脚長人形

日記(うんちく放題)


女子フィギュアのSP(ショートプログラム)はまずまずの成績でフリー(決勝)楽しみになった。今の世代の人は、フィギュアと言えばすぐに模型とか人形を連想できるのであろう。
なにかのTVでフィギュア特集なるものを見た記憶があるが、みな一様に顔が小さく脚が長い、脚長人形

さてそもそもfigure(フィギュア)とは、数字・図形・模型とそれぞれ意味を持つ。
フィギュアスケートの原型はコンパルソリーフィギュアであり

●コンパルソリー=compulsory (強制・義務・規定)
●フィギュア  =figure (図形)

片足で滑り出してそのまま片足で惰性で円を描いて元の場所まで戻り、そこで足を替えて同じように反対側に円を描いて、その間にターンをしたりカーブの方向を変えたりして規定の図形を滑る。のが原点らしい。

この規定演技(コンパルソリー)がSP(ショートプログラム)に継承されたらしい。
フィギュアスケートの採点基準は、素人にはよくわからないが、SP演技では、おそらくなめらかに図形を描くような滑りも審判は見ているのだろう。

それにしても、演技中、脚を上げたまま滑っているのを見ると、ほんとに今の日本人選手は欧米人に劣らぬほど脚が長い・・同じ演技をしても、脚が短ければ見栄え的に不利であり点数にも響くだろうなぁと思う。

考えてみれば...幼い頃からトイレでは和式体勢をとり、お膳に正座で食事をとり続けていた我々の世代ではそら短足になりますなぁ^^;

2006年02月22日

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サンタクロースと赤い服

日記(うんちく放題)


クリスマスにはケンタッキーフライドチキンは1年で最も稼ぎ時らしい。
我が家は、Xmasはモスチキンを買っている。

さて、イエス・キリストの生まれた中東の地にもみの木やトナカイはおかしいだろ?

ご存知の方も多いと思うが...クリスマスを祝うようになったのは、ヨーロッパにキリスト教が伝わってからだと云われている。もともとゲルマン民族の冬至を過ぎた喜びを祝う自然崇拝の儀式に常緑樹のもみの木を使っていた。ちょうど日本で、1年中青い竹や松を正月飾りに使うのと同じ理由だ。

日本ではXmasにチキンが定番だが、もともとは17世紀(日本の江戸時代)にイギリスからアメリカへ移り住んだピューリタン(清教徒)が初めての収穫祭に野生の七面鳥を食べた事が始まりだと云われている。ところで最近は、クリスマス近くになるとサンタクロースの赤い服を着たピザの配達のお兄さんを頻繁に見かける。

聖ニコラウスSaint Nicholas(英)は4世紀ごろにミーラ(現:トルコ)で活躍したとされる司教さんだ。オランダでの呼び方が「シンタークラース」で英語でSanta Claus となり、これが日本語で「サンタクロース」となる。

聖ニコラウスさんはのちに航海や商人の守護聖人と崇められるようになるが、同時に子供たちの守護聖人にもなっている。それは聖ニコラウスについて、こんな説話(エピソード)が残されているからだ。

「聖ニコラウスは貧しい家を聞きつけると、夜中に煙突からコインを投げ入れ援助した。そのコイン
はたまたま暖炉で乾かしていた靴(下)に入った」
子供たちが寝静まった夜中、サンタクロースが煙突からやってきて、靴下の中にプレゼントを入れてる起源はこんなところから。

しかし、聖ニコラウスさんはあんな派手な赤い服は着ていなかった。赤い服の起源は、20世紀になってコカコーラ社が、自社広告のイベントで大量に赤のコスチュームを使用してからだ。
もしコカコーラ社のイメージカラーが黄色だったら今日見かけたピザ屋のお兄さんはみんな黄色の服をきて配達していたのかも(笑)

ちなみに、なぜクリスマス当日の12/25を祝わないで、イブの24日に盛り上がるのかといえば、キリストの生まれたイスラエル暦では日没が日にちの分岐点になっていて、24日の日没=25日の始まり..だからのようだ。

2005-12-24 00:00筆

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2007年12月04日

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狛犬(こまいぬ)とは

日記(うんちく放題)


自転車でポタリングしてよく被写体にするのが狛犬ですが。
狛犬とは..なんて書いてみようとしたら、その名もずばり狛犬とは何か?100万人の狛犬講座なんてコンテンツのサイトがあったので、興味のある方はそちらを先ず読んでください。(もろ他力本願^^;)

