新宿ゴールデン街と世代伝承

■大江戸チャンネル


新宿ゴールデン街入口

新宿ゴールデン街と言えば...
焼け跡世代では青春の門に青線。
団塊の世代では全共闘の溜まり場。
そして、しらけ世代の私にとってゴールデン街は、なんとなくおどろおどろしいイメージがあったが、今回友人が個展を開いたのをきっかけに飲みに行って随分印象が変わった。
新宿ゴールデン街HPを見ても、このノスタルジックを生かしつつ、新宿ゴールデン街を新たな文化の発信地として存続させて行きたいという心意気が伝わってくる。
※但しゴールデン街HPの最新更新が2005年9月なので店舗検索はあまり参考にはならないけど。

新宿遊歩道公園「四季の道」

靖国通りから新宿ゴールデン街に行くには、都電線路跡の新宿遊歩道公園「四季の道」を行くのだが、いつしかゴールデン街そのものが、新宿文化センター?となるかもしれないなー。
お目当ての店はまだシャッターが閉まっていたので、ひとしきりゴールデン街と花園神社周辺を散策した。そんな中でバブル世代が酒と性を覚えた頃「この街がもっとも危機だった時代のかもしない」と、長らくシャッターを開けた形跡のない、いくつかの店の前で感じていた。

新宿ゴールデン街とは?

一口にゴールデン街と言っても、ゴールデン街G1通りとか、花園一番街とか、に分かれて管轄する商工会も分かれている。ほとんどが私道なので写真撮影は地区ごとの商工会に許可を得なければならないが、観光客(商業撮影以外)の問合せにはとても親切丁寧に対応してくれる。

花園一番街

この日は梅雨のけだるい夕刻で、まだ開店前の店も多く人通りもほとんどなかったが、街並みは戦後のノスタルジー溢れる雰囲気なのだが、「あれ?ここは下北沢か?」と思うほどのアーティステックな若者が店の準備をしている様子が印象に残る。
30分ほど散策をしながら数枚の写メを撮りお目当ての店の前に戻ってきた。

ゴールデン街G2通り
※「COLORS」は、串揚げ屋「どんがらがっしゃん」の2階で、奥に見えるのが花園神社

2階の入口に通じるシャッターが開いていたので、看板を出す前だったが入店させてもらったが、果たして迎え入れてくれたのは、見るからに草食系のゆとり世代の青年。
「先に絵を見ているから」と店内ロフト部分(おそらくはかつて青線のちょんの間であろう)のギャラリーに上がらせてもらった。ギャラリーは勿論撮影禁止なので、その様子は作者の頁を参照のほど。

白を貴重とした店内もギャラリーも、およそ新宿ゴールデン街に居るとは思えない雰囲気だ。だが、タトゥーを入れた若いママ(おそらく氷河期世代=失われた世代)の手腕を見た時に、新宿ゴールデン街のアーティスティック&エロチシズム文化を、失われた世代が脈々と伝承していることを感じた。


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2010年07月07日

posted by たすけ at 23:57 | Comment(4) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アレ、東京スカイツリー八景

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最近、自転車仲間の隠語で「アレを見に行った」のアレとは、東京スカイツリーです。
東京散歩しながら携帯カメラで「アレを撮った八景」で記事にしちゃいました。

アレを接写

現在、全高643m(ムサシ)中の、約350m(第一展望台)のちょい上まで出来上がっています。
でもこういう建物は、あまり接近して見るより、ちょっと離れたくらいのほうが比較対象があって絵になりますね。

TOKYO SKY TREE のオフィシャルHPはこちらで、東京スカイツリーのきれいな画像やウンチクを見ることができますが。でもそれよりほぼ日刊イトイ新聞 - 東京スカイツリー うんちく50の方が読んで面白いです。
TOKYO SKY TREE公式HPとほぼ日刊イトイ新聞のコラボ企画で"東京スカイツリーここから見えるよMAP"があって、今ところ最遠方が栃木県宇都宮市の山の上からの画像ですから、それより遠くから見えて方がいらしたら是非、画像投稿してみたら如何ですか?

...と、いうわけで。私的「ここから見たよアレ、東京スカイツリー八景」と題して今回は画像ばかりのやたら縦長の記事です。(笑)

牛島神社とスカイツリー2

牛島神社から見た東京スカイツリー
この4枚は取り立てて面白くない画像ですが、自転車仲間のまっちさんは手乗りスカイツリーなんて撮り方していて面白かったです。...って思ってリンクしたら...
アレ?あれ??..."アレ"を手乗りにした画像が削除されていました。
しまったぁ〜!自分でも撮っておけば良かった(苦笑)

隅田川とスカイツリー.jpg

隅田川から見た東京スカイツリー
浅草の吾妻橋から写メしている人はすごく多いですよね。でも吾妻橋から隅田川テラスに降りて各橋ごしに見えるスカイツリーを撮るなんてのもいいかもです。
二番目=首都高6号(向島線)
三番目黄色の橋=蔵前橋
最下段の青い橋=清洲橋

下町風景とスカイツリー

向島1丁目(下町)から見た東京スカイツリー
私的に一番気に入っている画像がこれかな?
all ways 三丁目の夕日の映画では、建設途中の東京タワーの映像が印象的でしたが、そういう意味では下町風景と建設途中のスカイツリー画像は、後々貴重な画像になるかもしれませんね。


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2010年07月13日

posted by たすけ at 23:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

佃島,石川島,月島,向島は、ややこしい

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問い.佃島,石川島,月島,向島、この中で仲間はずれは?
答え.佃島,石川島,月島=中央区、向島=墨田区...ですが


問い.佃島,石川島,月島、この中で仲間はずれは?
答え.佃島,石川島=江戸以前から自然形成した島(干潟・砂州) 月島=明治以後の人工島(埋立地)
という答えになりますが...

