今からアキバに来い!

昭和50年代の追憶


いきなり、こんな携帯がかかって来たのは7/17の21:00頃。

誰かと思えば、大学時代のゼミ仲間。
1人は、大分で教師やってて。
1人は、浜北で技師やってて。

それに千葉で教師やってる当時のゼミ仲間が
「今、秋葉原でみんなで飲んでるから来いよ!」
との突然の誘い(w

「おっしゃ!すぐ行く!!」
と2つ返事で向かったものの
着いた時には、店は終わっていて、泥酔した3人が雑居ビルの通路でへたっているし(笑)

浜北の友とは、20年ぶり・・
大分の友とは、10年ぶり・・
千葉の友とは、6年ぶり・・

大学卒業式

写真は卒業式のあと、当時引退したばかりのジョギング中の竜虎関に偶然出会い、記念写真をパチリ♪ 顔...すごいでかかった(w
しかし、ほんとに久々にあったのだが、みんな全然変わってない(w

私が到着した時間はすでに22時過ぎで、それからまだ開いてる店はないかと、千鳥足の3人を誘導しながらやっと1軒の店を発見。でもそこも本日は祝日なので23時までですと、わずか40分ほどの歓談だった(w

「なんでもっと早く連絡しないんだよ(==」
「いや、誰かがもう誘っている筈だと思った」

・・って3人とも。やっぱり、そんなところが全然変わってない!(大笑)

まぁ話題は当然、大学時代の武勇伝やドジ話^^; 40分間、セピア色の世界に戻ってました^^:

   中央の↓が私です。

大学ゼミ忍野百海

ゼミ合宿で、忍野八海をみんなで覗いてます(w
この後、全員で富士登山を致しました。1981(昭和56)年

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2006年05月01日

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朋遠方より来る有り

昭和50年代の追憶


嬉しいメールは続くもので...
9/1に知人の娘さんの米国留学から帰国の件の翌日
9/2に高校時代の親友が米国赴任から帰国したとの知らせがわーい(嬉しい顔)近々に居酒屋でも行ってつもる話をしてみたいと思っています。

彼との青春時代の思い出は様々ありますが、その中の1つがこれ^^;

入間基地航空ショー

写真の色と長髪姿の私が30年の歳月を物語っていますなぁ(苦笑)
この時、我々は高校3年で期末試験の真っ最中^^;試験の最中にも関わらずどうしてもショーをみたいと意見がまとまり、彼ともう1人の友人と私の3人で埼玉県の入間基地にレッツラゴー!した次第です^^;
その後、彼は外資系のIT産業へ。もう1人の友人は警察官となりました。

入間基地航空ショー2

警官となった友人とはその後連絡が途絶えましたが、ITに進んだ彼とは、ずっと親交が続いております。彼は物静かな性格ながら芯が通っており、また努力や苦労をちっとも表に出さないキャラで、私は在学中からずっと尊敬しておりました。

『朋遠方より来る有り、亦楽しからずや』

彼からの帰国メールが届いた時、真っ先にこの一節がよぎりました。たとえ何年会っていなくても、心から尊敬する親友と語り合う歓びって、ほんといいものですよねぇ手(チョキ)

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2006年05月02日

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本部席テント

昭和50年代の追憶


眠気の件で思い出したことが・・・

私の同級生に体格も顔も『巨人の星』に出てくる伴忠太にそっくりな奴がいた。彼とは小中高と同じ学校に進んだが、小中の同級生は彼を呼ぶ時には、名前の呼び捨てだったが、高校生となりますます風貌が伴忠太に似てきた彼のニックネームはいつしか「伴○○」と呼ばれ、野球部でキャプテンだった。

さて、我が校では文化祭と体育祭は1週間の間隔でセットで開催された。体育祭と言ってもリレー以外は球技祭みたいなものであり、文化祭&体育祭をあわせて『鎬(しのぎ)祭』と呼んでいた。
高3になった時、彼は体育祭の委員長となり、閉会式の挨拶をするために本部席テントで出番を待ちしながら、連日の疲労のためか船を漕いでしまっていた。

生徒会の進行役に促され、挨拶をするためにだるそうな身体で朝礼台に上がった彼の姿をみて・・

「クスクス・・」「ククク...」と笑いをこらえる声が聞こえてきた。

(-_・)ん?・・なんだ??なにが可笑しいのだろう?

と、後ろで同じように笑いをこらえている友に尋ねると...

「股間だよ...股間みろよ....テント...(w」

(; ̄ー ̄)ん!?