狛犬

これは常総市、水海道一高のとなりにある報国寺に設置された真新しい狛犬ですが、狛犬フリークの方ならすぐに「あれ?向かって左にあるのに口ひらいているじゃん。」「阿吽(あうん)の形式」をとっていないことにすぐ気がつきますが、まぁそんなことにこだわないでもいいのかな?この報国寺だって、もとは真言宗、のちに浄土宗に改宗されているくらいですから^^;

東京都庭園美術館

これは港区、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)のエントランスにある左側の狛犬ですが、ちゃんと口を閉じています。でも「左狛犬 右獅子」というよりは、左右の狛犬ともデザインは旧皇族の御屋敷に合わせて、優雅なライオン風でこの狛犬には角がありません。
「えっ!?狛犬って角なんかあるの?」という方は次の画像を見てください。

諏訪神社の狛犬

これは流山市、諏訪神社(おすわさま)にある狛犬です。
どうですか?ちゃんと角があるでしょ?かなり手ブレしてますが(苦笑) この他にもおすわさまには様々な狛犬があり、けっこう色々なサイトで紹介されていますね。面白い狛犬の特集は、冒頭のサイトに日本一○○な狛犬なんてコンテンツもありました。これ結構笑えます。(爆)

さて、狛犬を辿っていくと結構色んなことを知る機会に恵まれます。
たとえば、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)の当主だった朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)は相当のゴルフ好きで、鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで1932年(昭和7年)に朝霞町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称された。
へぇ〜へぇ〜...これは知りませんでした。
平成の大合併でどんどん新しい地名が生まれましたが、昔はこんな名付け方もありだったのですね。

地名の由来で思い出したことが...今から30年以上も前の事ですが^^;
学生時代の美術部のスケッチハイクで、井の頭公園に出かけたおり
吉祥寺駅から公園に向かう途中で...
友人:「おい○○、ところで吉祥寺ってお寺はどこにあるんだ?」
  私:「えっ!? 吉祥寺は文京区だぞ。」
友人:「へ???」


文京区駒込にある吉祥寺は母校のルーツであり、熱心な大学野球ファンでもある彼は
「栴檀林(せんだんりん)♪ 栴檀林(せんだんりん)♪」
と勝っても負けても大声で校歌を歌っていたのですが...

やはり歴史に興味ない人にとっては 狛犬とは?地名の由来とか?
そんなの関係ねぇ♪ なんでしょうかね?^^;


追記:リンク先コンテンツトップ
   ●狛犬ネット(狛犬・こま犬・こまいぬNET!)
   ●東京おもしろ雑学 東京不動産(一戸建て、土地)情報−住建ハウジング

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2009年05月23日

posted by たすけ at 18:11 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

四国八十八ヶ所を巡る人、造る人

日記(うんちく放題)


江戸川八十八ヶ所というのは、ご周知の通り四国八十八ヶ所"安近短"で参拝したいという古人の知恵であり、古(いにしえ)のレジャーと言ってもいいでしょうね。

そもそも、弘法大師をゆかりとする八十八ヶ所霊場が四国にあり、それらを巡る参拝を四国遍路と言いますが、遠隔の地に住む人々や、高齢者にとって四国遍路は容易ではありません。

...で。四国の各霊場より聖地のお砂を頂戴して、八十八の霊場の御本尊を祀りお砂を敷き、それを踏みながら参拝をすることを四国八十八ヶ所お砂踏法要と言いますが、これならお遍路が1ヶ所で済みます^^

前エントリーで、自転車うろうろ日記を書いている自転車仲間へ江戸川八十八ヶ所の四番札所の案内を書いていたら、偶然ゴルフ仲間で石工のブログを書いている友人から電話が・・・
ちょうど今、松戸駅近くの宝光院で四国八十八ヶ所お砂踏み工事に取り掛かっているそうです。

kosigi_02.jpg

いやぁ〜これは偶然なのでしょうかねぇ...かたや八十八ヶ所を巡る人、かたや八十八ヶ所を造る人です。その八十八ヶ所のお砂踏みを造る友人からかつて聞いた話で、八十八ヶ所参拝にもう一つエピソードがあるのですが、いつの時代にも不届千万な輩がいるという事だけで内容や画像は割愛します。