築地,鉄砲州,月島,佃
ややこしいのは、江戸時代の中央区湊辺りは鉄砲州と呼ばれる隅田川西岸の砂州であり、鉄砲州から見た佃島と石川島を通称"向島"と呼ぶ場合があり、昔は埋立地=築地・築島と呼んでいたので、さらにややこしくなります(苦笑)

冨嶽三十六景 武陽佃島
これは、葛飾北斎が描いた富嶽三十六景の武陽佃島ですが、手前に見える大きな島が佃島で、一段低い小さな島が石川島です。
両島とも、隅田川が運んだ土砂が堆積して出来た砂州(干潟)の島ですが、明治以降に隅田川の浚渫によって生じた大量の土砂で埋立造成(築地・築島)を行った結果、月島や佃新島などが生まれました。現在は佃島と石川島でほぼ佃1丁目を形成し、月島の埋立て後に完成した埋立て地(佃新島)が佃2〜3丁目です。

佃島渡船場跡図説
いまでこそ佃大橋や相生橋で、簡単に佃や月島に行けますが、勝鬨橋や相生橋が出来たのは明治の後半、そして佃大橋が出来たのはなんと昭和39年、私が小学生になるまで、まだ渡船が存在していたのですから驚きです。

佃大橋
現在の佃大橋(つくだおおはし)
江戸の面影どころか昭和の面影もありませんねー

佃小橋
大橋があるなら、佃小橋(つくだこはし)もあります。
このつくだこはし付近(佃1丁目南側)は、江戸の面影がまだ残っています。

大幟柱の堀
つくだこはしからこんな看板が見えます。
よく神社のお祭りの際に縦長の大きな旗が立てられますが、それを大幟(おおのぼり)と言います。佃島は漁業で栄えた町なので、大幟の柱を、直接海(堀)に立てるのだそうです。
堀の向こうに見える高層マンション群「大川端リバーシティ21」は、佃1〜2丁目の北側(旧石川島)でこちらは江戸時代の昔から公有地(人足寄場〜石川島播磨造船所)がほとんどだったので、大規模開発が進んだのですねー。

佃住吉神社周辺案内図
こちらが周辺の案内図
下の画像が住吉神社ですが、佃島と住吉神社の縁起は下記のように伝えられています。

佃住吉神社
天正年間に徳川家康が、漁船で大阪の田蓑神社参拝し、田蓑村の名称を佃と改めさせた。つまり佃=人+田で漁業の傍ら田をも作れという意。家康が江戸幕府を開く際に、佃村の漁夫30数名が従い、田蓑神社の神主も住吉大神の分神霊と共に同行した。寛永年間に隅田川三角洲(=佃島)を幕府より賜り築島工事を起こし、正保2年(1645)の完成後本国の村名を取って佃島とし、住吉神社の分霊を勧請して佃住吉神社が創建された。
港区の浜松町は名主が家康と同郷の遠州浜松出身であることに由来することはつとに有名ですが、佃島もルーツは大阪だったんですね。

さて佃住吉神社には、面白い史跡がいつかありましたが...
わずか10カ月間に150点あまりの大量の浮世絵を残し、忽然と消えてしまった謎の浮世絵師東洲斎写楽の正体が、「能役者の斎藤十郎兵衛」という説しか知りませんでしたが、東洲斎写楽は、佃島の住人「下駄屋の甚兵衛」という説があったのを、今回の大江戸散歩で初めて知りました。


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2010年07月14日

posted by たすけ at 23:47 | Comment(6) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

八丁堀の話

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八丁堀は東京駅から京葉線で1駅目の場所です。
東京駅前の八重洲中央口から約1kmです。
近い場所なので、散歩がてらに歩いて行ける場所です。

八丁堀[Hachoubori]
is the station next to Tokyo station at Keiyo-line.
Its location is about 1km from Yaesu central exit.
Therefore I'll recommend you, to walking.

八丁堀[Hachoubori]京叶线站。
从东京站前的八重洲中央口是约1km。
因为是近的地方,是散步顺便走充分地能行的地方。

홧초보리.
게이요선에서도쿄역의 다음역입니다.
그 위치는 야에스중앙입으로부터 약1km입니다.
그 때문에, 나는 당신에게 보행하게 추천합니다.

