野鳥と会話 / 流山に残された谷津

流山チャンネル

開発で森が伐採され、小川や小道の風景がすっかり変わってしまった流山ですが・・・
私が子供の頃から変わっていない流山に残された谷津の風景があります。Y.IgucciさんのFB投稿画像がその郷愁を呼び覚まさせて頂き、8年前のブログ記事に画像を拝借挿入させて頂きましたm(_ _)m




私が生まれたのは、千葉県東葛飾郡流山町「加」1〜2歳の頃、西平井に引越し、流山小学校の時に西平井の一部が平和台と地名が変わった。平和台(住宅地域)の造成が始まると、それまでターザンごっこやザリガニ釣りの遊び場だった西平井一部の林やたんぼが無くなっていった。

それ以後は、私の家の前の道一本隔てて八木小学校の学区である前平井があり。前平井、後平井、中、野々下、柴崎、古間木(ふるまぎ)の野山でカブトムシをとったり木登りをして遊んでいた。

中学、高校になるとさすがに虫とりや木登りは、しなくなったが、少し時間があるとその地域に自転車で散策しながら、野うさぎや野鳥を見に行った。正確には、野鳥を見に行くというよりは会話をしに行ったということなのだが...

変わらない懐かしい風景.jpg

特に野鳥と話をするのは、木々の葉が落ちる冬が良かった。高校生になる頃には後平井、野々下、古間木の一部が流山市運動公園として造成が進み、田んぼや田畑に細い舗装道が作られ、タイヤに泥もつかずに林のそばまで自転車で進めるようになった。

私は、舗装道の脇に自転車を立て、そぉ〜と林の入り口まで歩み入り、そこで口笛や舌鳴らしで、ピーピー、チチっ、チョットコーイグルルグルルと呼びかけるのである。
たいていは、私の呼び声は無視されたが時に呼びかけに応じて、野鳥の声が近づいて来てくれた。そんな時は、むしょうに嬉しくなり小一時間どんな奴が応えてくれたのかと、一生懸命姿を探すのだが、なかなか姿を見ることはできない。意を決して林の奥に歩みを進めると、話相手はスッと消えてしまい、呼びかけにも応えてくれなくなる。

だから、私は自分なりのルールとして、山菜や茸を採る時以外は、私は林(彼等の巣のあるテリトリー)に侵入することなく、彼等の玄関先から呼びかけることに徹していたのである。

姿を見てすぐわかるのは、キジやコジュッケイやヤマバト、オナガ、カケス、アカゲラ、メジロ、ウグイス等々だが、私はつい近年までシラサギに、オオサギ、チュウサギ、コサギの区別があるのを知らなかった。

区別の詳細は
流山の野鳥
野鳥図鑑を参照して下さい。

小学校の前半は、西平井の田で餌をついばむシラサギを毎日横目に見ながら登校したが、後半にはそこが造成地となり、シラサギを見る機会も少なくなり、また農薬の影響で餌が少なくなったせいか野々下や古間木の田でもシラサギが減って行った。
(今では、農薬使用が少なくなったせいか市内各地でシラサギはよく見かけるようになってきています。)

野鳥の思い出は、たいていは心なごむ追憶ばかりなのだが、1つだけ恐ろしい光景に出くわしたことがある。

高校生の時は自転車通学であり、中、思井、西平井、鰭ヶ崎の区域の坂を下り、軽快に通学していたのだが。ある日の帰り道、西平井の森の奥で、カラスが呻いているような、人間の赤ちゃんが泣いているような不気味な鳴き声とも、叫び声ともつかない激しい声に足が止まった。

自転車を森の入り口に置き、それまでのルールを破ってその声の方向に森の奥へと足を進めた・・・
ほどなく声の中心に近づき、すぐ頭上を見るとそこは、シラサギのコロニー(営巣)であった。