男性諸氏なら、覚えがあろうが^^;
性的欲求がなくても、なぜか身体に疲労を感じて眠くなってしまった
時に不本意に勃起してしまうことがありますよねぇ^^;

なんと、朝礼台の彼はとてもご立派にご子息をお立ちになられていたのである^^; 上下ジャージという柔かい素材を着ていたせいで、それはもう誰の眼にも明白で見事なテントでございました^^;

彼の挨拶の第一声...
「心地よい疲労感とともに、第○会しのぎ祭を終了しますが...」
の後はもう、同級生の男子たちは笑いのツボにはまってしまい、どんな風に閉会式が終了したのか、何組が勝ったかなどはまったく覚えていない(w

彼はその後高校教師となり、野球部の顧問として今でもユニフォームに袖を通している。

高校体育祭

高3体育祭でのスナップ。この写真では本部席テントの彼は写っていない。
右端が私だが...ふと気がつけば、横の3人もみな教師になっているわ^^;

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2006年05月03日

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チーズ薄切り競争

昭和50年代の追憶


渋谷公園通りのゴールデンスキリット・フライドチキン屋では、バイト仲間で密かなゲームを行っていた。よーいドン!で5分間にどちらが、より薄く、きれいに、しかも数多くトマトやチーズを切れるかを争うゲームである。

ゲームに負けた方は、1週間仕入れた鶏肉の血抜きと脂肪取りの作業をしなければならない。この作業がなかなか大変でしゃがんだままの姿勢で腰が痛くなるのと、手が脂でベトベトになるのである。
アルバイトに入った当初は、当然私は負け続きで鶏肉の担当が続いた。しかし、どうやったら薄く、早く切れるかのコツがわかってくるようになると徐々に先輩アルバイターに勝つことができるようなってきた。

勿論、ある程度の技術の修練も必要だが、肝心なことは道具の手入れであった。当世グルメ番組が流行であり、有名調理人の下積み時代のエピソードや現役の下済み調理人にスポットがあたることがあるが、そのシーンをみていると思わず頷いてしまうことが多い。

仕事の終わりに...1日の感謝を込めて調理台を磨き、鍋を洗い、刃物は最も気持ちを込めて砥げと私も教わったが、その積み重ねこそ調理人の原点なんだろうな。

今、こうして年齢を重ねてふと思うことは。あの時...先輩はわざと私に負けてくれたのかもしれない。翌日の早番に迷惑がかからないように、タイムカードを押した後にも一生懸命調理台を磨き、腰痛と格闘していた私を見て、私にやる気をおこさせる為の、先輩の優しさだったのかもしれない。

アルバイトであれ、正社員であれ、仕事・職場という場は、ただ単に金を得る手段の場ではなく、知識や技術の習得のほかに、他人を思いやる心の厳しさと優しさを積み重ねていく場であると思う。

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2006年05月05日

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アナウンサー志望?

昭和50年代の追憶


幼稚園の演劇会で主役を逃して泣いた思い出からさらに記憶が蘇ってきた^^;

小5になると学校の各委員になれるが、私はずっと放送委員になりたかった。運動会のアナウンスや校内放送で自分の声がスピーカーから流れることに憧れていたのだ。しかし、同じクラスの内○さんという女子も同じ思いだったらしく2人同時に立候補して、彼女は泣き出してどうしても放送委員になりたいと訴えた。

・・・で、
担任の麻○先生が私にこう告げた。
「ここは女子に譲りなさい。君なら他の委員で活躍できる」
で、私も泣いたかどうかは覚えていないがともかく不承不承に違う委員となった。(新聞委員だったかなぁ?営繕委員だったかなぁ?覚えていない^^;)

その後、小学校卒業の予餞会の時に幕間のスピーチを任され
「おっし!最後のチャンスだ!」
と、かなりはりきり1ヶ月かけて、用意されたスピーチ原稿を勝ってに変更して、近所の人から借りたテープレコーダー(古っ^^;)で間の取り方や声の抑揚をしっかり訓練し、しかも原稿の内容もいかに聴衆を笑わせるかに変えていたので、当日マイクを前に話し、はじめた内容に担当の先生の顔色がみるみる変わっていくのを横目でみている余裕もあった。

果たして...
前代未聞の予餞会感謝スピーチは聴衆を爆笑に渦に巻き込み、この時、私は聴衆から万来の拍手と喝采に、例えようのない快感を覚えてしまった^^;

なにより、帰宅してから母に
「僕があんなことして恥かしくなかった?」と尋ねたら
「とても良かったと、みんな誉めていたよ」と答えてくれたことが嬉しかった。

これがきっかけになったのかどうか、あいつは観衆を前に緊張しないやつだとの評価を受け、中学入学時の新入生代表や成人式の代表挨拶などの任を受けるようになった。ま、しかし、後にも先にもあれだけ聴衆を爆笑させたことは小学校以来なく... たいていのスピーチは滑りまくりである^^;

