キャプテン

昭和40年代の追憶


生年月日や血液型の性格診断や占いを信じますか?

私には誕生日も血液型も同じ幼馴染みがいた。共に小6から剣道を始めて、中2の秋から彼は剣道部のキャプテン「主将」となった。

私は、目立ちたがり屋&意外性を求めるタイプで剣道でも、フェイントや引き技など、あまりきれいな型ではなかった。いわゆる試合相手をひっかき回す無手勝流戦法であった。
彼は、もの静か&協調性があり剣道のスタイルも正統派のきれいな型であり、昇段審査もいち早く通過した。勝負もじっくりとした間合いからのメンを決め技としていた。

ま、小6の時点で身長140cmの私と、160cmを超えていた彼との体格の違いも戦法に影響したのだが、戦えば二人の勝負はほぼ互角であった。
しかし、無手勝流の私と正統派の彼との剣のタイプの違いで常に団体戦の試合では「私が先鋒、彼が大将」と言う順番は不動であった。

注:剣道の団体戦(5人制)の順番は
  1.先鋒 2.次鋒 3.中堅 4.副将 5.大将 となる。

剣は心を映す....と良く言われたものだが、心=性格という
言葉に置き換えると、同じ誕生日&血液型なのに彼と私はまるで正反対だなぁと思いながら過してきた。

そんな訳で私は、生年月日や血液型占いによる性格診断とかは、思索の参考程度には心に留めるが、基本的には育ってきた環境。つまり、後天的な体験に大きく影響されるとものだと思っている。

但し、輪廻転生などは信じる方なんですけどね^^; 矛盾してますよね^^;

剣道部1973.jpg

前列左端が私。中央の白い胴着で盾を手にしているのが主将の彼。
その後商船大学に進み、十数年前の同窓会連絡の時に貨物船の仕事をしていると聞いたが....今頃は正真正銘のキャプテン「船長」になっているのかもしれないなぁ^^

2006年01月29日

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眠り狂四郎

昭和40年代の追憶

眠狂四郎は、柴錬の小説に登場する剣客ですが・・
中学=剣道部 高校=吹奏楽部 大学=美術部
と、まるで一貫性のない部活動をしていた私ですが、どの時代にも共通しているのが突然眠ってしまう習性があったことで、剣道部でなくても眠狂四郎と言われた事が^^;
小学生の頃まではとても神経質な子供で、昼間電車やベンチで眠っている人がとても信じられなかった。だが、中学以降は座席が前であっても空腹時であっても、突然に授業中寝てしまった。課外活動中でも同じで...

中学=武道館での試合最中に
高校=コンクールの演奏途中に
大学=クロッキーデッサン中に
   教育実習前挨拶の母校の校長室で^^;
   百貨店のバイト中、社長訓示中に^^:

この悪しき現象は今でもなおらず
どんなに前日に充分に睡眠をとっても人が多くて密室に近い環境下になると先ず脚がだるく重く感じる予兆が現れ「あ!ヤヴァイ(><)」と思って舌を思いっきり噛んでも、脚をつねっても
どうにもならず、例えると脳内が酸欠状態のような感覚になり寝てしまう・・

数えあげたらきりがないが...講演会や大事な会議でも突然眠気に襲われ数々の失敗談がある。5〜10分で直ぐに意識は回復するのだが上司からは
「寝不足だからだ!(--メ」
「たるんでいるからだ!(--メ」

とかなり叱られ、病院にも行ったが特に異常はないということで....って、この話は長くなりそうなのでいずれまた別項で^^;

今日は、娘の高校の文化祭である。娘も吹奏楽をやっており、今日の演奏ではソロがあると言うことで今ビデオの充電をしている。

もう、娘本人は親が見に来ることは嫌がるのだが、妻がPTA広報の役員として文化祭に行かなければならず、また本日娘が着る衣装は妻が徹夜で仕上げたこともあるのか、動画を残しておきたいとのことで出かけることにあいなった^^;

ブラバンコンクール

高1の時のコンクール。上段左端が私で隣の2人は同級生・左端は先輩

尾○君は、今は大学教授でフランス文学の書籍を結構出してる
池○君は、高校教師となり今でも吹奏楽の顧問をしてる

・・・(・_・)あっ^^;

クラせんぱ〜〜い♪(^0^)/ 今、どうしてるのですかぁ〜?^^?