カラスの姿は見なかったので、シラサギ同士の争いなのか、あるいは他の天敵の襲来を受けたのか、数十羽のシラサギが激しく舞い、突付き合い、地面にはおびただしい白い羽が落ちていた。また、羽以外にもシラサギの死体が数体転がりあるいは長い首を下にして、白い身体を赤い血で染めて、木枝に足をひっかける形で宙吊りになっているシラサギも見た。

それから30年ほど時が過ぎ、私の散策地であり通学路でもあった、中、思井、西平井の森の一部はTX(つくばエクスプレス)の開通によりすっかり切り開かれて、見通しも良くなった。

先日TXの車内から眺めていたら、ちょうどそのコロニーがあったところだけ木々を残していることに気がついた。
周囲はえぐってあるのに、かなり不自然な残し方で、もしかしたら、そこに何かの祠があるのか、もしくはいまだに、シラサギのコロニーがそこにあり、残してくれたのかはわからないが、今から育つ流山の子供達のためにも、野鳥のテリトリーとうまく共存しながら今後の開発が進むことを願うばかりである。


2006年05月13日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フジTVドラマ「HERO」スペシャル版の綾瀬はるか

流山チャンネル


今朝のフジ「めざましTV」を見ていたら、ドラマ「HERO」スペシャル版の番宣でキムタクの隣に以前から「キャンディースのスーちゃんに似ているなぁ〜」と気になっていた、ポカリスエットのCMに出ている女優さんが出演してて、「へぇ〜、綾瀬はるかって名前なんだ」と初めて知った。

・・で、ドラマ「HERO」スペシャル版を見ていたら...ロケの舞台は山口県のはずなのに...「あれ!?ココって!?」とほんの一瞬だが見知った風景が出てきた。

もしかして?と思って[ぐるっと流山]を見たら、やっぱりココからほんの5分のところにある北千葉浄水場が、中井貴一の扮する企業の概観に使われていた(^^;

木村拓哉と堤真一の演技もいいが、中井貴一の自白のシーンがさすがに上手いなぁ〜と感心した。
たまたま日曜日に「亡国のイージス」のDVDを借り、てきて見たばっかりだったので、冷徹な工作員の役柄と今回の役柄を見てて、セリフの合間の無言の表情が実に上手いなぁと感心していたところであったから余計にそう感じた。

今日、サッカーの中田英寿の引退報道があったが、私は以前からどうも中田英寿と中井貴一がダブってしまう。中田英寿や中井貴一は日本兵の役がすごく似合うのではないかなぁ、と前々から感じている。

昨年南アフリカで開催された第1回女子W杯ゴルフで優勝した宮里藍&北田瑠衣の両選手が現地で「まるで双子のような少女」と報道されたが、外国人から見たら、中井貴一&中田英寿 田中好子&綾瀬はるかもほとんど同じ顔に見えるのはないかなぁ・・等と思うのだけどf(^、^;

話しが脱線してしまったが、今回のドラマ「HERO」スペシャル版で当地がほんの一瞬だけどロケ地に使われたのは、「流山フィルムコミッション」の働きかけが大きいようだ。

そういえば、テレビの公開収録番組で記述した
流山文化会館をロケ地にした、森田健作氏:製作総指揮の「I am 日本人」の劇場公開も来月に迫ってきている。
森田健作氏と同じ事務所だからなのか、それとも当地出身だからなのか、4月6日の日記に書いた小野真弓ちゃんもこの映画に出演しているのだ。

...とか思いながら、今ちらっと「亡国のイージス」と一緒に借りた「戦国自衛隊1549」のキャストをみてたら....「綾瀬はるか」って出ているじゃんexclamation&question全然知らなかったf(^、^;

今日はもう遅いから、来週の土曜の返却までに見てみよっとたらーっ(汗)

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タグ:綾瀬はるか

2006年07月04日

posted by たすけ at 02:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山市名都借の紫陽花通り

流山チャンネル


6/29の記事を修正しようと思っていたらサーバーの緊急メンテが長いこと長いこと(泣)
待っている間に、どんどん記事を書き進めてしまった。

6月中に書ききれなかった記事や去年取り溜めた画像などもたくさんあるので、もうこの際、UPできる時にUPしちゃいます^^;
日付と記事が前後しますので、後に訂正があるかもです○┓(ペコリ)

...............................................

