昭和33年戊戌(つちのえいぬ)

昭和30年代の追憶


1958 昭和33年は、戊戌(つちのえいぬ)の年。
平成18年1月1日現在の推計人口によると
十二支別人口では、戌(いぬ)年生まれは最も少ない。「丑(うし)年生まれが1109万人で最も多い」

昭和34年_1歳
戌(いぬ)年
生まれは975万人(総人口1億2771万人に占める割合は7.6%)
男女別にみると、男性は473万人 / 女性は501万人

私が生まれた、1958(昭和33)年生まれは158万人で
総人口比1.2%。日本人1000人中12人は今年48歳になる。

12年後の戌年(戊戌つちのえいぬ)が巡るといよいよ還暦。
ここらで、自分の半生を振り返ってみようと思います。


2006年01月01日

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お産婆さん

昭和30年代の追憶


私は、1958(昭和33)年6月の朝方に生まれたらしい。

昭和33年_産湯

私を取り上げたお産婆さんの最初の一言が
「黒い子だねぇ」だそうだ。

同日の夕方に、私の生まれた家から400mしか離れていない。
家で取り上げられた同級生も、同じ産婆さんなのだが、この日産婆さんは私と同級生を交互に面倒を見てその同級生を取り上げて、また私の元に来たときに
「ほんとにシンクロ(真っ黒)だねぇ」
と言ったそうだ(^^;

たしかに後年、夏場になるとすぐに日焼けして東南アジア系の人と間違えられる事が一度や二度ではなかった(w

ところで、最近産婦人科医の不足が問題になっているが、出産は病気ではない。自宅で産みたいという妊婦さんも増えている。自宅出産のメリットは、くつろぎながら、リラックスして出産でき生まれてくる赤ちゃんの表情もとても穏やかだそうだ。

私の知人の奥さんが、助産師として初のお産を介助したとブログに書いてあった。ご自身も5人のお子さんを育てているし、さぞ妊婦さんにとって心強かったに違いない。

さて、私が生まれた昭和33年はどんな年?であったかははすぴーさんの「昭和33年はこんな年」に詳説されているので是非お読み下さい♪

タグ:昭和33年

2006年01月03日

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2世帯同居

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_流山町加01

私の両親は共に栃木県産だ。
私自身も、本来は宇都宮の産院で生まれる筈だったらしいのだが、父の友人夫婦が先に流山に引越し半ば強引に両親を呼び寄せたらしい。

その時、母はすでに妊娠八ヶ月目であり、不承不承でこの地に来た。私が2歳半になるまでは、2組の夫婦が同じ屋根の下で生活し、母はかなりのストレスを抱えながら私の子育てが始まった。

住まいは、何かの店が空き家になったところに簡単な間仕切りをして生活したらしいが、台所や風呂は共同であった。

昭和34年の家屋

いかにも、昭和の香りがする絵ですな^^;風呂は当然、薪(マキ)で沸かし、ガスコンロの代わりの七輪(しちりん)が見えます。

昭和34年の風景

薪(マキ)の上に座ってますが、さすがに山に切りには行っていませんよ(w
近所に「いちべえ商店」という雑貨&燃料屋さんがあってたいていそこから、薪や練炭などを買っていたようです。

タグ:昭和34年

2006年01月04日

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和風クレープ

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_流山町加02

同居したおばちゃんは、家計の足しに子供たち相手におやつ代わりのお好み焼きを売っていた。

今のお好み焼きは、キャベツ、豚肉、卵、ベーコンなど具がたっぷりだが、そのお好み焼きはほとんど生地だけで、具は真ん中へんにほんのちょっぴりだけだった。

今の人に説明しようとすれば、平べったい丸いエビセンのクレープ状...と想像してもらえればいいかな?
大きさはコーヒーソーサーくらいで、具は紅ショウガとサキイカが真ん中にちょびっとあるだけで、ほとんど小麦粉の生地にソースをつけて食べているようなようなものだ。


折り紙くらいの大きさの紙に乗せて、大人なら3〜5口で食べ終わってしまうだろう。もっとも小さい頃、お祭りで食べたお好み焼きも、だいたいそんな感じで、具を足したとしても、天カスや桜エビくらいだったと思う。
いったい、いつ頃から今のような具たっぷりのお好み焼きに変わったのだろうかなぁ・・


生家の前で近所のお兄さん&お姉さんたちと記念写真

昭和の風景_加台

戦後14年経っているが、この頃の地方の子供たちはだいたいこんな服装だろう。他の写真を見ても、野球のキャップをかぶっている子供はいなく、普段から学帽をかぶって遊んでいた。

生家の横から撮った写真

昭和の風景_乳母車

後ろに見える木々の向こうは、斜面になっていたおり、下った先は田んぼが広がっていたが、今は東急ドエルというマンションを中心とした住宅地と流山北小学校になっている。

タグ:昭和の風景

2006年01月05日

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50年前の流山市加台

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_03

私が生まれた場所は、千葉県東葛飾郡流山町加....今の流山市加1丁目だ。
宇都宮から出てきた父親は、ここから徒歩5分ほどの距離にある流山駅から東京の金町にある自転車工場に勤務していた。