ちょっと試験的に冒頭部分だけ4ヶ国語で書いてあります。
スムーズに訳されているのだろうか?f(^、^;)

八丁掘,鉄砲州,石川島

さて八丁堀とは、江戸城への物資搬入や防衛のために掘削された堀です。「町」は長さの単位で略字が「丁」なので「八町掘」と表記される場合もあります。1町が109mですので八丁堀の長さは約873mくらいであったのでしょう。

時代劇でよく「八丁堀の旦那」という表現がされますが、八丁堀組屋敷には「与力」や「同心」など、今でいう刑事・警察官などが住んでいました。そして、八丁堀に隣接する鉄砲州の地名の由来は細長い鉄砲の形をした中州であったorここで射撃演習をしていたと伝えられていますが、その対岸の石川島に人足寄場(浮浪者・軽犯罪者の収容施設であり職業訓練所でもあった)があったというのは、絶妙な配置であったと思います。

人足とは土木工事・荷役などの力仕事をする労働者でもあり、物資の搬入や埋立て工事などに駆り出され、その中で「同心」が私的に雇っている「岡引」から、僅かな銭をもらって裏情報などを漏らしている人足も居ただろうなぁ...なんて思うと、なおさら絶妙な位置関係だったと思うのは妄想のしすぎでしょうか?(笑)

亀島川と鉄砲州通り
八丁堀につながっていた亀島川と鉄砲州通り。
奥に見えるのが旧石川島(佃)のリバーシティ21の高層マンション群

八丁堀跡図説
八丁堀は明治以降に桜川と改称され、その桜川も昭和後半までには埋立てられて、旧八丁堀の西側は桜川公園となっています。

桜川公園屋上部
亀島川に近い、旧八丁掘の東側はほとんどビルになっていますが、一部の屋上は桜川公園の屋上公園として緑化されています。

中央大橋と石川島
佃大橋(鉄砲州側)から見た、リバーシティ21の高層マンション群、奥に見える橋が中央大橋

越中島公園と永代橋
相生橋(石川島側)から見た、隅田川と越中島公園、奥に見える橋が永代橋。


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タグ:八丁堀 江戸

2010年07月17日

posted by たすけ at 23:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京タワーの夜景

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え〜拙ブログの画像は携帯画像なので、東京タワーからのきれいな夜景は、東京タワーオフィシャルサイトの展望台からの風景をクリックして、東西南北の夜景を見てください^^;

東京プリンスホテル

12/1は、今年最初の忘年会 in東京プリンスホテルでした。
この日の忘年会(某NPO団体)に集まったメンバー25名の平均年齢が70歳以上、私にとっては親の世代の先輩達ばかりで52歳の私が最年少です^^;
東京タワーは昭和33年完成、つまり私と同い年になります。この日東京スカイツリーが500mを超えて511mになったと盛んにニュースが報じていましたが、同じ年だからという訳ではありませんが、塔の立ち姿はやはり東京スカイツリーより東京タワーの方が好きだなぁ。

東京タワーの夜景

確か小学校5年生の時の夏休み工作で、割り箸やマッチ棒・楊枝を繋ぎ合わせて東京タワーを作った記憶があります。これは別の日に撮った東京タワーの夜景なのですが、12/1当日は展望台にハートマークを浮かびあがらせていました。東京タワー直下もXmasイルミネーションが飾られていて、若いカップルが大勢いましたねー。...おっと、思わず若いアベックと打ってしまうところだった(爆)

東京タワー 直下

東京タワーの下に行き、塔の直下から眺めると、その四角錐型の美しさに惚れ惚れしますねー。東京スカイツリーは真下に行ってしまうと、おそらく展望台から上は見えないでしょうね。

東京タワーと有章院霊廟二天門と芝大門

この日は、地下鉄御成門駅で降りて忘年会会場にすぐ向かいましたが、帰りは酔い覚ましに愛宕山の坂を登って東京タワーの真下まで行き、再び増上寺境内に戻り、芝大門から浜松町駅までプチ夜散歩して帰りました。
今まで気づかなかったけど、有章院霊廟二天門(徳川7代将軍家継の霊廟跡)ってライトアップされているんですね。わずか4歳で将軍に就き6歳で亡くなった家継ですので、歴史上では名前だけ知られている徳川将軍ですが、ちょうど二天門と重なった東京タワーが家継の霊を慰める蝋燭のようにも見えた私でした。

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2010年12月03日

posted by たすけ at 01:49 | Comment(2) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京スイカイツリーの年賀状

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昨年末のTVニュースで、東京スカイツリーを撮影している人にマイクを向けたら、来年の年賀状用に東京スカイツリーの写真を撮っているとか。

1/5に初詣を終え、娘が午後から新宿に用あるというので、越谷からそのまま車で都内に行きました。新御徒町駅の給食当番でのランチで娘と別れた後、家内と
「これからどうする?浅草か築地でも行ってみる?」
「お参りは必要ないし、お腹いっぱいだし、食材これ以上いらないし」
「あぁ〜じゃ、浅草橋の婦人服問屋街でも行って初売り見ている?」


ということで浅草橋の婦人服問屋街を車から眺めていた家内・・・
「なにここ?まるで巣鴨じゃない!ここで買う服はないわよ!」

ということで行き先を失った私は(苦笑)
とりあえずあても無く、台東〜中央〜墨田あたりを流して(タクシーかよ!w)

「おっ!スカイツリーだ!降りて見てみる?」「いい、車に乗ってる」
ということで、私ひとりが車を降りて東京スカイツリーを撮影・・・

2011年1月5日の東京スイカイツリー

ちょっと歩くと墨田区立大横川親水公園がありました。この船の形をしているのは公園管理事務所だそうです。なかなか凝っていますよねー。らせん階段の先はすべり台になっていて、子供たちがキャッキャッしながら遊んでしました。