今日から7月だが、なんと今年の梅雨の気まぐれなことだろう。6月某日久々の梅雨らしい天気の中流山東部中の近所にある名都借(なづかり)の紫陽花通りに出かけた。
hydrangea01.jpg
やはり紫陽花には、雨と蝸牛が似合うと思うのだが、蝸牛をUPに背景に紫陽花とのアングルを狙ったのだが、なかなかカタツムリを見つけることができなかった。

それにしても、我が町流山の市内には小さな緑地を工夫したほっとする空間がけっこう多い。
私自身も、散策の途中で手入れの良いお庭を見ると感心してつい見入ってしまうのだが、その横に「空き巣に注意」とか、目玉を2つ並べた「防犯ポスター」などに気がつくと、なんだか居心地が悪くて足早にその場を離れてしまう。

いかにも、カメラマンみたいな格好で撮っていれば怪しまれずに、そんな家の生垣や素敵なお庭を撮らせてもらえるかなぁ?いや、そっと通り過ぎる時の風情を楽しむだけに心がけていたほうが無難かな^^;

あじさい通りについては
東葛飾人的道楽 や
手賀沼まったりチャリンカー 
さんのブログできれいな画像と共に紹介されいます♪

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2007年07月01日

posted by たすけ at 00:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山市(加、西平井、平和台)の風景

流山チャンネル


先日、流山市加にあるアンティグア手打ちそば「たけだ」を連チャンした時
流山橋に集合して、宿→根郷→加岸→の旧道を抜け流山文化会館前を通過
という順路でした。

流山のジモッティは
流山橋から上流にむかって流山市街地を宿→根郷→加岸と呼んでいます。
宿(しゅく)=江戸時代当時、宿屋が多かったから。
根郷(ねごう)=街の要所や村落の中心地を根郷や本郷と呼ぶから。
加岸(かぎし)=加村の岸(加村岸)の略です。

例えば、流山5〜8丁目あたりが宿なのですが、現在の地番で区別するより
宿=赤城神社 根郷=浅間神社 加岸=大杉神社 の祭礼範囲(氏子衆)で
区分して考えるほうが的確です。

加岸の大杉神社の祭りが6月末に始まり、10月の赤城神社のお祭りまで、
子供の頃は各神社のお祭りで季節の訪れを感じていました。今回自転車仲間
とともに旧市街を通り、それぞれの神社の前を通過しながら、当時の思い出が
脳裏をかすめていました。

私は流山町加で生まれ、その後西平井に越し、西平井の一部はやがて平和台と
名称が変わりました。

旧加村には大小の神社がありますが、そのうち氏神様として敬意を込めて大宮
と呼ばれたのが、現在の平和台の中心に残された鎮守の森にある大宮神社です。
平和台にはもうひとつ、さらにわずかに残された鎮守の森に大原(だいばら)神社
があり、こちらは西平井の氏神様です。

↓40年以上前、下のような平和台の造成が進む中で、流山小学校に通っていた
私は低学年時(西平井住所)は大原神社の坂道を下っていましたが、西平井の
一部が平和台と名称が変わった頃には、大宮神社の下のメイン通りで、現在の
TX(つくばエクスプレス)流山セントラルパーク駅につながる道を通学路と
していました。(もちろん当時は流山北小はありません)
40年前の平和台
流山市(加、西平井、平和台)
緑色の範囲が上の空撮写真の方向と範囲です。↑
私が小さい頃は、平和台駅ではなく赤城駅→赤城台駅と名称で赤城神社が
駅名の由来でした。
今ではすっかり平和台の地名が定着していますが、宿、根郷、加岸の
ランドマークがそれぞれ、赤城神社、浅間神社、大杉神社
であったように
平和台のどこらあたりが昔の加であり、西平井であったかは、大宮神社や
大原神社が名残のランドマーク
になっています。