2006年01月28日

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クラス会やるわよ!

昭和40年代の追憶


クラス会やるわよ!
と、8/4に会社に電話してきたのが、今じゃ地元で幼稚園の園長してる中学時代の同級生の女の子・・・子かぁ〜?(笑)

「え!いつやるの?」
「えっとね。再来週の土曜日!」
「はぁ!?ずいぶん急な話だなぁ」

どうも先日役所の会合で、当時の我々の担任の先生とやはり、卒業後教師をしている同級生と会ったらしくトントンと話がすすんで、やるなら早いほうが・・ということで決まったらしい。

「じゃぁ、○○君は、大丈夫ね。
あ、それから1次会は私たちでやるけど、2次会以降は幹事お願いね!」

『ガッチャッ!ツー・・ツー・・ツー・・』

ゞ(ーー*) おい!ちょっと・・・


┓(´_`)┏ あぁ〜 こっちも変わってないや(w


てな訳で、中学時代のクラス会が先日ありまして、わずか、2週間の期間で44名中21名が集まりました。みんなを笑わせる奴。ひとり静かに飲んでる奴。何年経っても、キャラは変わらないよねぇ^^;

1次会も終わり・・・

2次会のカラオケには途中帰った人も含めて18名。なおかつ、当然のようにオールの3次会となり早朝のフェミレスコーヒー解散まで残ったのが先生を含めて10人ってどーよ!?(笑)

昭和47〜9年
我々の中2〜3時代を新任で受け持っていたI先生。実は私自身も、この先生の影響を受けて教員を志しました。(結局わずかな期間で終わったけど^^;)

かっこよかったし、真っ直ぐだったし、温かだった
わずかな期間にも関わらず、約半数も集まったのはやはり先生の人望なんだろうなぁ・・と
すっかり白髪が多くなった先生。でも、変わらないその笑い声に私の脳裏では白黒の世界の中で

  そ〜ぉともぉ〜♪

これが青春だ♪

の歌がずっとリフレインしてましたf(^、^;

タグ:クラス会

2006年01月27日

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伊丹幸雄の青い麦と田舎

TVドラマや漫画の追憶


1972_昭和47_03

夏も近づく八十八夜♪ 野にも山にも ”ばかばか”茂る♪
小学校の音楽の授業で、ここだけシャウト気味に歌っていたのは確信犯である(w

小学校の頃の西平井の通学路や加台の畑には麦畑が広がっていた。広がっていたと言っても北海道の
ような広大な畑ではなく狭い区画にところどころあるという感じだ。
下校途中に麦踏していたおじいちゃんに声をかけて5〜6人畝ごとに並んで麦踏競争をしたり、麦の
背丈が伸びてくると、「忍者部隊月光」かくれんぼごっこをしながら遊んだものである。

私にとって、里山の風景といわれて浮かぶ風景ゆるい斜面に段々に広がる麦畑であり、まさに田舎の風景だ。

さて、1972(昭和47)年。わたしが中2の時に伊丹幸雄が「青い麦」の曲でデビューした。

歌詞の後半で...
青い麦畑 探しに行こう 二人の恋には 日向(ひなた)が 似合うよ〜♪

があるのだが、もともと鼻にかかった甘い歌声で ”ひっなったがぁ〜〜”とシャウト気味に歌うので私の耳には ”いっなかがぁ〜”と聴こえ

( ̄  ̄)(_ _)( ̄  ̄)(_ _)ウンウン..そうとも、麦畑は田舎が似合うものだ...

と誤釈し、かなりの期間この歌の最後を二人の恋にはぁ〜 田舎が似合うよぉ〜♪と本気で歌っていた!(自爆)


ヤバイ...( ̄、 ̄*)
この記事をうけて、歌謡曲一発屋ネタや懐かしの
TVドラマネタを暫らく書き続けるかもしれない^^;

..............................................

