眠り狂四郎

昭和40年代の追憶

眠狂四郎は、柴錬の小説に登場する剣客ですが・・
中学=剣道部 高校=吹奏楽部 大学=美術部
と、まるで一貫性のない部活動をしていた私ですが、どの時代にも共通しているのが突然眠ってしまう習性があったことで、剣道部でなくても眠狂四郎と言われた事が^^;
小学生の頃まではとても神経質な子供で、昼間電車やベンチで眠っている人がとても信じられなかった。だが、中学以降は座席が前であっても空腹時であっても、突然に授業中寝てしまった。課外活動中でも同じで...

中学=武道館での試合最中に
高校=コンクールの演奏途中に
大学=クロッキーデッサン中に
   教育実習前挨拶の母校の校長室で^^;
   百貨店のバイト中、社長訓示中に^^:

この悪しき現象は今でもなおらず
どんなに前日に充分に睡眠をとっても人が多くて密室に近い環境下になると先ず脚がだるく重く感じる予兆が現れ「あ!ヤヴァイ(><)」と思って舌を思いっきり噛んでも、脚をつねっても
どうにもならず、例えると脳内が酸欠状態のような感覚になり寝てしまう・・

数えあげたらきりがないが...講演会や大事な会議でも突然眠気に襲われ数々の失敗談がある。5〜10分で直ぐに意識は回復するのだが上司からは
「寝不足だからだ!(--メ」
「たるんでいるからだ!(--メ」

とかなり叱られ、病院にも行ったが特に異常はないということで....って、この話は長くなりそうなのでいずれまた別項で^^;

今日は、娘の高校の文化祭である。娘も吹奏楽をやっており、今日の演奏ではソロがあると言うことで今ビデオの充電をしている。

もう、娘本人は親が見に来ることは嫌がるのだが、妻がPTA広報の役員として文化祭に行かなければならず、また本日娘が着る衣装は妻が徹夜で仕上げたこともあるのか、動画を残しておきたいとのことで出かけることにあいなった^^;

ブラバンコンクール

高1の時のコンクール。上段左端が私で隣の2人は同級生・左端は先輩

尾○君は、今は大学教授でフランス文学の書籍を結構出してる
池○君は、高校教師となり今でも吹奏楽の顧問をしてる

・・・(・_・)あっ^^;

クラせんぱ〜〜い♪(^0^)/ 今、どうしてるのですかぁ〜?^^?


2006年01月28日

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キャプテン

昭和40年代の追憶


生年月日や血液型の性格診断や占いを信じますか?

私には誕生日も血液型も同じ幼馴染みがいた。共に小6から剣道を始めて、中2の秋から彼は剣道部のキャプテン「主将」となった。

私は、目立ちたがり屋&意外性を求めるタイプで剣道でも、フェイントや引き技など、あまりきれいな型ではなかった。いわゆる試合相手をひっかき回す無手勝流戦法であった。
彼は、もの静か&協調性があり剣道のスタイルも正統派のきれいな型であり、昇段審査もいち早く通過した。勝負もじっくりとした間合いからのメンを決め技としていた。

ま、小6の時点で身長140cmの私と、160cmを超えていた彼との体格の違いも戦法に影響したのだが、戦えば二人の勝負はほぼ互角であった。
しかし、無手勝流の私と正統派の彼との剣のタイプの違いで常に団体戦の試合では「私が先鋒、彼が大将」と言う順番は不動であった。

注:剣道の団体戦(5人制)の順番は
  1.先鋒 2.次鋒 3.中堅 4.副将 5.大将 となる。

剣は心を映す....と良く言われたものだが、心=性格という
言葉に置き換えると、同じ誕生日&血液型なのに彼と私はまるで正反対だなぁと思いながら過してきた。

そんな訳で私は、生年月日や血液型占いによる性格診断とかは、思索の参考程度には心に留めるが、基本的には育ってきた環境。つまり、後天的な体験に大きく影響されるとものだと思っている。

但し、輪廻転生などは信じる方なんですけどね^^; 矛盾してますよね^^;

剣道部1973.jpg

前列左端が私。中央の白い胴着で盾を手にしているのが主将の彼。
その後商船大学に進み、十数年前の同窓会連絡の時に貨物船の仕事をしていると聞いたが....今頃は正真正銘のキャプテン「船長」になっているのかもしれないなぁ^^

2006年01月29日

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自転車ヲタ

昭和40年代の追憶


1971_昭和46年_01
かな〜り長い放置でしたm(_ _)m
他人のHPやブログのお手伝いばっかりしてて、なかなか自分のことまで廻らない^^;
ネットサーフィンで良く拝見するのは、ボタリング(自転車で散歩)ブログである。私自身もかつて自転車小僧だった。中学入学祝いに買ってもらった自転車で、遠くは高尾山や江戸川の土手つたいに東京湾を見に行ったものだ。