さて時は流れ、大学生となった私は当初は放送部に体験入部した。
しかし、この部は通学に学生服着用が義務であり、朝練・夕錬も新入生はきっちり出ることを要求され、学費&生活費をセルフしなければならない私にとっては、アルバイトのシフトが何よりの優先事項であったので、とても無理だという結論に達した。

大学1年の履修科目も午後はすべてバイトのシフトに合わせるように提出した頃、すでに新入生歓迎コンパの時期となっていた。なにか課外活動はやってみたいよなぁ・・と教室の窓から外を眺めていたら、一番近い部室棟に美術部の看板が目に入った。

「あぁ〜、そういえば弟が油絵の道具は持っていたな」
と授業を終え、とりあえず尋ねてみるかぁ・・と部室のドアをノック。。

私:「失礼しま〜す」
先輩:「あ、君新入生?」
私:「はい、そうです」
先輩:「あのね、明日は5時にココ集合だから」
私:「はぁ・・」
先輩:「なにやってるの?早く○○教場に行きなさい!」
私:「はぁ、あの・・」
先輩:「ちょっとさ、今からOBが来るから!」
私:「はい、失礼しました」

なにがなんだかわからず、その日はバイトのシフト入りだったので○○教場へは行かずに、翌日5時にまた部室へ。そこにはわんさか人が溢れていて、とりあえず部室棟の前に集合している団体の中でポツンとしていた。

鈴:「あれ?君名前は?」
私:「○○です」
鈴:「え?今まで来てた?」
私:「いいえ、昨日ほんの2分くらい部室に」
鈴:「え?今日が新歓コンパだよ?」
私:「ええ、なんかそうみたいですよねぇ」
鈴:「先輩〜!彼、昨日が初めてでまだ入部届けも
   出していないみたいですけどぉ?」
先:「え!?ま、いいや。一緒に来ちゃえよ」

こうして、なんの思慮もなく私は美術部に入部することになったのである。
しかし、私は夏休みを迎えることなく一旦大学を休学することになる。

夏合宿03

この写真は翌年復学後、初めての美術部夏合宿でのスナップ。実は全員同い年であるが、現役・1浪・1浪&留年・2浪 という違いで学年が異なる。2年生の矢印が私に最初に声をかけてくれた鈴○君である。彼とは今でも時々、連絡を取り合っている。

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2006年05月06日

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役者志望?

昭和50年代の追憶


役者志望は基本的に目立ちたがり屋だと思う。
私の目立ちたがり屋の性格はいつからなのだろう?

その件で覚えている一番古い記憶は、幼稚園の演劇発表の時、演題が「海彦山彦」と決まり、私は主役の海彦にも山彦にもなれずに、船頭の役となり泣いて家に帰った記憶がある^^;

さて、大学では美術部に所属したのだが、夏の海景色&冬の山景色を写生するとの名目で、毎年2回合宿があった。生活費から学費まですべて自分で稼いでいた私は、夏休み・冬休みは観光地の住み込みアルバイトで前後期の学費をまとめて稼いでいたので、そのすべてに参加するのは難しく、大学5年間で(1年休学期間あり)夏2回・冬1回しか参加できなかった。

夏2回は、新潟県と山形県の県境にある鼠ヶ関
     三重県の紀伊長島
冬1回は、福島県の裏磐梯

のはずなのだが...鼠ヶ関の風景は思い出せても、紀伊長島の風景は全然思い出せない。

また冬の裏磐梯合宿も4年生の最上級生で行ったからなのか、どんな絵を描いたのか思い出せない...たぶん最終日と合宿終了後のスキーだけ参加したのかもしれない^^;

本来1〜3年生は、合宿中に必ず絵を仕上げてそれを4年生やOBに批評してもらう。
また、夏合宿の最終日にはグループごとに競う寸劇大会が恒例であり、OBはこの審査員を兼ねて差し入れを持って来てくれるのだ^^;

寸劇大会01

これは、鼠ヶ関合宿での初参加した寸劇。同期生が(学年は先輩^^;)脚本&主演で美輪明宏の当たり役「紅蜥蜴(べにとかげ)」を演じ、私は少年探偵団の役だった。


そして、紀伊長島の風景は全く呼び起すことができないのだが・・・
唯一、記憶に残っているシーンがある。 それは寸劇大会のシーンで...