流山市加の竹林

アンティグア=アンティークですが、往時の『風景の骨董品』を探すのは
なかなか難しくなっていますが、アンティグアの後ろ残された竹林斜面は
幼い頃に筍を採らせてもらった面影がわずかに残っていました。

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2008年04月22日

posted by たすけ at 00:29 | Comment(6) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

利根運河の桜まつり2009

流山チャンネル


昨年2008年の利根運河の桜まつり(4/6)はうららかな好天に恵まれ、ちょうど満開の時期と重なり見事な景観でした。2009年の利根運河の桜まつり(4/5)も午後から好天に恵まれましたが六〜七分咲きでした。

利根運河の桜まつり2009
利根運河の桜,理科大対岸
利根運河の桜,におどり公園

...で。チーム東葛おーぷんBBSで来週の土・日でも花見は充分間に合うかも?と書きましたが昨日・今日のポカポカ陽気で一気に満開となってしまいました。今週一週間もずっと好天のポカポカ陽気ということですので、来週の土・日は散り際も過ぎているかも知れませんm(_ _)m

さて、私はこうした桜の名所も好きですが、人知れずひっそり咲く桜が大好きです。以下は常磐道流山IC近くの新川耕地に咲く五本の桜ですが、昨年はどんぴしゃの満開に遭遇したのですが、今年は六〜七分咲きだったので、先に盛りを迎えた菜の花と一緒の携帯カメラのフレームに収めてみました。

新川耕地の桜
新川耕地の桜
菜の花と桜

Au〜Au〜春うらら〜♪ Au〜Au〜溶け合って〜♪
因みに、Au〜を あぅ〜 と発音した人は田山雅充の"春うらら"を歌える世代ですね(笑)


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2009年04月06日

posted by たすけ at 18:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山市立博物館と流山今昔物語(私的ですが^^;)

流山チャンネル


今日9月20日(日)は、流山市のイベント「関東の戦国時代」(講師:駿河台大学准教授黒田基樹)於流山生涯学習センター13時半〜に参加する前に、流山の城址めぐりもしくは、開催中の「流山の中世を探る」(流山市立博物館)を見学。午前10時半流山橋東詰め集合。という横山さん企画の歴史ポタに参加させて頂きました。講演の感想は後日ということで・・・

流山市立博物館

終点の流山市立博物館は予定通りだったのですが、途中道案内は『私に任せる』という横山隊長からの突然の命を受け、勝って知ったる地元を、短い時間ながらご案内させて頂きました。

以下、過去記事を流用してちょっと流山今昔物語をば^^;
今日のルートは流山橋に集合して、宿(赤城神社)→鰭ヶ崎(東福寺)→思井(熊野神社)→昼食(平和台の金太郎寿司)→旧西平井(大原神社)→中(流山生涯学習センター)→加(流山市立博物館)という順路だったのですが....だいたい下記の地図の中をぐるっと回った感じです。

heiwada_2005.gif

上が↑2005(平成17)年↑  下が↓1961(昭和36)年↓の同場所です。

nishihirai_1961.gif

流山のジモッティは、流山橋から上流にむかって流山市街地を宿→根郷→加岸と呼んでいます。また、木や加は短すぎるので、今でも木は木村。加は台地部分を加台と呼んで言います。

宿(しゅく)=江戸時代当時、宿屋が多かったから。
根郷(ねごう)=街の要所や村落の中心地を根郷や本郷と呼ぶから。
加岸(かぎし)=加村の岸(加村岸)の略です。

例えば、流山5〜8丁目あたりが宿なのですが、現在の地番で区別するより
宿=赤城神社 根郷=浅間神社 加岸=大杉神社 の祭礼範囲(氏子衆)で区分して呼称しています。加岸の大杉神社の祭りが6月末に始まり、10月の赤城神社のお祭りまで、子供の頃は各神社のお祭りで季節の訪れを感じていました。今回横山さん夫妻サスケハナさんご夫妻東葛人さん断腸亭髭爺さんら、自転車仲間とともに昔の通学路を通り、それぞれの神社の前を通過しながら、当時の思い出が脳裏をかすめていました。