ちなみに、石工のブログを書いている友人のお父さんは、長年に渡りカンボジアのアンコールワットの石の参道修復に私財を投じて貢献した方で、その奮闘ぶりはかつてNHKのプロジェクトXで放映されています♪

kosugi_002.gif
↑↑↑こちらをクリックするとその紹介頁にジャンプしますが...

kosigi_01.jpg
↑↑↑ここ、私がお手伝いしたサイトで、なにげにPRも兼ねちゃってすみませんf(^、^;

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2010年01月20日

posted by たすけ at 01:47 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浅間神社の大・中・小 / 富士塚の比較

日記(うんちく放題)


浅間(せんげん)神社の浅間(アサマ)は、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」。マレー語では「アサ」=煙 「マ」=母 であるからして、要するに火山に因んだ名称であることは確実なのでしょう。
全国には約1,300社の浅間神社があり、富士山のお膝元である静岡県=150社、山梨県=66社に対して、千葉県=257社と圧倒しているのは、江戸時代に流行した富士講が影響しているからでしょうね。
富士塚の詳細については、流山市の藤井宏康さんが中心となって調査された「富士塚のアルバム」が秀逸ですので、是非ご参照ください。

091025_003.jpg

これが、我が流山市の旧流山町根郷にある、浅間神社の富士塚ですが、幼い頃から富士塚(お富士さん)と言えば、これくらいの規模(高さ5〜6m)が標準だと思っていましたら、ポタリングをしていると実に様々な、高さの富士塚に遭遇します。

10.03.16_01.jpg

これは、常総市花島町の下花島公民館の敷地内にある富士塚。小さっ!(笑)
高さは1mあるかないかですねー。脇から生えた大木が富士塚を圧倒していますが、でもこの木の根が土留めの役割をしてくれているおかげで、富士塚が崩れないでいるのでしょうから、切り倒す訳にはいかないでしょうね。

10.03.16_03.jpg

これは、印西市大森にある富士塚の上に建てられた浅間神社のお社(やしろ)です。
「なんだ、たいした高さじゃないじゃん?」と思ったら大間違い。

10.03.16_04.jpg

北東方向の眺望

10.03.16_05.jpg

西方向の眺望

どうです、絶景でしょ?高さは結局25〜30mくらいでしょうか・・・

天気の良い日にこんな眺望の良い場所で、おにぎりなどをほおばりながらのんびりするのが、まったりポタの楽しみです♪
おそらく江戸時代も地元の人たちも、ここからの絶景を楽しみながら、筑波山、日光連山、秩父連山、そして遠く富士山への思いを馳せていたのではないかと思います。

10.03.16_06.jpg

ただ皮肉なことに、現在これだけ見晴らしが良いのは、道路拡張で印西市大森の浅間神社の周りを削り取ったからで、西参道はこんな急な階段になっています。ちょっとアングルに失敗しましたが、高所恐怖症の人だと足元が不安かも知れませんヨ(笑)

14日のポタで撮った携帯画像がすべてノイズが多くて困りました。
もうCCDに寿命が来たかなぁ(T_T)


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タグ:富士塚

2010年03月15日

posted by たすけ at 23:59 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

潮干狩と風向きの関係

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超遅UPです^^; 前記、潮干狩りの穴場の続編で先ずは箇条書き...
1.潮干狩りの穴場は、駐車場やWCはありません。
2.防波堤から干潟に降りる階段がないので脚立(梯子)が必要な場所もあります。
3.潮干狩りの穴場はガラス破片などありますので、安全の為にサンダルよりも捨ててもよい靴なので入ったほうが無難です。

ま、ここまではわざわざ書くほどのことでもないのですが...

今回(4/29の潮干狩り)の教訓は、潮干狩りも自転車同様に風向きに大きく影響されるということでした。千葉県の潮見カレンダー 潮MieYellで、ばっちり大潮の干潮時(午前11時14分)に合わせて現場に行ったのですが
「あれ?全然潮が引かない??」
中潮の干潮前よりも干潟が現れません。
「なんで?なんで?」と思っていたら...
どうやら『吹き寄せ効果』だったみたいです。

吹き寄せ効果とは...台風や低気圧に伴う強い風が沖から海岸に向かって吹くと、海水は海岸に吹き寄せられ潮位が上昇する。この効果による潮位の上昇は風速の2乗に比例し、また遠浅の海岸や内湾の奥で特に大きくなる。