なぜなら・・・



寸劇大会02

   ↑     
主演男優賞を受賞したからである!(自爆)

幼稚園の夢を大学の寸劇で晴らした?(笑)
当時、そこまで感慨にふけたかどうかは覚えていないが自分の脚本でグループが優勝し自らも受賞した記憶の方が美しい海の記憶より鮮明だということは...

私はやっぱり根っからの目立ちたがり屋なのだろう^^;

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2006年05月07日

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現役・浪人・留年

昭和50年代の追憶


細かい説明は割愛するが・・・私の大学生活は1浪1留年の形で再スタートした。
そうなると、キャンパス内での会話は少し複雑なことになる。
美術部は文化系とは言え学内の正式加盟の団体であったので体育会系のように上下関係は厳しかった。

1年=奴隷 2年=平民 3年=貴族 4年=王族 OB=雲上人

みたいなものである。
ま、だからと言って横暴を振るうようなことはなく、あくまで言葉の使い方に注意しなければならない...ということであるが。

美術部内では同い年や年下でも先輩がおり、逆に年上でも後輩がいる。
ところが学部内では、年齢に関係なくみな同級生なのでタメ口である。
(とは言ってもあきらかに年齢が離れていれば一応敬語を使うが^^;)

たとえば、同じ学部の同級生Aが、美術部に居ると・・・
Aは他の学生にはタメ口だが、私だけには敬語で話す。

逆に、美術部の現役先輩Bの友達が2浪で私と同じ学部になると・・・
その友達はBとタメ口だが、私は先輩Bには敬語で話す。

しかし、たまたま高校の同クラスの2人が現役と浪人で美術部員になったケースがあったが、プライベートでの会話はわからないが活動中は完璧に敬語使用であった。

さらに、美術部内で2留年した先輩がいてこの先輩の場合は、学部3年生であるけれど、美術部内ではOBとタメ口だったのだから、ややこしかった(^^;

私が2度目の1年生となった時のS幹事長(3年生)はとても気が優しい先輩で(と言っても同い年なのだが)私の休学事情などをよく理解して頂いていたので、アルバイトと部の活動の両立ができたのである。

新入生歓迎コンパの洗礼を2度経験した私だが、学部内では1年生でも新入部員に同学部の後輩が出来て、出席カード等の代返etcで、こちらもまた大変お世話になってしまった^^;

夏合宿04

↑これは美術部合宿恒例の1年生いじめ?(^^;後ろ姿で、黒に白字の106boy のTシャツが私である。

お菓子のカールの水無し一気食いであるが・・・前年に合宿に参加していない私は当然に強制エントリー(^^; この競争もグループ対抗の得点争いに関係したので必死に食べた。

口の中の水分が全くなくなるわ、喉に詰まるわで窒息死するか...と思った(><)

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2006年05月08日

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トレーナー裏返し着

昭和50年代の追憶


もともと、昔から着る物には頓着のない私であり、先輩やバイト仲間からお下がりの服をもらって平気で着用していた。

まぁ、高校〜大学時代にこだわったファッションは?
と、強いて問われるならばカーキ色のアーミールックが多かったかもしれないなー。

当時のバイト仲間が、ボートハウス、ビームス、シップスだのとバイト代が入るとそれらのパーカーを1枚買うことを楽しみにしていたのだが・・・

そんな仲間と一度だけ、原宿と青山に買い物に付き合ったことがあった。たぶん、昭和55年の秋の頃だと思う。その時は、唯一のトレーナーをわざと裏返しに着て精一杯のお洒落をしたつもりであった。

当時は肩までの長髪で体型も今よりずっとスリムでよく後ろから見て女性と間違えられた。
             
       
         ↓


神宮前の交差点で信号待ちをしていたら、誰かが背中をトントンと叩く

「えっ?」

と、振り返ると全く知らないおばあちゃんが

「お姉さん..あら?お兄さんだったのね」
「あのね、あなた服を逆さまに着てるわよ」

と親切に忠告されてしまった

「あ!ほんとうだぁ、慌てて着ちゃったからf(^_^;)
 ありがとうございます」○┓ペコリ

と、咄嗟にこう答えてしまった私は、その場でトレナーを着直しあっけなく私の原宿・青山でのお洒落は終わってしまった。

ほかにも、奇抜な重ね着やファッションをしていた若者がいっぱいいたのになぁ〜
やはり私だけ、よほど着こなしが、さまになっていなかったんだろうなぁ(苦笑)

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2006年05月09日

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なで肩でっちりユニセックス

昭和50年代の追憶


ユニセックスとはファッション用語である。

1972年にヒットした「学生街の喫茶店」(byガロ)のメンバーで「君の誕生日」のヴォーカルを担当したトミーなどのファッションだ。

身長168cmと男性としてはちょい小さい私だが筋肉質の割りには着痩せするらしく&なで肩でっちり体型であり、高校生になり長髪にしてからは、後ろから見てよく女性に間違えられていた。

今ではみる影もないが^^;当時のウエストは60cmあるかないか..

