5百円紙幣が見られますよ(^。^)v

昭和32年:百円銀貨発行...私..胎児

百円銀貨
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画像クリックで100円硬貨の変遷が見られますよ(^。^)v

昭和34年:鳳凰から稲穂へ...私..1歳

百円銀貨02
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画像クリックで記念硬貨の変遷が見られますよ(^。^)v

昭和42年:現百円白銅貨発行...私..9歳

昭和40年の都バスの料金が20円。
平成19年の都バスの料金が200円。

私が小学生の頃の10円は、現在の100円相当と考えていいと思う。
幼少の頃にもらったお年玉袋にはピン札の百円札が入っていた。

そして、昭和40年に弟(三男)が生まれてから私が小6までの期間
お年玉は「千円札1枚を、兄弟3人で分けなさい」ともらって
私(長男)500円、次男400円、三男100円、か
私(長男)400円、次男400円、三男200円、の
配分で分けていたように記憶している。

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画像提供:ロイさんの旅行記(紙幣&コイン)←世界の町並みや
世界のコインをレポートされています♪


補足:コインの散歩道昭和30年代によれば板垣退助100円札は、私が10歳になるまで硬貨より流通量が多かったらしい。

2006年01月15日

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パシリの伝統

昭和40年代の追憶


兄弟で七つも離れると、小さい頃に一緒に遊んだという記憶はあまりない。私自身の小さい頃の遊びの思い出は、やはり年上の先輩たちとの場面の方が圧倒的に多くなる。

さて昭和40年に小学校に入ると、遊び仲間が集団登校の班とほぼ同じグループとなった。このグループの掟として、5〜6年生が出す小遣いから、中四つ角の加藤屋商店(当時は茅葺)に行って、せんべいや菓子を買ってくるパシリの役目があった。

当時は、5円でアイスやガムを買えたので、20円もあれば数人の仲間で分けて食べるお菓子は買えた。当時のせんべいは、今のように袋にはいっておらず、1枚1枚のバラ売りで木製の什器(じゅうき)や大きなガラス瓶に入っており、10円で3〜5枚ほど買えたので、先輩から10〜20円を預かり、パシリの好みで煎餅を選び、お店の人に入れてもらった茶色の袋を大事に抱えながら、全力疾走でグループが待つ広場(ひろっぱ)に駆け戻ってくるのだった。

そして、待っている仲間は、どんなお菓子を買ってくるのか?
何分以内でここに戻ってくるのか?などをみんなで予想し外れたら、イヤミのシェーを何回やるとか何秒やるとかの罰ゲームでワイワイやっていたものである。

ハスピーさんのシェー
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
画像クリックでいろんなシェーが見られますよ(^。^)v

まだ幼稚園生だった頃、みそっかすで遊び仲間に加えてもらいこのルールをそばでみていた私は早く1年生になってこのパシリをやりたいと思っていた。

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画像提供:はすぴー倶楽部

タグ:パシリ

2006年01月14日

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ひろっぱの思い出/ブランコで大ジャンプ

昭和40年代の追憶


子供に怪我なんぞはつきものである。というか、多少の怪我をしながらだんだんに危険回避能力を身につけていくものではないかと思っている。

思えば男3人兄弟の私であるが、3人が3人とも小1で怪我を負っている。
末っ子の怪我が一番大きく、当時家で営んでいたおもちゃ工場のベルトコンベアーのギアに腕をもっていかれて複雑骨折。

小学校に入学直後であり、確かな記憶はもう薄れたが、たしか奴はちゃんと学校に行けるようになったのは、2学期からではないかと思う。

よく覚えているのは、入院中に同室で親切にして下さった青年が将棋好きで、弟は小1の1学期は病室で将棋三昧となり、兄弟3人の中で一番将棋が強くなっていたことだ。

さて、それに比べれば私の怪我などたいしたことはない。
ひろっぱに遊具が揃い出し、やんちゃな子供たちはそれを規定通りに使っておとなしく遊ぶようなことはしなかった。

ゴンドラ式?のブランコでは、片側に5〜6人立ち乗りし、思いっきり反動をつけて、これでもかというくらいに揺らす。もう片側に乗った1人が最高点までゴンドラ上がったタイミングで飛び降りその飛距離を競った。

通常の1人ブランコでも、ほとんど水平近くになるまで揺らし、その勢いで飛び距離を競ったが、やがてそれも飽きてくると、海老飛びという、後ろ向きで飛ぼうと云うことになった。
要するに、後ろ向きでブランコに乗り、最高到達点に達したときはケツが空を向き、頭は地面を向いている、そのタイミングのほんの一瞬前に、エビのようにケツから飛び出して飛ぶのである。

さすがに、最初は怖かった。しかし、だんだん慣れてくると飛距離の争いがエスカレートしていき、通常の乗り方同様に大きく反動をつけられるようになっていた...

そして、何度目かのジャンプの時着地に失敗した私は腕で身体をかばった。

....ペキっ!....あれ!?Σ( ̄ロ ̄lll)なんか音がしたぞ....