ただ、普段の休日になかなか遠出も出来ず、ひとつ目標を立てたのは市内の道の全走破であった。
流山全図の地図に赤鉛筆で走破した道を赤鉛筆でなぞっていくのが楽しみであった。
30数年前のことなどで、ほとんどは追憶の彼方だが、今でも脳裏から離れない記憶は、旧柏飛行場(今の柏の葉周辺)の風景というか空気である。

営門には、まだ米軍の黒人の兵隊さんが居て、こわごわ横目で見ながら荒れ果てた旧飛行場の中に
自転車で入って行った。ほとんど背の高い草に覆われていたが、真っ直ぐな元滑走路の往時の面影はまだ残っていた。
また、おそらく今考えれば若いカップルが車で楽しんだ残骸のようなものや、多くのゴミが散乱していて、とてもきれいと言えるような場所ではなく、早々に走破の目的を果たして帰ろうと思った。

カラスがとにかく多くて、侵入者を私を威嚇するように低く高く舞っていた。
たぶん、まだ夕方には早い午後の日だったと記憶しているのだが、カラスのほかにずっと誰かが私を見ているような気がして、不思議な感覚に襲われたのである。

地図を広げて、点線となっていた滑走路の跡をひとしきり走破して帰ろうとした時、同じ道を何度も走っているのに気がついた。単純な縦横の道なのに、帰路に迷ってしまったのである。
おかしい?
なんでだ?
ほとんど地図に迷うことのない私なのに、なにか永遠にこの空間から脱出できないような感覚に襲われて、「ワァーっ!」と大声を出しながら自転車をこいだが、それでも出口が見つからない。
最終的にどうやってそこから、一般道に出たか覚えてはいないが、まるでそこだけ異次元の世界に入ってしまったような感覚が今でも強く残っている。

この感覚は、小学生の頃市内の他でも体験したことがある。
ひとつは、流山市役所裏にあった飛血山(とびっちやまと呼んでいた)に入った時。
ひとつは、今の三輪野山近隣公園にあった当時森の底にあった沼を見に行った時。

この2ヶ所はとても狭い空間だか、なにかそこだけ空気が違っていて、誰かが自分を見ているような、あるいはもう1人の自分が自分自身を見ているような不思議な感覚に襲われた。
ともあれ、今でも守谷街道を車で走り、防衛庁柏送信所の旧営門前を過ぎる時、往時の記憶が時折蘇るのである。

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2007年06月17日

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大同窓会

昭和40年代の追憶


一昨年の忘年会で、久々に高校時代の部活の同級生やOB等に再会したが、今年は小金高校吹奏楽部創部40周年ということで、記念コンサート&大同窓会の案内ハガキが届いた。

すぐに返事を出そうと思っていたのが、気づいたら期限が先週で終わっていた^^;
今日、急いでメールで参加の意志を連絡したが...
会長!「すんません○┓ペコリ」

...で。所蔵している毎日新聞社刊:決定版昭和史より

小金高校

この画像の上に見える建物が我が母校である。
武蔵野線の開通が、私が中3の昭和48年4月であり、下に見える新松戸駅も未完成なので、この写真は昭和46〜47年頃のものだろう。

ともあれ、大同窓会に参加する私の世代や先輩のOB方々は、こんな田んぼや造成地の中にポツンと建った高校に泥やジャリに足をとられながら通っていたのである。

PS.この大同窓会に出席した日に、当時埼玉県の越谷から小金高校に通っていた同級生が...

 「何言ってんのよ、開通は49年からよ。だって私が通学定期第一号だったんだもん!当時は朝だって1時間に3〜4本。昼なんか1時間に1本しかなかったんだからぁ〜!!」

と、反論していました...そーいえば、最初の1年は貨物列車しか走っていなくて、客車が通ったのはその後だったのかもしれません^^;

とりあえず、当時授業に飽きると窓から見える貨物列車の貨車数の当てっこをしていた記憶が蘇りました(笑)

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2007年06月18日

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ガリ板と鉄筆

昭和40年代の追憶


ガリ板と鉄筆って。...昭和何年生まれくらいの世代までわかるのかなぁ??