墨田区立大横川親水公園と東京スイカイツリー

当然、そういう子供にシャッターを切っている親御さんもたくさんいて....居ました!居ました!
TVニュースで見たように地面に寝転がって、船と子供とスカイツリー全景を撮ろうとしているオトーサンが(笑)
たぶん、同じような苦労しながら、2011年の年賀状用に撮った親御さんも多かったんでしょねー。
私も同じようなアングルで撮ろうとしましたが、やはり寝転がらないと、無理ですね・・・

大横川親水公園からの東京スイカイツリー全景

これは地面ぎりぎりに携帯を構えてモニター(ファインダー)を見ずに勘で何枚か撮ったうちの1枚で
「見て!見て!この写真いいっしょ?結構苦労したんだよー」
「いつまで帰ってこないのよ!」


...と私の言葉が言い終わる as soon as お叱りをうけましたわさ(−−;)


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2011年01月06日

posted by たすけ at 22:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

The 47 Ronin 素行が悪い?

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「本懐!サイクリング〜赤穂浪士引き揚げルートを走る」のレポより【外国人から見た忠臣蔵

映画忠臣蔵・赤穂浪士ほど日本映画で続編が製作された題材はないでしょう。庶民の娯楽にテレビが台頭するまで、フーテンの寅さんシリーズや釣りバカ日誌シリーズのように毎年のように忠臣蔵関連の映画が製作され、それも日活,松竹,大映,東映,東宝etc各社が製作したのですからまさに鉄板の題材です。

NHKの大河ドラマ 忠臣蔵

もちろん、テレビ番組でも数年置きに新作が作られ、NHKの大河ドラマでは浪士の討入りの回視聴率53.0%の最高視聴率記録は未だに破られていないそうです。これだけ何度も映画やTVで放映されていれば、AKB48のメンバーの名前は誰一人言えなくても(笑) 瀬尾孫左衛門を含めた赤穂浪士48名の名前をすべてスラスラ言える年配の方は結構いるんじゃないでしょうかね?

実は集合場所の両国国技館前から吉良邸に行く前に、スポーツサイクルいちかわに立ち寄ったのですが、私ひとり、一足先に店内を出たら、ちょうど吉良邸の方角から外国人のポタリンググループ(7〜8人でロード・クロス・小径車の混合隊)が私の目の前を通り過ぎていきました。

その外国人ポタグループが吉良邸に立ち寄ってきたかどうかはわかりませんが、ふと外国人に忠臣蔵(赤穂浪士)を説明しようとしたら、どういう説明をしたら良いのだろう?という思いが巡りまして...このシリーズはやたらに拙い英単語が出てきますがご了承ください^^;

断腸亭希典ご家老と松尾芭蕉

今回ご案内頂いた断腸亭希典ご家老がご専門の分野なのにお恥ずかしい限りです^^;




さて、本懐!サイクリング〜赤穂浪士引き揚げルートを走るとは、この動画のように赤穂浪士が本所松坂の吉良邸(現.墨田区両国3丁目)に討ち入り、吉良邸から吉良上野介の首を槍に掲げて行進・到着した、主君浅野内匠頭の眠る泉岳寺(現.港区高輪2丁目)までを自転車で辿るという企画です。



タイトルのThe 47 Roninとは、つまり赤穂浪士四十七士のことで。
2012年公開予定でキアヌ・リーヴス主演のハリウッド版忠臣蔵が3D映画として製作されることが決定し、この動画(忠臣蔵 花の巻・雪の巻1962年東宝作品)をyoutubeにアップしたのもデンバー在住のアメリカ人です。この他にも47 Ronin とか Chushingura で動画を検索するとかなりの数の外国人がアップした動画がヒットします。

...で。外国人から見た忠臣蔵はどうなの?

The story of the 47 Ronin is one of the most celebrated in the history of the samurai.
This was perhaps all the more so because it occurred at a time when the samurai class was struggling to maintain a sense of itself - warriors with no war, a social class without a function.
The tale could be said to have begun with the teachings of Yamaga Soko (1622-1685), an influential theorist who wrote a number of important works on the warrior spirit and what it meant to be samurai. His writings inspired a certain Oishi Kuranosuke Yoshio, a samurai and retainer of Asano Takumi no kami Naganori (1667-1701), who led a branch of the powerful Asano family.

このキャプションを要約すれば...
天下泰平の世となった江戸時代、戦乱での活躍の機会もなく、存在理由を失った武士にとって、武士本来のあるべき姿とは何であるか?その答えを導いたのは赤穂藩に仕え「武士の本論」として武士道を説いた山鹿素行であり、素行の教えは浅野内匠頭や大石内蔵助に多大な影響を及ぼしている。....となります。
武士道について詳細は次回の記事としますが、外国人から見れば明治維新後も日本軍人が切腹や介錯を実行しているのは山鹿素行の武士道論が大きく影響があった思われているのでしょうかね?確かに太平洋戦争後も進駐軍は仇討ち文化を恐れて、忠臣蔵映画の製作や放映を禁じていました。