現在の加1丁目から市役所方面の坂を望む絵

流山市加の風景01

もともと、役場に近いメイン通りなので道幅はそれほど変わっていない。約50年前の写真と比較しても家並みの変化はあるが、風景の構図は変わっていない。

市役所への下り坂がはじまる左手に「いちべえ商店」があり今でも店舗は残っている。
乳母車にタンデム..(wしてるのは、ひとつ年上の床屋のヒ○シちゃんだ。いつも柔和な笑顔を湛えていて、その後私が引っ越した後も加台に行った時には一緒に遊んでくれた。

現在の加1丁目から後平井方面を望む絵

流山市加の風景02

50年前の道路は当然のごとく未舗装だ。
ヒ○シちゃんの床屋は、左手の青い看板の辺りにあってその向かい(右側の車の辺り)に同級生の家で○○商店があった。
西平井(後に平和台)に越してから、加台に遊びに行った時は5円玉を握りしてめて、この店にホームランアイスを買いにいったものだ。

今は、画面奥のセブイレブンの先に加1丁目の交差点があるが、これはだいぶ後年になってから出来たもので当時はセブイレブンの脇の坂道が、西平井から加台に上がってくる道だった。

タグ:流山の風景

2006年01月06日

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おねえちゃん

昭和30年代の追憶


1959_昭和35年_06 おねえちゃん

私のブログを読んだ知人から「よくそんな昔の事を覚えているな〜」と言われた...勿論、私自身1〜2歳の頃などほとんど記憶にない。

流山市加02

この写真は昭和35年の正月を迎えた時の風景だそうだが、ここに写っている、お兄さんやお姉さんたちの名前を覚えている人は1人だけで、それは後年、たまたま私がバイトした珈琲専門店の常連客だったからだ。
西平井に引っ越した後に、幼い私が加台へ一刻も早く駆け上がりたかったのは、この私を抱いてくれているおねえちゃんがいたからだ。

加台のお姉ちゃん

本名を覚えていない。ただ「おねえちゃん」としてしか記憶になく、写真を見ても顔を思い出せない。ただおぼろげであっても、ほのかな優しい感覚が脳裏に刻まれている。年齢もこの当時で20歳前後だと思う。母が私を産んだのは23歳の時だったので、ほとんど母と変わらない年齢だろうから、もう70歳に近いおばあちゃんになっていることだろう。

だがいつまで経っても私にとって「おねえちゃん」という言葉で思い浮かぶのはこの加台のお姉ちゃんだ。

加台への足が遠のいたその後、小学生の高学年の頃だったか、一度だけこの「おねえちゃん」に会いに行ったことがある。留守だったのか、すでに嫁いで居なかったのかは忘れたが会えないまま、トボトボと段々畑の中の道を帰途した情景は覚えている。

タグ:昭和35年

2006年01月07日

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マッチ箱のような家とひろっぱ

昭和30年代の追憶


私が育った、マッチ箱のような小さな市営住宅。4畳半+6畳+2畳の台所...風呂なし
というか、風呂場はたいていトタン板で囲うようなにわか造りで各世帯で各々に付け足したものであった。今、私も愛読していた西岸良平さんの「三丁目の夕日」が映画化され上映されているが、まさにあの頃の昭和30年代の風情が漂う住まいであった。

宮本団地

全部で60戸くらいだったであろうか..
同じようなマッチ箱のような家が整然と立ち並んだ市営住宅であった。私は昭和35年の2歳からここで暮らし始めて、やがて弟2人も生まれ、家族5人で暮らしていたのである。

ひろっぱ...広場のことである。

物心ついてから私の遊び場と言えば、家と地続きの市営住宅の子供たちが集まる、広場であった。
当初遊具はなにもなくただの空き地であったがやがてブランコや滑り台・砂場など一通りの遊具は揃っていった。

広場を「ひろっぱ」というのはふなっこ・どじょっこ等と同じようなニュアンスで小さくて愛着があるような呼び名である。
そのひろっぱ、周囲をぐるりとマッチ箱の家に囲まれ1ヶ所だけが車1台通れるくらいの入り口であったので囲んでいる家に住んでいる子供たちはみな、垣根を壊したひろっぱへの小さな出入り口を持っていた。

わずか、タテ20mヨコ7mほどの小さな空間であったが、そのひろっぱで1年中、夕食の匂いが漂いはじめるまで遊んだものである。

2006年01月08日

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夕日の歌と段々畑

昭和30年代の追憶


1959_昭和34年_04 夕日の歌

ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲 みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む

歌が風景を思い出させる...ということはないだろうか?