参照:KABU+PLUS

タグ:伊丹幸雄

2006年01月26日

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札幌五輪とジャネット・リン

昭和40年代の追憶


虹の地平を 歩み出て 影たちが近づく 手をとりあって
 ・・・中略・・・
生れかわる サッポロの地に きみの名を書く オリンピックと

1972年札幌オリンピックのテーマソングでトワ・エ・モワ が歌っていた。
この時の日本のメダルは....

70メートル級ジャンプで
笠谷幸生が金
金野昭次が銀
青地清二が銅
「日の丸飛行隊」がメダルを独占した。というか、この3つが全てであった。

それだけに印象がとても深く残っており、当時中1であった私たちのクラスでは、1人が実況中継アナウンサー役になり順次、選手役がジャンプ特有のしゃがみこみからポーズを真似て...

「...さぁ笠谷、さぁ笠谷!
 ...金メダルへのジャ〜ンプ!
 ...飛んだぁ〜!!決まったぁ〜!!」

と、その時の再現ゲームごっこを休み時間にやっていたものである。
そして、この「虹と雪のバラード」も歌声コンクールとかで採用するクラスも多く、さんざん歌ってきたので歌詞もそっくり覚えている。

今日トリノオリンピックが開幕した・・・

トリノ五輪では、女子フィギュア陣にメダルの期待がかかっているが、1972年札幌五輪の時のアイドルはなんと言っても、ジャネット・リン だった

ジャネット・リン.jpg

当時、私も下敷にはさんでいました^^;

2006年01月25日

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おう、金だひろおうか?

昭和40年代の追憶


王、金田、広岡(おうかねだひろおか)ベーゴマで遊んだ時によく言っていたなぁ。

ベーゴマに刻印されていたのはだいたい野球選手で、他には川上、別当、黒江、藤村、長嶋等をなんとなく覚えている。
T・K・W・M・H・R等のアルファベットが東大、慶応、早稲田、明治、法政、立教の六大学のイニシャルであると知ったのはずいぶんあとになってからだ。

ベーゴマは色々な種類があったが、
高(たか) 中高(ちったか) 中低(ちゅうべった)  低(べった)
の4種類で遊んでいた。

その他、サイズの大きいものは、デカ。
比重の重い強いベーゴマを何故か「埼玉ガン」と呼んでいたっけ・・・・

何故だかベーゴマは冬休みに遊ぶことが多かった。
大きめのバケツや樽に、ややくぼみをつけたシートをかけそれを土俵にして
「いっせぃのせっ♪」で同時にコマを投入する。

勝った方は、負けたベーゴマを手に入れることができる。
強くて人気のあるコマが欲しくて、時々直接対決を申し込む。
あるいは、とられたコマを取り戻すために、相手に先に土俵に投入してもらう。


その時、相手のコマに手前から直接ぶつけて弾き飛ばす技を「ガッチャ」といい。相手のコマの向こう側に落とし、ヒモでひっぱるように手前に落とす技を「ヒッカケ」と言っていた。
弱いコマでも強い回転力やガッチャやヒッカケの技のタイミングが合えば強いコマに勝つことが出来た。

回転力をつける為には、ヒモをなるべく多く巻いた方が有利だ。ヒモに結び目2つの「女巻き」だと巻くのは簡単だが回転が弱い。そこで、結び目1つの「男巻き」にしてしかも、ヒモを水で濡らして硬く巻いていた。

かじかんだで、あかぎれになりそうな手でベーゴマを回していたもんだ・・

ベーゴマの勝負では、コマが弾き飛ばされても土俵から地面に落ちる前に手で受け取ればセーフなのだが、たまに土俵際で落ちる寸前のコマを手で土俵に戻すと「床(とこ)戻し」と言われる反則技だ。

たまに「今手に触った!」「触ってないもん!」で喧嘩になったものだ(笑)