私は流山町加で生まれ、その後西平井の宮本団地に越し、西平井の一部はやがて平和台と地名が変わりました。旧加村には大小の神社がありますが、そのうち氏神様として敬意を込めて大宮と呼ばれたのが、現在の平和台の中心に残された鎮守の森にある大宮神社です。平和台にはもうひとつ、さらにわずかに残された鎮守の森に大原(だいばら)神社があり、こちらは西平井の氏神様です。

40年以上前、下のような平和台の造成が進む中で、流山小学校に通っていまして、低学年時(西平井住所)は大原神社の坂道を下っていましたが、加と西平井の一部が平和台と名称が変わった頃には、大宮神社の下のメイン通りで、現在のTX(つくばエクスプレス)流山セントラルパーク駅につながる道を通学路としていました。平和台のどこらあたりが昔の加であり、西平井であったかは、大宮神社や大原神社が名残のランドマークになっています。

40年前の平和台

上の↑空撮写真↑の方向の範囲が下の↓緑色の範囲↓です。

流山市(加、西平井、平和台)

左下の流山小学校と右上の流山南部中を卒業した私ですが、私が小さい頃は、平和台駅ではなく赤城駅→赤城台駅の名称で赤城神社が駅名の由来でした。今ではすっかり平和台の地名(宅地開発会社の平和不動産が由来)が定着しています。

流山市立博物館に行く時に流山北小に続く細い坂道を下ったのですが、ちょうどその辺りにかつて私の生家がありました。左が流山市役所方面を撮った写真。右が流山運動公園方面を撮った写真。

流山市加の風景02流山市加の風景01


もともと、役場に近いメイン通りなので道幅はそれほど変わってなく、約50年前の写真と比較しても家並みの変化はありますが、風景の構図はそれほど変わってません...って。初めて行った方にはわかりませんよねぇ^^;

流山市立博物館のオープン講座では、すっかり常連になった(笑)東葛人さんに学芸員の方が、親しげに挨拶されて、その後丁寧に私たちにご説明して頂きました。

私は大学の卒論テーマを明治の流山の運河掘削事業と水上交通の衰退の予定したのですが、結局は当時の下宿周辺の『北区周辺における廃仏毀釈の考察と神社系統及び分布図』にしてしまったのですが^^;
途中まで進めた当初の卒論「利根運河の変遷」の資料収集に関して当時の流山市立博物館の研究員さんたちが、とても好意的に接して頂いたことに今更ながら深く感謝しています○┓


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タグ:流山市

2009年09月20日

posted by たすけ at 23:13 | Comment(7) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦国時代とノロシの香り

流山チャンネル


いきなりですが『熱血!平成教育学院』風に歴史問題です。
次のA・Bどちらの方が古い時代の出来事か答えなさい。
A.「土民が刀や槍を武器に一揆を起こした。」
B.「百姓が鎌や竹槍を武器に一揆を起こした。」


A.は土一揆の説明で室町(戦国)時代。B.は百姓一揆の説明で江戸時代。なので正解はA
要は秀吉による刀狩以前の戦国時代は、武士と農民の区別は曖昧であったことを問われている訳ですが、学校で教そわる歴史は、せいぜいこんな表面的な言い方だけであり、これが市民講座になると「誰もが人殺しをした時代」「何もしなければ餓死者がでる時代」なんて表題がついた講座になりまして..
それが先日の「関東の戦国時代」題した流山市立博物館の企画展「中世の流山を探る」に併せた記念講演でした。その講演内容と酷似したサイトがありましたのでご興味のある方は「戦国期農民の危機管理」をご参照ください。

090920_02.jpg

しかし、市民講座は難しいですねー。なんせ当日参加した自転車仲間の七人の侍は、現役の歴史作家&大学教授&歴史オタクの集団です(笑)これらの聴衆を満足させるには、相当なトピックスを用意していないと「ふ〜ん」で終わってしまいます。私的にはあえて脱線覚悟でもっとデフォルメした話を期待したのですが^^; 結局、抑揚のない真面目な話だけで終始していました。