直近の忠臣蔵関連映画「最後の忠臣蔵」はワーナー・ブラザースの日本支社が製作したものですが、いつも辛口な映画通nebanebaさんの評価は◎でした。

私達日本人は「武士=warrior」と「侍=samurai」の微妙な違いを区別しています。
【侍=伺候謹んで主人の近く仕える】【侍(はべ)る=身分の高い人のそばに付き従っている】
「七人の侍」はwarriorとしての映画で、主役の三船敏郎(菊千代)は侍samuraiではありません。
黒澤映画七人の侍が、荒野の七人としてリメイクされたのは、あまりにも有名ですが、The 47 Ronin でのキアヌ・リーヴスの役は、四十七士の中に混血の侍ヒロが居た...という設定だそうです

「最後の忠臣蔵」では主亡き後も【侍】という核心をクローズアップしてくれたからこそ、日本人の琴線に響いたと思うのですが...はてさて、ユニバーサル・ピクチャーズが製作する「47 Ronin」はいったいどこを核心に持ってくるのでしょうか?

よもや山鹿素行はジハード(聖戦)を提唱した...なんてシナリオになっていないことを祈ります。

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...え?ワタシ??ワタシは絶対、侍には成れません。
だって常に上司の言うことを素直に聞かない素行の悪い部下でしたから(笑)

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タグ:47 Ronin 映画

2011年02月05日

posted by たすけ at 19:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武士道とは死ぬ事と見つけたり The Soul of Japan

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「本懐!サイクリング〜赤穂浪士引き揚げルートを走る」のレポより【武士道とは

「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」とは「戦いに命を賭せ」ではなく「万事、死に物狂いで事にあたれ」という意味でしょう。武士道というテーマを拙ブログごときで軽々しく書けないことは痛感していますので、まぁ参考程度にということで^^;

新渡戸稲造著の『Bushido』では「日本人は倫理を重んじ、国民は社会全体への義務を負うように教育されている。」もっとひらたく言えば「他人様から後ろ指を指されないように教育されている」と書いており。桜の花が日本の武士道を象徴するとすれば、西欧の騎士道ないし哲学を象徴するものは薔薇であるー中略ー薔薇は枯れてもなお散らずに残りつづけようとする生への執着があるが、日本人は潔く散りゆく桜の花びらに美を見い出す。というような『The Soul of Japan』を全体の構成としています。

武士道について近世〜近代の間に著された系譜を簡単に整理すると
高坂弾正(1527〜1578年)...『甲陽軍鑑』甲斐武田氏の戦略戦術記で軍規刑法など
山鹿素行(1622〜1685年)...『職分論』 武士は自ら倫理(仁義,忠孝)を担うもの
山本常朝(1659〜1719年)...『葉隠』  武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり
山岡鉄舟(1836〜1888年)...『武士道』 武士道とは神儒仏三道融和の道念である
新渡戸稲造(1862〜1933年).『Bushido: The Soul of Japan』



この動画は、東京時代祭り,行列時代絵巻での赤穂浪士行列ですがコメントを寄せているのがほとんど外国人です。
『Bushido: The Soul of Japan』は日本文化を知るためのバイブル本ですが、日本通の外国人なら読んだことはあると思うのですが、一般の外国人にとって[Ninjaa],[Samurai],[Ronin]を区別できるのでしょうかね?

浅野内匠頭邸跡

こちらは、殿中松の廊下で吉良上野介を斬りつけ、将軍綱吉の命により、即日切腹して果てた、浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)5万石の屋敷跡。

浅野内匠頭邸跡案内板

地下鉄日比谷線築地駅3番出口からすぐで、築地川公園はしょっちゅう立ち寄っていたのに、今まで全然気がつきませんでした。まぁ広大な屋敷跡が、たったこれだけの石碑と案内版だけですからね。
浅野家の屋敷は、当時は約9千坪あったそうですが「松の廊下」後3日目には引渡しが申し渡され、家臣は畳の数から障子の数まで詳細に記した帳簿をすばやく作って引き継ぎ立ち退いたそうで、まさに立つ鳥跡を濁さずですね。

ところで浅野長矩の辞世の句とされるのが...
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
ホントに長矩がこんな無念たっぷりな歌を残したかどうかは疑問ですが、こんな遺言を主君に残されてしまったら、そりゃ家臣は仇討ちせずにはいられませんよね。

主君の遺恨を果たした大石内蔵助の辞世の句が...
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
とされていますが、いや〜これは長矩の辞世への返歌でしょう。浄瑠璃,歌舞伎の仇討ち物語なら、この歌で締めくくったほうがわかりやすいですものね。

内蔵助の本意は長矩の弟(浅野大学長広)を以て、赤穂浅野家の再興を計ることだったのですが、浅野家再興は絶望的なった段階で、仇討ち推進派の堀部安兵衛らと共に武士の本懐を決心します。
ところが、仇討ちから5年後。浅野長広は将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、安房国(千葉県南部)にわずか500石ですが小さな所領を賜って、旗本として御家再興を果たしています。
まぁ〜5万石から5百石ですから1/100ですね。松の廊下から討入りまでは約2年弱。もしこの間にこの改易が実現していたら?
1/100じゃ堀部安兵衛たちは納得しないでしょうが、まさか赤穂藩浪士として討入りはできないでしょうから、[Ronin]でも[Samurai]でもなく[Ninjaa]が吉良上野介を襲ったかも?