4/29の午前11時頃の江戸川臨海部は、沖から岸に向かって強い風(風速13mの南南西の風)が吹いていました。この影響があって大潮の干潮にも関わらず潮が引かなかったようです。仕方なく我々は岩礁のわずかな波打ち際で潮干狩りをしたのですが(その様子は棚倉樽氏の絵が物語っています^^;)私は畳半畳程の面積で下の画像のアサリをゲットしましたので、貝密度?は高かったです。

アサリの砂抜き

因みにアサリの砂抜きのコツは...出来れば金属性の平たいバットに、貝が浸る程度の塩水(3〜5%)に漬けるのが一番良いのですが無い場合には、とにかく平たい容器に貝を並べた方が良いです。

1.その際、一度吐かせた泥や砂を再びアサリが吸い込まないようにザルを敷くこと。
2.明るいところよりは暗いところ、もしくは新聞紙などを被せて暗くすること。
3.古釘など鉄分の多い、金属片を一緒に入れること。

(根拠はないという話もありますが、実際工具箱から古釘を取り出して入れたら、元気良くピューピューと吐き出しが活発になりました♪古釘がなければ、金属のスプーンやフォークでいいみたいです)
我が家の場合は、一晩塩水につけ、翌朝新たな塩水に漬け直して、その晩に調理したら完璧な砂抜きになりました。

私はこれを冷凍保存後(その方がアサリの旨味が増します♪)に、ボンゴレと酒蒸しに...と考えていたのですが、月末の仕事に追われて家内に料理を任せましたら「面倒だから全部お味噌汁にしたわよ」....と(悲)

江戸前の天然アサリ

ま、でも小ぶりのアサリでも、身がたっぷりで、味も濃く、娘も大満足でしたから流石江戸前の天然アサリでしたので、良しとしましょう^^;今回はこの軍手の上にある熊手を使ったのですが、これは収穫率が高くでいいですよ。(稚貝も採れてしまうのでだいぶリリースしましたが)ホームセンターで300円くらいでした。網は98円だったし^^;

熊手の種類

貝取り名人のTV番組を見ていたら、海水につけて持ち帰るより、湿らせた新聞紙+保冷材が望ましいということでしたので、実際その通りにしてみたら、収穫から帰宅まで5時間以上かかりましたが、ほとんど100%貝は生きたままでした♪
生きた貝か、死んだ貝かの違いは、スイカと同じように叩いてわかるのですが、見た目でわかるのは表面と閉じ口が汚れている貝は、だいたい死んで空になっている貝と思った方が良いです。ずっしりと重い貝でも中は泥や砂だけ...なんていうのもありますので、砂抜きの前に真水で貝同士を擦り合わせるように洗いながら、よく確かめてみてくださいねー。

..で。また真夏の来る前に自転車でのリベンジ潮干狩りを目論んでいます。今度はリュックの中に上の熊手・網+保冷材・保冷バック+新聞紙・コンビニ袋十分な装備かと(^-^)
大潮&江戸川CR南下で追い風(陸→海の風)の時が大漁ゲットのチャンスですよ♪


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2010年05月10日

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官衙とは?

日記(うんちく放題)


平沢官衙遺跡

官衙(かんが)とは、今で言う官庁・役所のことです。

常陸国と下総国

古代日本は奈良時代の少し前に律令制が整えられ、国・郡・里の行政区分に分けられました。茨城県(常陸国)の国府(国衙=県庁)は現在の石岡市で、下総国の国衙が市川市でした。東京スカイツリーのある墨田区も下総国の葛飾郡で、隅田川が武蔵国と下総国の境でしたので、そこにかかる橋が両国橋ですね。
我孫子市は葛飾郡ではなく、現茨城県の一部と共に相馬郡でした。我孫子市日秀(ひびり)の湖北高校敷地内に下総国相馬郡の役所跡があります。それが日秀西遺跡(相馬郡衙正倉跡)です。

相馬郡衙正倉跡

我孫子市内をポタリングすると、我孫子駅〜布佐駅まで成田線や国道356号線がほぼ丘の稜線に沿って走っていることを実感します。中峠(なかびょう)と地名が残っているように、その区間の手賀沼〜利根川は峠(丘)を超えなければなりません。航空写真でみると日秀西遺跡(湖北高校)が旧手賀沼の台地部分にあったようすが見てとれます。