つ〜わけで、ちょっと脱線話をしちゃいます(苦笑) 講演の中で『半手』というキーワードが出まして「へぇ〜」とためになりました。
「半済」は軍備兵糧が自前であった武士の為の時限立法だったものが、なし崩し的に全国に広がり武士の領地支配を促し、やがては荘園制度の終焉につながった取り決めですが、『半手』とは戦国時代に国境地域の住民(村人)が敵対する双方からの攻撃や略奪を免れるために、敵対する双方に年貢(税)を納める安全保障対策だそうです。
「例えれば、朝鮮半島の38度線付近に住んでいる村人が、韓国と北朝鮮の両国に納税している。」でもいつ何時、両国のどちらかが自分の村を襲ってくるかもしれないという危機感は常にあるわけで、安全保障の代償を納めた上でなお、応戦する武器も用意しているというカンジでしょうか。
現代日本で言えば、相当の安全保障の代償を米国に支払いつつ、自衛隊という防衛武装はしている訳で、いつの時代でもこのような状況はある訳ですね。...って。このまま脱線し続けると際限がなくなるので(苦笑)

090920_01.jpg

20日の集合場所の流山橋に向かう途中、新川耕地で田ノロシの風景(ノロシ=刈り取った稲を束にして干す稲掛)に出会いました。周辺に駐車していた作業をしていた方々の車のナンバーを見たら、ほとんど都内のナンバーでした。新川耕地では愛宕農園をはじめ体験農場が沢山あります。
私が7歳(昭和40年)の頃は、流山市は第一次産業人口(農家)は24%で、初秋の西平井や加の通学路は(現在の平和台付近)田ノロシだらけでした。写真の奥に見えるのは大原神社の鎮守の森です。

noroshi.jpg

干し稲の香りや籾殻を焼く煙りの臭いを嗅ぐと何故だかほっとする気持ちになります。実った稲を略奪が当たり前、自分で稲を作っても自ら食べることすら叶わなかった時代から500年。耕作者が居なくなった田を、江戸から来た人々が趣味として稲作をし、炊きたての銀シャリを食べることができる時代になりましたが、ノロシから漂う「稲干」の芳しき香りは500年前と変わらないんでしょうねー。


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2009年09月25日

posted by たすけ at 02:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山裏道ポタのエピソード1 / 万上味醂(堀切家)と天晴味醂(秋元家)

流山チャンネル


10/25の流山裏道ポタリングについて、全部ネタばれさせちゃうと当日の楽しみがなくなりますので...  味醂の町流山と、流山線のエピソードだけ簡単にご案内しておきますね。
当日は万上味醂(みりん)から出発して、ぐるっと地図の外を大回りして、最終的に天晴(あっぱれ)味醂に戻ってくるというルートなのですが...流山の町民鉄道として発足した流山線秋元家や堀切家などの味醂酒造家の財力がなかったら誕生してなかったでしょう。

1961(昭和36)年の流山市街地

1961(昭36)年当時の地図の赤い実線は流山線です。点線は流山線の引込線で両方ともすでに線路はありませんが万上味醂の工場に向かっている引込線は現在も道路として残っていますので名残は感じられると思います。
旧陸軍糧秣本廠流山出張所(糧秣本廠=りょうまつほんしょう)への引込線の当時の名残は全く残っていません。そこが元陸軍糧秣本廠であったという名残は石碑に残るのみです。もっとも私が、この陸軍糧秣本廠跡の脇にある流山幼稚園に通って居た頃は、すでに焼酎などを造る工場になっていて、行き帰りにその焼酎工場から漂ってくるサツマイモ?の匂いが苦手で、いまだに芋焼酎は苦手です(苦笑)