私は筆圧が高い(血圧は正常です)...
だから、シャーペンは苦手だ。すぐにポキポキ折れてしまう(--;
小学生の頃に流行に負けて2本ほど買ったが、それ以降はこれまでシャーペンは使ったことがない。

...で
なんでそんなに筆圧が高いかといえば、小学校高学年の頃からずっと鉄筆を使ってガリ板で学級新聞や生徒会新聞を書いていたからだ。

1969_昭和44_
5年生の時に古くなったガリ板を先生から譲り受けて、嬉々として持ち帰り使っているうちにヤスリ部分がだんだん磨り減るにしたがい筆圧が高くなっていったのだ。

小学生高学年から中学3年間...
おふくろが家庭訪問や三者面談で担任の先生にこぼしていたのは
『この子は勉強もしないで、新聞ばかり作っているんですよ(--;』だった。

...で
なんでそんなに新聞作りが楽しかったのかと言えば、実は4コ漫画を編集の権限で描けるからだ...当時からペンネームはずっと丸井○○(メアドを決める時にも、仕事以外はいまだに丸井○○を使っている^^;)

但し、4コマ漫画のキャラクターは流行漫画のコピーばかりで独創性はなかったし、将来漫画家になろうとまでは思ってはいなかったが、それでも修正液の乾く間に、次コマはこう展開しようとか、やっぱりこう展開しようか長考し始めてしまい記事を書く時間よりも4コマ漫画にかけた時間の方がよっぽど長かったものだ。


その頃...
一番よく描いていたのは、鉄人28号・ビックX・流星号・マッハ号・ゼロ戦だった。
もう1人漫画好きな友人がいて、いかに単純な構図で飛んでいる姿や、横からみた姿を描けるかど、ロウ石を使って防火用水のコンクリの蓋や直接地面に棒切れで描いてアイディアを出し合っていたな〜。

2007.07.21筆

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2007年07月28日

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脱脂粉乳と揚げパン

昭和40年代の追憶


1965_昭和40年_05
昭和37年ブログ(ひこてるさんのブログ)にこんな一節があった。

まずい給食献立の代名詞となっている脱脂粉乳。皆さん飲んだことありますか?
兄貴(6つ上)が持ち帰ったものをうちで飲んだことがありますが、鬼マズでした。


ハイ、それを私は飲んでました(笑)
昭和40年に千葉県東葛飾郡流山町立流山小学校(当時名称)に入学した私ですが
給食の脱脂粉乳が牛乳に変わったは、昭和45年の5年生になってからだと記憶
しています。(もしかしたら、S.44年の4年生からかも)

kyusyoku.jpg
↑↑昭和33年当時の給食画像:東京都下の小学校例↑↑

1年生の時は、給食当番はなく『週番』(死語?)の6年生のお兄さんや
お姉さんたちが教室に給食を運んでくれていました。
何せ、脱脂粉乳が入った巨大なアルマイト製のやかん(三角錐の形のやかん)
はとても重たくて、身体の小さな1年生では2人がかりでも運ぶのは大変だ
ったのです。

まぁ確かに、美味い味ではなかったですが、なにより脱脂粉乳の"なまぬるい温度"
が不味さに拍車をかけていたのかもしれません。
脱脂粉乳から牛乳に切り替わって、何が一番嬉しかったかと言えば、夏の授業
のあとなどには、給食で真っ先に冷たい牛乳をゴクゴク飲めるようになった事
でした。牛乳を5年生からと記憶しているは、放課後の陸上競技の練習のあと
その日余った牛乳を飲める特権があったからです(笑)

...さて。
給食の主食は当然コッペパンで、たまに食パンもありましたが、米飯は一度も
なかったと思います。コッペパンや食パンには、アルミに包まれたマーガリン
を先割れスプーンで塗って食べるのですが、それだけは物足りない悪ガキは
以前に余った、イチゴジャムやマーマレードジャム(小袋入り)を机の中に
隠しておき、ジャム&マーガリンのコラボを堪能するのですが、隠している
ことを忘れて、机の中に教科書やノートを突っ込むと・・・(笑)

どのクラスでも絶対に2〜3人、そんなベトベトの机の持ち主がいて、席替え
の時はそいつらの机は敬遠されていました。
小学校の給食時は机の上を汚さないように、給食用ナプキン(テーブルクロス)
を用意することが義務付けられていて、男子は別になんのヘンテツのない無地
や格子柄を使っていましたが、女子はアニメのキャラクターや花柄などお洒落
を競いあっていたように記憶しています。

...ところで。
給食の最大の楽しみは、月1度くらいの頻度で登場する『揚げパン』です。
私の小学校では、揚げて粉砂糖&きな粉をまぶしたコッペパン=揚げパンで
砂糖だけとか、ココアパウダーとかはなかったと思います。

脱脂粉乳+揚げパンの画像を探して、現役学校給食の栄養士さんとして活躍
されている方のサイトに辿り着きました。給食の歴史などを含めて丁寧に解説
していらっしゃったのでご紹介したいと思います。

agepan.jpg
↑↑画像クリック↑↑で「給食の歴史(画像入り)」の頁に飛びます。

2007.08.03筆
.....................................................