大石内蔵助の本当の辞世の句は...
極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
これが江戸元禄時代の主君に忠義をつくした侍精神[The Soul of Samurai]でしょうね。

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ちょ、ちょっと待ってください! はいはい、なんでしょ?キアヌ君...と池上さん(笑)

「理由はわかりませんが、抜刀NGの殿中で斬りつけたのはアサノですよね?」
「キラが、アサノを殺したなら、オオイシがキラの首を取るのは納得できますが」
「アサノは、将軍の命令で切腹したのですから、キラを恨むのを納得できません」

い〜〜〜い、質問ですねぇ。ではその答えは次回の記事としましょう。

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2011年02月06日

posted by たすけ at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高家はつらいよ 嫌われ義央(よしひさ・よしなか)物語

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「本懐!サイクリング〜赤穂浪士引き揚げルートを走る」のレポより【高家とは

吉良上野介は饗応役(きょうおうやく=朝廷ご接待)指南役として、外様大名にご接待マナーを教えると同時に外様大名から接待費用を捻出させる役。加えて、外様大名から指南料金(コンサルタント料ですね^^;)をもらえる立場にあった人物です。
浅野長矩(浅野内匠頭)と吉良義央(吉良上野介)の間にどんな諍いがあったのかは不明のままですが、どうも義央は江戸庶民からは嫌われ者だったようで、庶民の視点から考察してみましょう^^;

吉良義央は高家(こうけ)しかも最上級の高家肝煎でした。高家とは格式の高い由緒正しいという意味で、義央は清和源氏の系統の名門の家柄です。
Point01.お坊ちゃんでイケメンだってよ!(*`д´)

将軍綱吉には特に寵愛されていたようです。
Point02.というより綱吉の母桂昌院はじめ女ウケが良かったんだろ!(;`Д´)

幕府の命で年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛(京都の朝廷に出張)してます。
Point03.武士のくせに公家気取ってんじゃねよー!(`Д´)ノ

長男を名門上杉家(妻の実家)の跡取りとし、娘たちの各嫁ぎ先も玉の輿。
Point04.そこまでして上流階級に居座りたいかねー!(*`д´)
※長男を養子に出したのは、上杉家断絶を救うためでこれは庶民の誤解です。

浅野長矩は参勤交代で領地と江戸屋敷を往復しますが、義央は領地(田舎)なんぞ行きません。
Point06.テメー1回だけかよ!たまには領地にツラだせよ!ヽ(`Д´)ノ
※これも旗本のほとんどは領地に行く習慣がありませんので

外様大名は参勤交代で江戸に戻った時は、お土産なんかご近所に配っていたかも?
Point07.キラはヤツハシひとつくれやしねーぜ!( `Д´)/

まぁ、Point07.は私の勝手な想像ですが(苦笑) 生類憐みの令への恨みなど、将軍綱吉は江戸庶民からすこぶる評判が悪かったですから、綱吉憎けりゃ義央まで憎い...の方程式で、嫌われ義央(よしひさ・よしなか)が出来上がってしまった訳で。けど、それじゃ吉良様あまりに可愛そう...ということで。



両国から 忠臣蔵の真実に迫る!墨田区観光協会が吉良上野介復権に立ち上がりました^^

吉良上野介像

う〜ん。たしかに上品なお顔立ちをしていらっしゃるかも^^; 私自身もごく稀に都内のとてつもない名家のお宅に伺ったことがありました。
うへぇ〜!都心の一等地にこんなでかい敷地にこの豪邸(@@;)」
私はブランド品とかよくわかりませんが、いつお会いしても胸ポケットにはネッカチーフ,靴からスーツから、おそらく私が身につけているものとは2桁違うのではないかと^^; 時計にいたっては3桁違うだろうなぁ(苦笑)でも名家(高家)は名家なりの苦悩があって、それをお聞きしたら、生まれ変わっても絶対今の自分の方が気楽でいいと思いました^^;

本所松坂公園 吉良邸跡

吉良邸はもともと江戸鍛冶橋付近(東京駅と有楽町の中間)にあって、義央もそこで生まれたそうですが、松の廊下事件の3年前に江戸の大火で焼失し、呉服橋(東京駅から神田駅寄り)に新邸を再建しています。その時火消し役(消防の指揮)を担当していたのが浅野長矩であったとの事。
この時、吉良義央57歳、浅野長矩30歳。

本所松坂公園 吉良邸跡

松の廊下事件後に幕府は吉良邸を本所松坂への屋敷換えさせています。当時の本所は江戸市中でも辺鄙な場所で、敷地は広くともこんな場所に高家(名家)を住まわせるのは屈辱でもあったそうで。わざわざ市中警備のうすいこの場所に吉良邸を移させたのは、赤穂浪士による討入りをさせたかったという説もありなんとか。

吉良家墓所

赤穂浪士によって切り取られた吉良義央の首は、箱に詰めて泉岳寺に預けられた後、僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返されました。吉良義央の首は胴体をつなぎ合わせ菩提寺の万昌寺(市ヶ谷)に葬られましたが、同寺は大正時代に万昌院と改めて中野に移転し、それに伴い吉良義央一族の墓も中野区の万昌院にあり現在史跡となっています。