まだ平和台の造成が始まっていないので、飛地山の射撃場(クレー射撃)跡が写真でわかります。
大正時代に流山飛地山射撃場には西寄りに六つの射撃台があり、空薬莢があたりに散らばっていて、当時の子供たちは射撃練習が終ると、先を競って薬莢を拾い集めていた。この飛地山射撃場には、宮家がお忍びで来ていて宮様一行は、秋元家まで馬で来て射撃の練習をしたり、宿泊して日の出前後の江戸川の葦原で、鴨や鷭撃ちなどを楽しんでいた。

昭和33年生れの私は、もちろん空薬莢は拾っていませんよ(笑) ただ幼い頃に、この飛地山の中にあった洋館で紅茶をご馳走してもらったことがあり、まるでここの空間だけ軽井沢の別荘地のような場所であったことを記憶しています。

赤城山(赤城神社)境内の風情は今も変わっていませんが、天晴(あっぱれ)味醂発祥の地は→三楽オーシャン→メルシャン→現在更地となっており赤城山が流山街道から丸見えになっています。
この赤城神社からすぐがゴール地点の旧流山橋になります。いつまでも旧橋桁が撤去されないのは、終戦時に旧日本軍が橋脚下に爆弾を処分したという噂があったからですが....

旧流山橋に投棄.jpg

実際に大量の小銃弾・機関銃弾・砲弾や銃剣・機関銃などが自衛隊によって発見された時はさすがに仰天しました。

流山裏道ポタではTX(つくばエクスプレス)開通によって分断されてしまった旧道を多く走りますが...TXの影響で、我が愛すべき流山線もかなり経営が苦しくなっているようです。
十数年後、この写真の実線が点線に変わらないことを祈るばかりです。


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タグ:流山線 味醂

2009年10月21日

posted by たすけ at 21:47 | Comment(12) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流山裏道ポタのエピソード2 / 大正時代の自転車乗り

流山チャンネル


昨夏に103企画で行われた手賀沼再発見ポタでは、文豪志賀直哉が無類の自転車好きで、大正時代自転車乗りの様子などにも触れましたが、我が郷土流山の無類の自転車好きのエピソードをば。

流山市の宿(しゅく)にある一茶双樹記念館は「小林一茶寄寓の地」として、流山の味醂酒造家の五代目秋元三左衛門(俳号双樹)に因んで命名されていますが、そこの館長の I さんが、筋金入りの旧車フリークで秋元洒汀生誕140年記念では、100年前のスポーツ自転車を展示していますよ!と先月にらんどなあさんから教えて頂きました。

※秋元一族は、本家は代々秋元三左衛門を襲名し、分家では秋元平八を襲名します。
エピソード1でご紹介した秋元良尚は、10代目秋元三左衛門で。
エピソード2でご紹介する秋元洒汀は、5代目秋元平八になります。

曙輪友会5代目秋元平八は流山町民鉄道の設立時にリーダーとして担ぎ出された訳ですがその理由が無類の自転車好きであったということにも一因があります。
流山では1900年(明治33年)頃に自転車が流行り出しましたが、平八は自転車に夢中になり、自転車を趣味とする人たちの親睦会「曙輪友会」(あけぼのりんゆうかい)が発足した際に、その会長の座につきました。そして、ツーリングに出かけたり、各地のロードレースにも参加し、なんと自ら自転車競技場を建設し、自転車レースも主催したということです。


大正時代のサイクリング

この写真は「曙輪友会」のメンバーかどうか不明ですが、大正12年に流山から成田山ポタに行く直前に撮影されたものとのことで...ん〜、いかにも大正時代の自転車乗りって出で立ちですね〜。

大正時代のロードレース

この写真は、大正時代中頃に東葛地区で開催されたロードレースの一コマで野田市内で撮影されたとのことで...とても大正時代とは思えないスポーティーな姿ですよね!いつの時代もローディさんは格好いいですね〜。

それにしても...
自転車を趣味とする人たちの親睦会「曙輪友会」...って。まさに元祖チーム東葛ですね!
そういえば、某コミッショナーさんも自転車・カメラ・歴史・美術とまさに道楽の極みで、もしかして5代目秋元平八の生まれ変わり?なんて思ってしまうのは私だけでしょうか?(笑)