参照:昭和37年ブログ>ひこてるさんのブログ
参照:Meet The School Lunch>現役学校栄養士さんのHP
給食画像:東京都下の某小学校のHPより

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2007年08月10日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(10) | TrackBack(0) | 昭和40年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

道程 / 眉山俊光先生(率先垂範の師)

昭和40年代の追憶

輝く大地〜流山を作曲されたロックベル1991年さんの年...つまりちょうど20年前。
私の恩師、眉山俊光先生が流山市長に就任され、そして本年2011年2月に遷化されました。
流山マイラブを作詞したサンプラザ中野くんにとっても、眉山先生は恩師であり高校の大先輩にあたりますが、私にとっては大学の大先輩にあたります。

流山市長の本

私の本棚に
流山現市長:井崎義治著の【ニッポンが流山になる日】
流山前市長:眉山俊光著の【道程】 の2冊があります。

【ニッポンが流山になる日】は、著名人との対談形式の本で、効率的自治体経営をするためのノウハウを語っており、行政サービスはシステムの構築が肝(重要)であるとの姿勢です。

【道程】は、流山市長退職後にようやく自由な時間が出来た、眉山先生の「自分史」であり、市政については最終章で少しだけ触れていますがリーダーによる「率先垂範」の姿勢です。

あ!...そんな話しではなかった...私にとっての眉山先生の追憶でした^^;

眉山先生は幼馴染の父親でもあったのですが・・・
小学生の時、同級生の誕生会で、はじめて流山寺に向かう時に、貧乏だった私(家)は交換プレゼントを用意できなくて、庭に生っていたブドウを段ボールに詰め、自転車に積んで向かいました。
『記憶が定かでないのですが、プレゼントはわざわざ買って用意しないという取り決めだったかな?』

「こんなプレゼントじゃ、恥ずかしくて行けない!」
「恥ずかしくない!とにかく無断で欠席しちゃだめ!」

泣きながら訴える私を母がなだめて、しぶしぶ向かいました。

「あんだよこれ!?しかも種ありブドウかよぉ!」
案の定、同級生の中でも普段から歯に衣着せないS木の言葉...(苦笑)
「あら〜美味しいわぁ、このブドウ♪」
「おっ!この種は特別デカイぞ!境内に植えたらデッカク育つかなぁ?」
「そうだ!種飛ばしやって、誰が一番遠くに飛ばせるか競争してみろ!」

隅っこで小さくなっていた私をみかねて、先生と奥様が優しいフォローをしてくださいました。

そして、一同境内に出て、ワイワイ賑やかなブドウの種飛ばし大会に...(嬉しかったなぁ)
その時はまさか、このお父さんに教わることになるなんて思っていなかったのですが...

そして、1971年(昭和46年)流山南部中に入学したら、その年から校長は眉山俊光先生に。
詳細は伏せますが我が家の事情を心配してくださった眉山先生が、夜の家庭訪問をして頂いたのは一度や二度ではありませんでした。

その後、眉山先生と同じ大学に進学しましたが、家庭の事情で中退を余儀なくされ、眉山先生に相談に行きました。先生は帰りがけに、校長室の机上にあった"この水五訓"を私にくださいました。

水五訓

写真じゃ、字がよく読めませんね^^; 【水五訓】
一.自ら活動して他を働かしむるは水なり。

二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり。

三.障害にあい激しくその勢力を百倍にし得るは水なり。

四.自ら潔くして他の汚濁を洗い清濁併せ容るる量あるは水なり。

五.洋々として大洋を満たし発しては蒸気となり雨となり雪と変し
  霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となり
  而かもその性を失はざるは水なり。
まぁ結局、先生のアドバイスのおかげで、退学ではなく休学という形にして、半年後には家を出て大学に復学したのですが。以後は叔母たちにお世話になりながら、学費・生活費一切をセルフする学生時代を過ごしました。


眉山先生から頂いた「水五訓」その一は、まさに「率先垂範」
流山南部中時代、校長先生自ら便所掃除をするのだから、我々生徒も1年後に取り壊されるとわかっていながら、旧校舎の廊下や教室をピカピカに磨きあげていました。
剣道では最高位を範士と言いますが、私にとって恩師の先生はたくさんいらっしゃいますが、人生の範士であったのはずっと眉山先生でした。

2004年(平成16年)に【道程】を頂いた時、今年3月のご葬儀の後、そして今回サンプラザ中野くんの流山マイラブを拝見して、今一度【道程】を読み返してみました。

いまや企業経営や行政サービスも...
一.先ずはマーケティング。
二.しっかりしたソリューション。
三.信頼できるシステムインテグレーター。

みたいな、システムさえ構築してしまえば、万事うまく行くような気持ちになっている風潮になっていませんかね?まぁ、全面的な否定はしませんが、システム云々の前にヒトのやる気を動かせ。と...

あ!結局そんな話になっちゃった(笑)


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2011年11月02日

posted by たすけ at 23:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 昭和40年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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