相馬郡官衙想像図

あびこ電脳考古博物館では54棟の掘立柱建物跡は「正倉」律令時代の税である米を保管しておく相馬郡の役所の倉庫と考えられています。と想像図を示してくれています。

これを実物大に復元建造したのが、筑波山の麓にある常陸国筑波郡の平沢官衙遺跡です。

常陸国筑波郡官衙

平沢官衙遺跡と筑波山

復元建造物

律令制度は古代日本の中央集権強化で、安定税収と国防(防人)が主たる目的でしたが、すぐに破綻していきます。時の政権は三世一身法や墾田永年私財法など、特別措置法を打ち出しましたが、結局は貴族や官僚の私腹が肥えただけで、律令制度は脆くも崩壊していく訳ですが...

子ども手当に高速道路無料化の断念...官僚は天下りの渡り天国
う〜ん....1000年以上前から何も変わっちゃいませんね(苦笑)


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タグ:官僚

2010年06月10日

posted by たすけ at 23:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

すがしといねつたるみたれども / 長塚節生家

日記(うんちく放題)


筑波嶺ゆ振りさけ見れば水の狭沼 水の広沼霞たなびく (長塚節)
狭沼=砂沼(下妻方面)で、土浦方面に広沼=霞ヶ浦 狭の対義で広沼としたのでしょう。
固有名詞を避けたことで筑波山から見える大小さまざまな湖沼の眺望として広がりが出ますね。


長塚節生家.jpg

茨城県結城郡岡田村国生に生まれた歌人長塚節も、やっぱり筑波山に登っていたんですねー でも、どうやらくっきりした天気ではなかったようで、写実派の長塚節の事ですから霞は霞ヶ浦の掛詞だけではなくて、実際に霞がかかっていたのでしょう。

私が長塚節の歌で最も好きなのが
垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を すがしといねつたるみたれども
かつての職業柄、教材に枕詞や掛詞の例題として頻繁に出題されていたので印象深い...というのがホントのところなのですが^^;

今回、筑波山に行く前に長塚節の生家を訪れたのですが、茅葺家屋独特の懐かしい香りと、当時のままの状態で生活しながら保存されていること、見学者の私たちを温かく出迎えてくれたことに感激致しました。

長塚節客間.jpg

見学できるのは、客間として使われていた一室なのですが、きっと節が眺めていたであろう天井や障子や欄間を見ながら長塚節晩年の「鍼の如く」に収められた歌を反芻していました。

(1)垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を すがしといねつたるみたれども
(2)小さなる蚊帳こそよけれしめやかに 雨を聴きつつやがて眠らむ
(3)蚊帳の外に蚊の声きかずなりし時 けうとく我は眠りたるらむ


これら歌は大正3年5月30日。東京神田の橋田医院から帰郷退院した翌日、激しい雨の夜を詠ったものですが、時系列にして読むと、入院生活の疎ましさから解放さた直後に
"すがしといねつ" + "たるみたれども" と詠んだのは...

今回長塚節の生家を訪れ、次のように感じました。
わざわざ"青"蚊帳と記したのは、急遽用意してもらった新品か新品に近い蚊帳を釣ってもらったのではないだろうか?当時は化学繊維などない時代ですから、純麻の蚊帳でしょう。
当日は大雨であったことを考えると、気温はもともと涼しかった。"すがし"と詠んだのは、病室ではなく実家の部屋に戻った安堵感と、鼻腔に感じた蚊帳の香りを織り込んだのではないだろうか?

せっかくの新品の蚊帳を釣ってもらったが、少したるんでしまった。そこに母の枕詞の垂乳根と"たるみ=垂"を掛けたのはたんに技法であり、主語は母ではなく蚊帳ではなかったのだろうか? 病室ではなかなか眠れずに睡眠薬なども処方してもらった節だったが、実家に帰れば少しは安らいだ眠りつけると思った。

そして、無味乾燥な病院の天井を見つめるより、たるんだ小さな蚊帳の空間の中に安堵を感じるが、雨音が耳に届きなかなか寝付けない。やがて雨音も小さくなってきた頃..."蚊の声"は、本来の蚊の羽音と、居間で話す家族の話声もかすかに聞こえていて、それらが聞こえなくなった(家族が眠りについた)頃にようやく自分も眠りに入った...と。

長塚節生家前の道.jpg

さて、現常総市国生(こっしょう)は、まるで時間が止まっているかのような田園風景です。そこから徒歩5分ほどの桑原神社を訪れたのですが、式内社であるというので期待していたのですが....