また、土俵の外に弾き出さなくても、相手のコマをひっくり返しても勝ちなのだが・・・
まだ回っているのに、「もう止まったもん」など言って自分のコマが不利にならないうちに土俵から取り出してしまう反則もあったな^^;

タグ:ベーゴマ

2006年01月24日

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朝トイレで聞く声

昭和40年代の追憶


私は幼い頃母に「とにかく出なくてもいいから毎朝トイレには入りなさい」と躾られた。おかげで、生まれて此の方便秘という事は経験したことはない。

しかし、いつもいつも快調であるはずがない。出そうで出ない・・出たけどまだ出そう・・
この状況のまま、トイレを終えるのはその後1日が非常に不安である。まさに「ふんぎりがつかない」とはここから語源があるのだろうと長い間思っていたくらいだ。

●正しくは、
ふんぎりがつかない=踏み切りがつかないであり。
思い切ることができない だからね^^;>受験生諸君

さて、小学生の頃、通常は集団登校であったが5〜6年生の時に市内の陸上大会の選手に選ばれて通常より早く登校して朝練に参加している時期があった。

この時、少し離れた場所に住んでいたクラスメイトもやはり選手に選ばれて
毎朝「○〜〜〜〜〜〜〜○君♪」と独特の抑揚&甲高い声で私を呼びに来た。

彼の家では、父親の仕事関係からなのか朝が異常に早い。朝5時過ぎには家族全員朝食を終えていたらしく、朝に時間をもてあましている彼は、遠回りにして時間を潰してもほとんど毎朝、約束の時間より早く私を呼びに来た。

で・・
たいてい私は「○〜〜〜〜〜〜〜○君♪」の声をトイレで聞いていたのである。

で・・
たいてい母が「先行ってちょ〜〜だい♪」とやはり独特の抑揚で答えていたのである。

で・・
このクラスメイトは後年、ニッポンハム・ファイターズにドラフト1位で指名され、その後、スポーツ紙や朝刊の1面を飾る投手としての大記録も残している。

2006年01月23日

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テレビの公開収録番組

TVドラマや漫画の追憶


流山に市民文化会館が出来たのは、私が小5の時でやっと人口が5万人を超えた年だった。
今でもまだまだ緑の多い町だが、その当時はまだまだほんとに田舎そのものである。

おらが町に立派な施設ができ、市で誘致PRをさかんにしたのかそれとも都心から30km以内という利便さからなのか、テレビの公開収録番組がよくやってきた。

ドリフの全員集合も来たし、ロッテ歌のアルバムなどもよく来ていた。
が、しかし最も回数多く来たのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったコント55号「みんなで出よう55号決定版!!」(TBSテレビ)であった。

これは、視聴者参加公開番組で素人の素の面白さを引き出すテレビ素人いじり番組の走りのような番組で、欽ちゃんのアドリブと二郎さんが扮する赤忍者が人気だった。

事前にオーディションがあり、濃いキャラの素人が選ばれて舞台に上がるのだが、見知ったおじさんやおばさんが結構出てた。

しかし田舎の子供にとってこの番組で何より注目していたのが。提供:トクホン本舗のCMが会場の客席できれいなお姉さんが商品紹介する生CMであったことだ。

いつも客席の決まった一角に、白いテープが張ってあり、その後ろ付近の座席が目立ちたがり屋の子供にとってプレミアム席であったのである。
なにしろ、ほんの一瞬ではあるがお姉さんの肩越しに自分の顔が全国に放送されるのだからf(^_^;

ただ、今の子供のように節操なくVサインや顔を突き出すようなことはなく、ちょっぴり恥かしそうにカメラ目線を送るくらいであったが(笑)

とにかく、そのCM指定席の後ろ付近に座った同級生は、放送の翌日は学校でヒーローであった。私自身はついぞそのプレミアム席に座ることもなくその番組は終わってしまった。

しか〜し!ついに中2の時にテレビ出演のチャンスがまわってきた。
・・と言っても、会館に一番近い、わが中学から元気の良さそうな30名くらいが選ばれ、舞台の端の雛壇に座らされて番組合間にADさんの合図で「ファミリースペシャル!」と絶叫させられただけだったが^^;