鎌北湖合宿
          ↑
吹奏楽部の合宿で埼玉県の鎌北湖ユースホステルに向かう途中


なで肩で困ることは、ショルダーバックがすぐはずれることだ中学時代は布製の肩下げ鞄使用が校則だったが、かっこつけて片側ちょんがけしようとしても、2〜3歩歩いただけですぐ落ちてしまったもうやだ〜(悲しい顔)

またシャツは男性物ではいつも、肩が余ってしまってかっこ悪いので、高校時代は女性物かユニセックスの服を着ていた。
しかしそのような私服で電車に乗ってると、痴漢に会うこともあり
『繰り返すが...今では見る影もないが(-。-)』
たぶんウエストが締まっている割りには、ケツがど〜ん!と出ていたからだろう・・・。

初めての時は、まさか自分のケツが故意に触られているとは思わないから...
「なんだよ(--)たいして混んでもいないのに、そんなに押すな(--;)」
と思っていたが、太ももに手が伸びて来た時は...

もしかして「..俺..痴漢されているのか!?」Σ( ̄ロ ̄lll) 
とようやく事態に気づいて...

「俺、男だぞ(ーーメ」

...と振り向きざまに言った時のおっさんのびっくりした顔と言ったら「鳩が豆鉄砲を食らった」と言う表現は、あぁ〜いう顔を言うのだと実感した!(w 

その後、私のファッションは中村雅俊主演の「俺たちの旅」のカースケに影響されアーミールックになっていったのである。

高校卒業旅行
             ↑
高校卒業後2年目(20歳)時の伊豆方面へのクラス会ドライブ旅行で伊豆の国民宿舎に泊まったがこの時から煙草が吸えるようになった^^;
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しかし、高校時代に1度だけ完璧に女学生に扮したことがある。このスナップに写っている○元さんの制服を借りて(w
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コスプレのマニアだったのか!?と思いました?( ̄ー ̄)違いますよ( ̄ー ̄)

高2の文化祭の時、我がクラスは8ミリ映画を制作上映したですが。その時に、キワモノ役で女生徒役をやったのですf(^、^;

その時の自主映画の監督をした山○君は日大芸術学部映画学科に進学し、後年、NHK教育番組で毛皮&レゲエ髪で原始人役で出演してました!(笑)

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2006年05月15日

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万年セカンド

昭和50年代の追憶

コンバットフリークである。小学校でハーモニカやタテ笛をもらって音階を覚えると暇さえあればコンバットマーチを吹いていた。

しかし、いつかはあのラッパの金管音でコンバットマーチを吹いてみたいと思っていた。
念願のトランペットを手に入れ、早速教則本を見ながら自己流で始めて、音が出るようになった時は本当に嬉しかった。

ラッパという楽器は唇の振動だけでド・ミ・ソが出せる。だからいわゆる軍隊ラッパなどはピストン(指で押す部分)がなくても簡単なメロディーが出せる。(ラッパのマークの正露丸のCMに流れてくるアレである。)

余談だが...軍隊ラッパで
消灯ラッパは
「新兵さんは可哀想だねぇ〜♪また寝て泣くのかよぉ〜♪」
起床ラッパは
「起きろよ、起きろよ、皆起きろぉ〜♪ 起きなきゃ、班長さんに叱れるぅ〜♪」
と隠れ歌詞があり、これを心で歌いながら吹いていた。

ともあれ、自己流では限界を感じて高校ではブラスバンド部に入ってろうと思った。
『しかし、ブラバンに入ろうと思ったもうひとつの理由には中学の下級生でひそかに思いを寄せるブラスバンド部の女子がいて、進む高校は別になるだろうがせめて同じ部活にすれば会えるチャンスがあるかも...との淡い期待もあったのだが^^;』

入部するや先輩が私の唇をみて
「あぁ〜君は、トロンボーンかユーホニュウムだな」と言われた。
私は
「お願いします!どうしてもペットでないきゃ嫌なんです!!」
と懇願しなんとかトランペットのパートにしてもらった。

しかし、金管楽器の基礎練習であるロングトーン(安定した振動をより長く続ける)等を怠り、ちょっと上の音階が出るようになると、コンバットマーチや自分の好きな曲ばかり吹いてしまい、いつまでたってもいい音が出せなかったので万年セカンドorサード(主旋律でない方)担当であった^^;

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2006年05月18日

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