岡田郡桑原神社.jpg

神社額はそれなりに立派でしたが、境内をコンクリートで舗装されてしまってちょっと残念でした。でも、参道の木洩れ日がとても爽やかで、生命の輝きに満ちているような空間でした...てな訳で。

参道の木漏れ日.jpg

国生の鎮守の森のすがしさに 輝き止る節の木漏れ日 (太輔)

という挙句にて、講義もどきの記事は休筆^^;
次項からは美味いもん記事の連続になります♪


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2010年06月12日

posted by たすけ at 23:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小貝川物語「風景は人が作るもの」

日記(うんちく放題)


小貝川は、蚕養川とか子飼川と表記された時代があったようで、鬼怒川は、毛野川とか衣川とか絹川と表記された時代があったようです。
毛野川とは下毛野(栃木県)からの由来ですが、蚕養川=絹川=衣川と推測されます。すなわち、かつて平安時代までは鬼怒川と小貝川は1つの河川として存在していました。

1000年前の関東地方の水系

拙ブログではこの地図が度々登場しますが、一番最初に使ったのが飯沼物語「風景は人が作るもの」です。この地図には小貝川の文字が見えませんが、最上部の騰波ノ江に注ぎ込むのが小貝川で、下妻から下流は、衣(絹)川と、蚕養川(小貝)川は一つの河川として合流していました。
小貝川と鬼怒川は平安時代の鬼怒川西遷で下妻で分流しましたが、谷和原村(現つくばみらい市)寺畑付近で、再び鬼怒川と合流し、その下流は壮大な沢地となっていました。そして上流域に大雨が降る度氾濫し流路を変えたといいます。

江戸川・鬼怒川開削と小貝川付替

江戸時代になり、鬼怒川新流路開削工事(大木丘陵開削)で鬼怒川と小貝川が完全に分離しましたが、ほぼ同時期に小貝川の流路付替(常陸川=利根川へ河口変更)も行われています。
鬼怒川と小貝川を分離したのは、新田開発&水害解消だったのですが。しかし、優先されたのは常陸川(利根川)に大型船の航行できる水量を確保し、鬼怒川の河口をより上流に移して下野(栃木県)の物資を早く江戸へ送ることでした。つまりは流域農民の生活・生命より権力(政治)優先だった訳です。(なんだか八ツ場ダムを造るの、造らないのと住民を翻弄する今の政治と変わりませんね。)

旧鬼怒川の名残

かつて小貝川と鬼怒川が、谷和原村(現つくばみらい市)寺畑付近でつながっていた名残は、この航空写真でみることができます。小貝川にかかる伊奈橋近辺に堀のように残る場所が、おそらくかつての鬼怒川の流路の名残でしょう。

伊奈橋.jpg

前記事で水門やきそば(あきた商店)に行ったのは、実は小貝川CRを走っていったのではなく、この伊奈橋からつくばの台地を目指し、台通用水路づたいに辿りつきました。本当はつくば市を抜けて宍塚大池(首都圏最大級の里山)を目指したのですが、天候が怪しかったので帰りの時間が計算できる福岡堰まで行ってから考えようとしたのでした。

さて、風景は人が作るもの...のタイトルですが。
つねづね思うことは、サイクリングロードから見る"ちばらき"の風景は概ね江戸時代に原型が完成したと思っています。ちばらきをポタリングしていて、小貝川や鬼怒川の上流は変化に富んで走っていて飽きませんが、江戸サイや利根サイは単調でつまらないのです。単調な理由は、物資輸送を優先した設計(開削や拡張)をしたからだと思うです。

また地名を見て、いろいろ妄想することはポタリングの楽しみのひとつでもあります。
なんでこんな地名なんだ?...そこから妄想していくと遠く江戸時代以前の風景が見えてきます。
ま〜歴史専門家ではないので、勝手なこじつけや解釈で楽しんでいるだけなんですけどね^^;

冒頭の鬼怒川の音は毛野川から、暴れ川から鬼怒の字を充てたされる説が有力ですが、小貝川の音は、壊樋(コカヒ)川→決壊しやすい川というのが元ではないかという説があります。