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2009年10月22日

posted by たすけ at 19:25 | Comment(8) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三輪野山貝塚と縄文パラダイム

流山チャンネル


題名の縄文パラダイムとは、先日★かしわで(地産・地消の農産物直売所)で購入した、山菜おこわと田舎饅頭を食べながら妄想していたことです・・・

先土器〜縄文〜弥生〜大和(古墳)の時代の変遷で...中国が春秋戦国時代から始皇帝による統一王朝が確立される前後に、数多の中国人や朝鮮人が戦禍を避けて日本に渡り...稲作や進んだ文明を伝播しながら、緩やかに縄文人(日本先住民)と融合しながら弥生人が形成され、今日の日本人に至り...同時に日本国内で侵略と覇権の歴史が始まるわけで、まぁ弥生〜大和(古墳)のあたりは記紀の神話に拠るとして。

約1万年も続いた縄文時代の生活スタイルは地産地消・共同分配であり、富の蓄財や身分の区別もない友愛な時代で、逆に言えば食べていくだけに必死な時代であり、争っている暇などない時代と言えるかもしれませんが...いずれにしても、TV番組などで現代世界の中で未開の地と言われる原住民の人々が地産地消・共同分配で自然と調和しながら生きる友愛パラダイムがまさに縄文パラダイムだと思うわけです。

10.01.16_01.jpg

この画像は、環状盛土遺構の発見で古代史フリークの間では有名な流山市三輪野山貝塚の案内版です。遺構と言っても発掘後は丁寧に埋め戻してただの空き地になっているだけですので、ほとんど気づかれる人は少ないようです。埋め戻し前の画像は→こちら by[さわらび通信]

因みに●流山市ふるさと入門講座考古学コース(全4回)では
概要  発掘調査で明らかになった流山の遺跡についての話として

第1回  流山の遺跡  小栗信一郎(当館学芸員)
     平成21年12月13日(日) 13時30分〜15時30分

第2回  三輪野山貝塚の発掘調査から  小川勝和(当館学芸員)
     平成22年1月17日(日)  13時30分〜15時30分

第3回  流山の古墳  増崎勝仁(当館学芸員)
     平成22年1月24日(日)  13時30分〜15時30分

第4回  流山の古代農民の生活と文化  松浦宥一郎(日本考古学協会員)
     平成22年1月31日(日)  13時30分〜15時30分

会場   流山市中央図書館会議室
対象   一般
定員   50名
費用   200円(4回分資料代として)

なのですが、申込みはすでに終了しているようです。

三輪野山(みわのやま)の由来は、西より来た人々がこの周辺の地形が奈良の三輪山周辺に良く似ているとのことで、大和三輪の大神神社を勧請した茂侶神社(三輪神社)も祀られていますが...
それはともかくとしても、この地は古東京湾に面した高台で、海の幸・山の幸に恵まれていて、古代人(縄文人)にとっても、とても住み良い環境であったことには間違いないと思います。

流山南部中の裏手ある三輪野山の森は、幼い頃は昼なお暗い森で、その中心には底なし沼のような湧池がありました。おそらく三輪野山縄文人はこの湧池から水を汲んでいたんだろうなと、中学校の時に歴史を学んだ頃に妄想しておりました。

10.01.16_02.jpg

今はその湧池もすっかり埋められてしまい、うっそうとした森も間引きや下草刈を行い静かな公園に変わっています。

10.01.16_03.jpg

古東京湾を見下ろす三輪野山の高台の一部にはこうしたフィールドアスレチックが整備されて子供達の遊び場となっていますが、せっかくならばこうした遊具のほかに、ここはかつて古代人が自然と調和しながら暮らしていた場所なんだよ...とわかるような竪穴式住居風滑り台とか高床式倉庫風ログハウスとか..そんな遊具を作ればいいんじゃないかなぁ..などと。いつも妄想ばかりしながらポタリングをしている私なのであります(笑)


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2010年01月16日

posted by たすけ at 10:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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