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吉良義央が領地(三河国)では名君と云われますが、これは同情票が集まったのではないかというが大勢です。
何故に民衆が、これほど赤穂浪士の仇討ちに喝采するかといえば、時の政権(幕府)に対する鬱積が堪っていたからです。今、エジプトで起こっている暴動と同様ですね。加えて300年もの間、忠臣蔵という演劇(善悪をはっきりわけて)が上演され続ければ、吉良は(切られ役、嫌われ役)で当然...ということになってしまっているのですよ。
日本人が忠臣蔵を見て感じるのは、アコウvsキラでなく、Citizens vs Government という構図なんですね。

わかったかな?キアヌ君 「う〜ん。。。アナタ説明ヘタですね。。。」
うわっ!すみません(>_<) 文書ばかりやたら長くて...そうですかぁ、じゃあ最後に。
トム君が演じた『ラストサムライ』(The Last Samurai)の話で忠臣蔵Storyを締めましょう...
私もかなりこのシリーズ疲れてきたし(苦笑)

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2011年02月07日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新撰組と赤穂浪士 ラストサムライ[The Last Samurai]

■大江戸チャンネル


「本懐!サイクリング〜赤穂浪士引き揚げルートを走る」のレポより【新撰組と赤穂浪士編

2004年1月に都内の劇場でトム・クルーズ主演のThe Last Samuraiを観ていた時。
前列&前々列にかけて10人ほどの外国人グループが居て(どこの国だかわかりません)が、「ん?」感じたのは、日本人と笑うタイミングや感動するシーンが違うということを実感させられました。

極め付けが....
ほぼラストで勝元(渡辺謙)が最期を遂げた時、敵(政府軍)兵士たちが次々に勝元に対して敬意を表し、跪いて頭を垂れた(土下座のように)シーンで前の数名が「プッ!」と吹きだし笑いを堪えていました。
その後小声で隣同士で何かぼそぼそ言っていましたが、どうもあのThe Last Samuraiの核心が伝わらなかったようです。まぁ私自身もあのシーンは誇張しすぎだなぁ...とは思いましたが、決して笑う場面ではありませんでした。

外国人から見れば、赤穂浪士が吉良邸の寝込みを襲ったことに対して
「それは卑怯だ。何故正々堂々と決闘を申し出ないのだ?」
「武士には果し合いというルールがあるではないか?」
「武蔵と小次郎もちゃんと果し合いをしたではないか」

なんて、感じ取るかもしれませんねー。

松の廊下事件後に将軍が下した裁きは、浅野は即刻切腹、しかも邸内でなく庭先で。
問題はここですね。...で。登場するのが庶民の声です(笑)

将軍様の個人的裁量で全てが決まっちまうのかよ!(`Д´)
冗談じゃねぇ!いくらなんでもあんまりじゃねーかよ!ヽ(`Д´)ノ
内蔵助さんよ、安兵衛さんよ!あんたらそのまんまでいいのかい?(*`д´)
もし、ここで行動起さなかったら赤穂はみんな腰抜け侍ばっかりだぜ!(`Д´)ノ


元禄時代に2ちゃんねるがあったら絶対サーバーパンクしていたでしょうね(笑)
松の廊下後の裁定は、尖閣沖中国漁船衝突事件後の裁定よりずっと反響が大きかった筈です。
もう、それまで庶民の鬱積MAXでしたから^^;
もしかしたら、吉良義央にはな〜〜んも落ち度がなくて、たんに浅野長矩が突然プッツンして斬りかかってしまったのかもしれません。
でも、そんなのカンケーネ♪でも、そんなのカンケーネ♪
原因究明もせずに、将軍の一言で簡単に命を絶たなきゃならない不条理に庶民は我慢できない。

さきほどから庶民、庶民と言っていますが...
ここでいう庶民とは町人や百姓だけではありません。下級武士や浅野家同様に改易やお家断絶を受けて浪人となった武士たちも含みます。
なんせ江戸幕府がはじまってからわずか100年間の間に、160近い改易が行なわれています。もちろん全てがお家断絶となった訳ではなく、転封や減封などもあったのですが、とにかく改易を行なえばその分天領(幕府領地)が増えるわけで、けっこう幕府にとってはオイシイ制度だったわけです♪

ところが、改易によってあまりに沢山の浪人の数が増え、浪人による反乱未遂事件(由井正雪の乱)なども起きてしまいました。なので、幕府は政策を見直し4代家綱の時代に末期養子の禁などを緩和したのですが、それでも5代綱吉の時代には譜代大名27家が改易されています、譜代大名といえば元々大切な家臣ですよ。

そりゃあなた、ますます綱吉に対する浪人の不満が高まっていく訳ですよ。
中にはこの際赤穂浪士と団結して暴れてやるぅ〜〜ヽ(`Д´)ノ!!
なんて考えていた浪人も多数いたと思われです。

綱吉も流石に、今回の判断はまずったかなぁ...と思ったのでしょう。
重用していた側用人(将軍の命を老中らに伝える役)柳沢吉保にボソボソ
「ねぇ、ボクどうしたいい?」
「ご心配にはおよびません、私にお任せあれ」

...と言ったか言わないかは別として(笑)

やはり、ここはこのフラストレーション(鬱積)はなんとかせねばなるまい...吉保は赤穂浪士の討入りを黙認というかこの際、討入りやっちゃってよ!と願っていたかもなんですね。