小貝川沿いの水神社と水神宮

確かに小貝川沿いをポタリングしていると、他の河川より水神社や水神宮の密集度が高く、祠も
立派なのが多いような気がします。

樋管工事看板

鬼怒川・小貝川ともに氾濫の回数も多かったので、私も小貝川の語源はコカヒカワ(壊樋川)じゃなかったのかなぁ。なんて....こんな工事看板をみるたびに思うのです。


ところで呼称のこじつけといえば...この日、台通用水路づたいを走っていて

阿夫利神社(つくばみらい市)

「え?こんなところに阿夫利神社?」
阿夫利(あふり)神社は"ちばらき"では印西市の阿夫利神社がメジャーですが、関東全般でみれば大山参りで有名な神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山)阿夫利神社です。
すなわち、阿夫利(あふり=あめふり)神社に遭遇してしまって...
「こりゃ、やっぱり遠出せずに早めに引き上げなさい」という啓示だなと解釈し、早々に予定変更して土砂降りに遭わずに済みました♪
                              

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2010年08月15日

posted by たすけ at 23:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平将門(へいしょうもん)ではありません / 「風と雲と虹と」

日記(うんちく放題)


いつだったか、テレビのクイズバラエティ番組で平将門に関する問題が出て。

平将門...へいじょうもん?...「あ!わかった!焼肉屋さん!!」と若い男性タレントさん

平城苑(焼肉)

それって、平城苑でしょ?


平将門...へいしょうもん?...「あ!わかった!横浜中華街!!」と若い女性タレントさん

延平門(横浜中華街)

それは、延平門でしょ?


下総で生まれ育った私にとっては、平将門(たいらのまさかど)は身近な存在で、特に高校生の時(1976年)に放送された加藤剛が主演の「風と雲と虹と」は最も印象に残っているNHK大河ドラマです。平将門は誰でも知っていると思っていたんですが、案外マイナー人物になっちゃったのかなぁ?


まずは、源平藤橘の話。
源,平,藤,橘の四大姓氏で源氏、平氏、橘氏は天皇家の血筋をひく家系。藤原氏は、鎌足の子不比等以降代々皇室の外戚となり四大四姓に並称されています。
そしてこの場合、氏(うじ)と名(諱)の間に「の」を入れて読むのが慣わしです。
源 頼朝...みなもと の よりとも
平 清盛...たいら の きよもり
藤原 道長...ふじわら の みちなが
橘 諸兄...たちばな の もろえ


次に、姓(かばね)の話。
姓とは古代日本において、大王(天皇)から与えられた地位を示す称号で、さらに天武天皇が684年に八色の姓(やくさのかばね)を制定し、臣(おみ)よりも格上の、朝臣(あそみ・あそん)という最上位の称号が作られました。

うぐいす鳴くよ(794年)平安京。
の平安京遷都で有名な、桓武天皇の孫にあたる高望王は、寛平元年(889年)に宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下(皇籍離脱)し、平高望を名乗るようになりました。
平 高望...たいら の たかもち  平=平安京が由来という説が有力です、まぁ現代で言えば東京の高望=東 高望という感じでしょう。

平将門像(坂東市)
平将門像(坂東市総合文化ホール:ベルフォーレにて)

以下、かなりフランクに平将門(たいらのまさかど)について...
祖父(平高望) 父(平良将) 伯父(平国香 平良兼)を含めてお話します。
                  叔父(平良文 平良茂)等は割愛します。


桓武天皇には大勢の孫がいましたから
「まぁ〜天皇に即位するチャンスは、ほとんどないだろうから
それならいっそ役人(官僚)になっちゃったようがよくなくない?」

ということで高望王は臣籍降下して平高望となった訳ですね。

「高望さん!千葉県(上総国)に知事(上総介)の就職口があるけど、どうする?」
「うん!なるなる!やるやる!」

と、平高望は平安時代の千葉県知事に就任しました。
当時は都(京都)に居たまま、遠国知事になり(遥任国司)給料をもらえましたが、平高望は、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って実際に任地(上総)に赴きました。
平高望は最終的には西海道(九州)の国司となり大宰府で亡くなっていますが...