次の瞬間、腕の痛みに耐えかねてその場にうずくまってしまった私を心配して仲間が母を呼んでくれた。

「ハイ!見事な骨折です♪ ほらほら、きれいに折れている(^^)v」

後年、何度もお世話になった、接骨院のヒゲ先生がレントゲン写真を見ながらとても明るく言った。

それからしばらくの間、首から大きな三角巾で腕を吊るして小学校に通う私が居た。とりあえず怪我人なので、そのしばらくの間だけは集団登校時に上級生が優しく接してくれた記憶がある...
.....ひょっとしたら
今でも私が、いわゆる遊園地の絶叫マシンが大好きなのは、この時の上級生の優しい気持ちが、脳裏に残っているからなのかもしれない.....

タグ:骨折

2006年01月13日

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ひろっぱの思い出/ゴロ野球

昭和30年代の追憶


当時は、子供の数も少なかったので小1〜小6までが一緒になって遊んだ。

体格・体力の違う子供が一緒に遊ぶのであるから、からかい半分の多少のいじめのようなことはあったが、いじめられて泣いて帰っても、翌日にはみな何事もなかったかのように、けろっと忘れてまた一緒に遊んだものである。

子供心に、強者は弱者を守るという不文律と、年下は年上の言う事には従うという倫理感を無意識のうちに、遊びの中で養ってきたような気がする。

狭い空間と体格・体力のハンデを考え、もっとも流行したのが三角ベースの「変則ごろ野球」である。ひろっぱの1部が防火用水になっており、そのコンクリートの蓋が格好の内野であった。

低学年にはピッチャーは柔かいビニールボールを転がし、バッターは腰を落として、転がってくるボールを打つ。高学年は立って普通に打つのだが、なにせせまい空間である。向かいの家の庭にボールが入ればすぐにホームランである。

たいてい近所の大人たちは、子供の遊びには大目に見てくれたがひろっぱを囲む1軒の家だけはなかなか口うるさく、そこにボールが入ったらたちまちアウトチェンジで、打ったバッターが「すいませ〜ん」とボールをとりに行くがルールであった。

バットは、垣根の竹や廃材の角材であったが、コンクリートの上で年中こすりつけるのですぐダメになった。竹も先がささくれて、とても危険な状態になったがある時、上級生が振り回してたそのささくれ竹バットが私のすぐ下弟の目に直接あたり、弟の片目からはは鮮血が吹き出した。

すぐに病院に運び手当てを受けたが、幸いも失明は免れ、眼帯がとれたあとも皆、何事もなかったかのように仲良く遊んだ。

しかし、確かな記憶ではないが、いつの間にか「変則ごろ野球」をしなくなったのは...
ひょっとしたら私たち家族が病院に行っている間、みなで相談して「もうゴロ野球は止めような」と決めたのかも知れない....

タグ:三角ベース

2006年01月12日

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夕日の歌と段々畑

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_04 夕日の歌

ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲 みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む

歌が風景を思い出させる...ということはないだろうか?

私はこの歌を聞くと加台から西平井かけての、ゆるやかな段々畑の風景を思い出す。幼い頃買ってもらった童謡の絵本でこの歌の背景となっていた絵がそっくりだったのだ。

段々畑の段差には土留め替わりに、通称:竜の髭(正称:ジャノヒゲ)が植えられ、畑と畑の間にはお茶の木が植えられていた。


セブンイレブンの脇の坂道の絵

流山市加04

西平井から加台に向かう時はこの坂を通っていた。坂の両脇には湧水が染み出ていて毒々しい真っ赤な実の蛇苺が生育していた。

だが...
幼い私は一刻も早く加台に行きたくて、この坂道を上らずに絵の下に見える階段あたりにあった、ヒト1人が通れるくらいの急勾配の小道を駆け上がり、先述した段々畑の広がる風景に出るのであった。

幼い頃、目線に近かった竜のヒゲの青い実や、お茶の白い花がだんだん目線から遠くなるに従い、この坂と小道を駆け上がることはなくなっていった。

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参照:岡山理科大学 生物地球システム学科
   植物生態研究室(波田研)のホームページ


タグ:童謡

2006年01月11日

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チャコちゃんシリーズ

TVドラマや漫画の追憶


昨日の実写版ちびまる子ちゃん役の森迫永依(もりさこえい)ちゃんを見て...
実写版サザエさんの上原ゆかりとチャコちゃんシリーズの四方晴美をすぐに思い出した。

昭和37年から始まったパパの育児手帳で、その愛嬌ある仕草が視聴者に受けて四方晴美のチャコちゃんシリーズが始まりやがて「チャコねえちゃん」で弟役となったケンちゃん宮脇康之にバトンタッチされて今度はケンちゃんシリーズになった。

チャコちゃんシリーズ以降、両親をパパ・ママと呼ぶ(呼ばせる)家庭が急増したように思う。

参照:禁断のハイブリッドマニアック

2006年01月10日

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