それでも、まだビデオなど普及してない時代だったので、一瞬でも映像として自分の顔が画面に映るだけもとてつもない快挙であったのである。

2006年01月22日

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草の匂いと戦争ごっこ

昭和40年代の追憶


寝転がり 我の未来を 想う時
 草の匂いと 眩しき光り


いきなり稚拙な短歌で恐縮だが、この首は私が小5の時に詠んだものである。
たまたま、地域の文集に掲載してもらったのでよく覚えている。

私の幼少時代は、近所の山林が新しい住宅地に次々に造成されていった。
造成は順を追って整備されるので私たちはブルドーザーの音を遠くに聞きながら
雑草が生い茂った造成途中の荒地で秘密基地ごっこなどして遊んだものだ。

オオアレチノギク  ヒメムカシヨモギ
これらが生い茂る小さな密林の奥に、小さな空間を作り、そこにお菓子等を持ち込んで秘密基地とした。この秘密基地に入るためには、隊員同士の合言葉が必要だった(笑)

また、秘密基地はひとつではなく、時々2グループに分かれて互いの宝物を決めて、それを奪還する遊びをした。

一通り秘密基地ごっこや宝物奪還遊びが終結すると、今度は見晴らしの良い荒地に移動し、泥団子で作った手榴弾を投げあい、敵の旗(たんなるボロ布だが)を奪う戦争ごっこになる。

オヒシバ メヒシバ
これらが茂った戦場では、事前に作戦タイムがあり、ところどころに落とし穴を作ったり、草を結んで相手を転ばすための地雷も作ったりしたものである。
しかし、敵に仕掛けた罠のはずが自分が落ちたり、つまずいたりしたことも多かった。

草の匂いを詠んだ歌は、このような遊びをしながら息を切らして大の字になって休憩した時に
『おまえ、将来なんになる?』
と仲間から言われた時の事だったか・・・
あるいは、川釣りに出かけたときに土手の斜面に寝転んで、天を仰いだ時に浮かんだ歌だったのか・・・

歌は覚えているが、どちらのタイミングで浮かんだ首なのかは、もうすでに記憶の彼方である。
がしかし、どちらも共通したあの草の匂いと日差しの眩しさは覚えている。

11歳・・・あの頃は未来は無限にあると思っていたが
もはや、人生の折り返し地点を過ぎてしまった・・・

荒地の様子を具体的に理解して頂くために
岡山理科大学 総合情報学部 生物地球システム学科 植物生態研究室(波田研)様のHPから画像のリンクを貼らせて頂きましたm(_ _)m

タグ:秘密基地

2006年01月21日

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実写版サザエさん

TVドラマや漫画の追憶


♪サーザエさん サザエさん サザエさんって どんな人?
 そーりゃ もう 美人で (そりゃもうっ) しとやかでぇ
 朗らか過ぎて 上品で 親孝行で 親切で

(パッパッパのランランラン♪ランランランのパッパッパ♪)
 「かつお!わかめ!こらぁ!待て〜!」
 
 そそっかしいのが タマに傷 消え入りそうに うなだれて
 モジモジ 真っ赤な モジモジ 真っ赤な サ〜ザエさん♪

アニメのサザエさんが始まったのが昭和44年から。
しかし、昭和40年には江利チエミ(故)主演で実写版ドラマのサザエさん が放送されていた。

実写版サザエさん

ホウキとはたきを持ちながらランランラン♪と掃除しているところに、カツオ&ワカメが悪戯をするので、「こらぁ!待て〜!」とホウキを手に持ったまま外まで追いかけ。それを人に見られて恥かしそうにもじもじ赤くなっているという展開の歌である。

当時のワカメ役、上原ゆかりは明治マーブルチョコレートのCMで国民的マスコットだったのだ。

マーブルチョコと上原ゆかり

参照1:古い漫画のレコードなど
参照2:SATTON CLUB

2006年01月20日

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