長男の国香は前常陸大掾の源護の娘を妻とし、常陸国(茨城県)に勢力を固め。
次男の良兼は(正室は不明、側室に源護の娘)、上総国(千葉県)に勢力を固め。
三男の良将は下総国相馬郡の犬養氏の娘を妻とし、下総国(千葉+茨城県)に勢力を固めました。


まぁ〜天皇家の末裔ですから、お嫁さんはそれなりの豪族の娘でなければ身分が合わないし、平氏としては、地元に強い豪族と地縁を結んで勢力を安定させる意図があり、地元豪族にしても平氏と姻戚関係になることには、そなりの箔がつくわけですね。

しかし、それぞれの地縁(婚姻)を結んだ先の豪族同士や、都から派遣される役人も、互いに領地をめぐる争いをしていた訳で、この婚姻関係が後々騒乱(平将門の乱)の要因になる訳です。

さて、三男良将の子供...つまり平高望の孫であり、桓武天皇から5代目にあたるのが平将門です。

将門は少年期を父と共に東北で過ごし、父良将の他界後、15歳〜28歳の青年期は平安京で滝口の衛士(宮中護衛官)として過ごしています。
将門の就職希望(夢)は、検非違使(=現在の検察官&裁判官)だったのですが、桓武天皇の血筋とはいえ、おじいちゃんの高望は、臣籍降下(皇籍離脱)しているし、当時藤原氏の政権下では出世(検非違使への就職)の見込みもなく、夢破れて故郷の下総国に帰って来ました。
ところが故郷に帰ってみたら、父(良将)の領地であった筈の下総国の領地は、伯父や従兄弟たちに分割統治されていました。

将門は、一族や親戚同士の争いや、都から派遣された新任国司と地方豪族との絶えない争いに
「もぅ、いい加減にしてよ!」
と積極的に調停や撃退を繰り返します。(検非違使志望が役く立つ?)
そんな中、武蔵国(東京・埼玉)の新任国司として赴任してきた、興世王(おきよおう)が
「将門さん!あなたは天皇として、この関東地方を治める運命にあるのです!」
と進言し、巫女からの蔭位のお告げも用意して
【蔭位=皇親・五世王の子までは、臣籍降下以後でも天皇即位の復活ありですよ】

周囲の期待を背負った将門は、遂に939年(天慶2年)に「新皇」を名乗り、将門の勢いに恐れをなした国司らは皆とっと逃げ出し、あっという間に関東全域を制圧しました。しかし「出る杭は打たれる」のごとく、「新皇」即位後、わずか2ヶ月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐され、斬首されてしまいます。この一連の騒乱を含めて平将門の乱と言います。
まぁ早い話が「将門や首謀者を捕らえたら、官位と領地をあげるよ♪」と言うが討伐の現実でありますから、そりゃ追討軍も張り切る訳です。
【青年期に真面目に京で勤務しながら出世できなかった将門が、結局は他人の出世の為の逆賊になってしまった。】というところが、何とも皮肉なお話です。

因みに、成田山新勝寺は平将門の乱の平定祈願をきっかけとするお寺なんですが、940年(天慶3年)に、平定祈願の儀式を起源としています。つまり、成田山新勝寺は今年開山1070周年ですが、イコール平将門の乱(将門の死)から1070年経っている訳です。

平将門像(常総市 将門公苑)
平将門像(常総市 将門公苑にて)

加藤剛主演の「風と雲と虹と」を観ている私にとって、平将門は自ら農具を取り荒地を開墾し、圧制に苦しむ民を解放し、そして何より規律を重んじた真っ直ぐな性格の人間とインプットされています。

果たして、平将門の本当の人間性を知る由はないのですが...
でも平将門縁(ゆかり)の地、(坂東市、常総市、取手市、我孫子市、市川市)に古くから住む人々が、すでに千年以上経っていても、いまだに成田山に参拝しないという慣習は、将門の人望や正義を信じる証ではないのかなぁ...と。将門縁の地を訪ねる度に感じています。


今記事を書きながら、ふと思ったこと...
今、尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁の衝突ビデオがYouTubeに流れされたことで、国家公務員法違反だ騒いでいますが。そりゃ、確かに規律を破ったことはゆゆしき事かもしれません。でも、市民感情から言わせてもらえば、上(政権)がだらしないからこんなことになるのだと。

現代風に言えば...
「事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!」
青島刑事に台詞に拍手喝采という思いです。


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2010年11月07日

posted by たすけ at 01:37 | Comment(4) | TrackBack(0) | 日記(うんちく放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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