赤穂浪士の討入りが日本人に名誉な行動であったと支持されるのは、江戸市中を巻き込む戦闘(暴動)にせず、自分達だけで本懐を遂げ、自分達の死を以てけじめをつけて、復讐の連鎖をさせなかったこと。
それが18世紀(1701年〜)初期の侍としてのけじめのつけ方だったわけです。まぁ〜あとは、大石内蔵助の息子(良金よしかね=主税ちから享年16)が四十七士に入っていることもかなりの要素だと思いますけど。

折りしも柳沢吉保が将軍綱吉の側用人となった元禄元年(1688年)
1688年の名誉革命により英国ではオランダからウィリアム3世とメアリー2世が迎えられ即位
1689年には権利の章典によってイギリス国王は「君臨すれども統治せず」の原則を了承

[The King reigns, but does not govern.]こんなセンセーショナルな出来事を将軍の耳には入れないでしょうが、長崎出島を通してたぶん柳沢吉保は知っていたことでしょう。

この当時日本でも「朝廷(天皇)は君臨すれで統治せず」の形式ではありましたが、まさか市民(庶民)に参政権があるなどと考えもつかない時代です。赤穂浪士の行動は、当時の市民にとって不条理な圧政に対する「語る死す」であったわけです。カタルシス[Catharsis]

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断腸亭希典家老から、流山之守の官位を賜った私としては、最後に新撰組に触れておかねば(笑)

赤穂浪士行列
新撰組集合

上が赤穂浪士で、下が新撰組ですが、ぱっと見には区別がつかないと思います。ましてや外国人から見れば、どちらも全く同じように見えると思われで...

流山新撰組

我が町流山の商店などによく吊るされているこの吊るし旗を見た時に
「Oh! It's a flag of Chushingura, is here 47 Ronin City?」
なんて言われてしまうかもですね(苦笑)

赤穂浪士と新撰組が着ている羽織は"だんだら模様"といいますが、もちろん幕末の新撰組が160年前の赤穂浪士の羽織を真似て作った訳ですが。池田屋事件後はほとんど着用することはなく、それ以前からも現場(実戦)では黒ずくめの隊服であったというのが実情です。ましてや赤穂浪士が討ち入りの当日に、だんだら羽織などは着ていないでしょう。相討ちをさけるために統一した目印はつけたでしょうけど。
では、どこでだんだら羽織が登場するかと言えば、後の演劇の世界で役者が着ていた絵がモデル。特に人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」では人形各体の顔で四十七士の区別させるより、羽織に大きく名前を縫いつけた方が、遠い観客からでも判別しやすいでしょうから、映画やドラマの討ち入りシーンでダンダラ羽織&名札付き。なんていうのもその名残でしょう。

もとより、現代のようにお武家様を実名で登場させるドキュメンタリーなんて許されない時代ですから、江戸時代に上演された忠臣蔵は時代背景・人物名もすべてフィクションというのが前提です。
ある場面の脚本をちょっと変えたら観客のウケが良かったから、今度からここはこうしよう...なんていうこともあったでしょうし、近代になって映画やドラマでは、俳優のキャラクターによって人物像が変わりますし、時には史実を大きく逸脱したシナリオの映画やドラマもあったと思います。

日本人は赤穂浪士(=義士)を演劇というフィルターを通して、それが史実に忠実でないフィクション盛りだくさんということを自覚して観ています。ところが明治維新時の新撰組に関しては、ドキュメンタリーとして捉えようとします。

その違いは、史実資料が豊富なことだけではなく、赤穂義士の時代は身分制度(封建制度)が社会規範として固まっていますので、その時代の規範の中で生きていく(死んでいく)選択をせざるを得なかった人間の行動を思いやる心をで見ていて。
新撰組の時代は国家の大きな転換期(革命)であり、近藤勇や土方歳三の生き様に注視しているのではなく、日本という国家の社会規範がどのように転換したのか?という革命の確認しておきたいという心が働いているのだと思います。

新撰組の時代にはすでに町民・農民までもが[warrior]です。明治維新後、富国強兵策を推し進める中で「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」が武士道[samurai]の精神のように言われますが、これは身分(士農工商)に関係なく、軍人階級によって命令服従を徹底させるために使われるようになった、と考えたほうがよいと思いますね。「君、民思わずば、君たらざる」で「君、君たらざるは、(教育係or補佐の)臣、臣たらずなり」だと思います。

私としては[The Last Samurai]こそ忠臣蔵のテーマにリメイクして欲しかったですね。
赤穂義士が敢えてご公儀に逆らい、切腹して果てたのが1703年
『市民政府論(統治二論)』を唱えたジョン・ロックが亡くなったのは1704年です。
[The government can be changed with the resistance right if the government deprives of the life, the property, and freedom against people's intentions.]

赤穂義士討入りから約165年後、徳川幕府は遂に崩壊。錦の御旗を掲げた官軍側の勝利となり明治維新となりますが。庶民はことの善悪や道理に関わらず「とにかく強いものが正義である」という政治沙汰には嫌悪感をもっています。[The king can do no wrong.] 当時の庶民はこれを「勝てば官軍」という「沙汰嫌」に訳しました。サタイヤ[Satire]

ひさびさに文字ばっかりで、疲れちゃいましたねー。
最後までしょうもない駄洒落にお付き合いして頂いた方、大変ありがとうございましたm(_ _)m

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2011年02月08日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | ■大江戸チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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