私はこの歌を聞くと加台から西平井かけての、ゆるやかな段々畑の風景を思い出す。幼い頃買ってもらった童謡の絵本でこの歌の背景となっていた絵がそっくりだったのだ。

段々畑の段差には土留め替わりに、通称:竜の髭(正称:ジャノヒゲ)が植えられ、畑と畑の間にはお茶の木が植えられていた。


セブンイレブンの脇の坂道の絵

流山市加04

西平井から加台に向かう時はこの坂を通っていた。坂の両脇には湧水が染み出ていて毒々しい真っ赤な実の蛇苺が生育していた。

だが...
幼い私は一刻も早く加台に行きたくて、この坂道を上らずに絵の下に見える階段あたりにあった、ヒト1人が通れるくらいの急勾配の小道を駆け上がり、先述した段々畑の広がる風景に出るのであった。

幼い頃、目線に近かった竜のヒゲの青い実や、お茶の白い花がだんだん目線から遠くなるに従い、この坂と小道を駆け上がることはなくなっていった。

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参照:岡山理科大学 生物地球システム学科
   植物生態研究室(波田研)のホームページ


タグ:童謡

2006年01月11日

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ひろっぱの思い出/ゴロ野球

昭和30年代の追憶


当時は、子供の数も少なかったので小1〜小6までが一緒になって遊んだ。

体格・体力の違う子供が一緒に遊ぶのであるから、からかい半分の多少のいじめのようなことはあったが、いじめられて泣いて帰っても、翌日にはみな何事もなかったかのように、けろっと忘れてまた一緒に遊んだものである。

子供心に、強者は弱者を守るという不文律と、年下は年上の言う事には従うという倫理感を無意識のうちに、遊びの中で養ってきたような気がする。

狭い空間と体格・体力のハンデを考え、もっとも流行したのが三角ベースの「変則ごろ野球」である。ひろっぱの1部が防火用水になっており、そのコンクリートの蓋が格好の内野であった。

低学年にはピッチャーは柔かいビニールボールを転がし、バッターは腰を落として、転がってくるボールを打つ。高学年は立って普通に打つのだが、なにせせまい空間である。向かいの家の庭にボールが入ればすぐにホームランである。

たいてい近所の大人たちは、子供の遊びには大目に見てくれたがひろっぱを囲む1軒の家だけはなかなか口うるさく、そこにボールが入ったらたちまちアウトチェンジで、打ったバッターが「すいませ〜ん」とボールをとりに行くがルールであった。

バットは、垣根の竹や廃材の角材であったが、コンクリートの上で年中こすりつけるのですぐダメになった。竹も先がささくれて、とても危険な状態になったがある時、上級生が振り回してたそのささくれ竹バットが私のすぐ下弟の目に直接あたり、弟の片目からはは鮮血が吹き出した。

すぐに病院に運び手当てを受けたが、幸いも失明は免れ、眼帯がとれたあとも皆、何事もなかったかのように仲良く遊んだ。

しかし、確かな記憶ではないが、いつの間にか「変則ごろ野球」をしなくなったのは...
ひょっとしたら私たち家族が病院に行っている間、みなで相談して「もうゴロ野球は止めような」と決めたのかも知れない....

タグ:三角ベース

2006年01月12日

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ALWAYS 続・三丁目の夕日

昭和30年代の追憶


always420.gif

ゴルフ師匠のケンさんもおすすめのALWAYS 続・三丁目の夕日を観てきました。
前作は家族が船橋ららぽーとで買い物中に一人で、今回は家内と二人で。今昭和ノスタルジックブームだけど、この拙ブログもサブタイトルを昭和の追憶や、懐かしい情景...としています。

最近はポタ記事ばかりでしたが、今後トップのフラッシュで不定期ながら、ポタ画像と昭和ノスタルジー画像で交互に対応していこうと思います。

always300.gif

さて、人気の映画だけに感想ブログはたくさん出ていると思うので...
ALWAYS三丁目の夕日は、ディテールにこだわったということで
私は、淳之介役を演じた須賀健太くんのズボンに注目。

そうそう、私たちが子供の頃にはいていた安物のズボンにはチャック
(ファスナー)はなかった。今ならデニムというのだろうけど、当時
はメリヤスといっていたような...。

ちょっと厚手のメリヤス生地に、チャックの代わりにボタン(ドーナッツボタン)腰のゴムはすぐに伸びてしまうし、ズボンの折り目なんかなく、膝も伸びきったヨレヨレの"つぎあて"だらけのズボンで遊びまわっていたっけ。

tobichiyama250.jpg昭和37年:とびっち山にて

続・三丁目の夕日の中で、星野六子(掘北真希)にスズキオートのお母さん鈴木トモエ(薬師丸ひろ子)がワンピースをミシンで手作りしてあげたけど

そうそう、昔は町内に1軒や2軒は洋裁・和裁の得意なお母さんがいたっけ
どこの家にも足踏みミシンがあって、ゴトゴト・カシャカシャ・ゴトゴトミシンの音はお母さんの音だった。そしてミシンの小さな引出しが、ちょっとしたお金や鍵を入れておく、お母さんの秘密の引き出しだったなぁ・・・

そういえばもう何年もミシンの音を聞いていないという方、左端をクリックして下さい^^;
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2007年11月27日

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