相馬流れ山 習いたかござれ

流山チャンネル

習いたかござれ ≒ 演習またやりたいなぁ、懐かしいなぁ。

相馬野馬追.jpg

相馬流れ山は、相馬野馬追に欠かせない民謡ですが、流れ山とは相馬藩主(現福島県:相馬市・南相馬市・双葉郡)のふるさと(現千葉県:流山市)の地名に由来。
鎌倉時代末期(1323年)に、相馬重胤が奥州(福島)に下向した際、ふるさと流れ山で演習していた野馬追いを偲び、恋し懐かしと口ずさんだものがいつしか節となって歌われたものであるといわれています。

...でも

相馬氏とか相馬重胤...ってどんな人?⇒【相馬氏惣領 相馬重胤】
相馬重胤のふるさとは流山ではない!⇒【相馬のふるさとは流山にあらず】

ま、そんな訳なのですが^^;
これじゃ、あまりに他力本願なので、もうちょっと私なりに付け加えておきます。

千葉県に習志野市がありますが習志野=演習場で、習志野に限らず千葉県の下総台地は平安時代から軍馬育成の放牧場であり演習場でした。江戸時代になっても、小金牧(5牧)や佐倉牧などが残り、現在でもそこかしこに牧の名残である、野馬土手が残っています。


さて、流れ山ですが・・・
東葛人さんの仰る通り、私も流れ山=赤城山(赤城神社)だと思っています。

赤城神社例大祭
2013年の赤城神社例大祭は10月20日(日)です(^^)

流山(流山本町1〜9丁目)周辺は、江戸時代の利根川東遷以後に繁栄した地域で、相馬重胤が柏市の増尾あるいは東葛地区のどこかで暮らしていた頃(鎌倉末期)は、湿地帯の中に細長い自然堤防や砂州(中洲)があったくらいでしょう。
大きな台風でも来れば、あっという間に水浸しになるような場所で、とても武家が館を構えることのできるような地勢ではありません。それに流山の赤城山はどうみても不自然な存在です。巨大台風(洪水)で土砂が流れたといっても15mの高さにはならないでしょう。

流山市本町市街地地図

・・・で。ここから妄想話ですが。
おそらく、中洲の小高い部分に更に盛土して小山を築き、見張り台兼、演習目的地にしたのではないかと?西平井の坂を駆け下り一気に愛馬を走らせて、小山の頂上に誰が一番速く辿り着くか?なんて演習の為に人工的に作った小山なんじゃないかなぁ。

ほら、今でも児童公園にちょっとした小山を築いて子供たちを遊ばせるじゃないですか。私が流山小学校5〜6年生の時にも、校庭の隅っこに小山が築かれて、そこでよく遊んだものです。相馬重胤も子供時代に、この中州に築いた小山、なかすやま⇒ながれやま を目指して馬を駆ったかもしれません(^^)

では、誰がこの中州山を築いたのか?
千葉家から分家した相馬家初代の相馬師常の六男に、常家(六郎)がいました。常家は、葛飾郡八木郷(現.流山セントラルパーク駅〜流山おおたかの森駅周辺)を領して、八木(矢木)常家となりました。この八木家には、日蓮直筆の「立正安国論」が与えられていますが、現在は市川市の中山法華経寺に現存しています。

■流山市内の日蓮宗寺院を列挙すると・・・
・法栄寺 流山市駒木台185
・成顕寺 流山市駒木224
・浄蓮寺 流山市野々下159
・本妙寺 流山市後平井127
・本覺寺 流山市西平井1432
・本行寺 流山市平和台5-19-22
・常与寺 流山市流山2-130-1

流山本町(根郷)の常与寺以外は、ほぼ矢木家の領地と合致します。
領主が変わっても民の信仰は、そうそう変わることがない好例ですね。

つまりは、相馬家本流ではありませんが、流山市に相馬家があったことには間違いなさそうで、この矢木家の時代(鎌倉時代初期)に、西平井の先の中洲(現流山6丁目)に小山を築き見張り台としたのかも?当然、そんな軍事目的の施設を無断で造れば、問題となってしまうので・・・

「え?この山?なんかねぇ、洪水で偶然出来ちゃったのよ♪」
と、とぼけたのかも?(^^;)

まだ江戸川のない時代ですが、大洪水で群馬県の赤城山から、利根川or渡良瀬川〜太日川づいたに御札が漂着するのはあり得る話で、見張り台のカモフラージュ、もしくはその役割を終えてから、ここに赤城神社を創設した・・・って事じゃないかなぁ。と、私は考えています。

常磐線や常磐自動車で、東京・埼玉から千葉に入ると、すぐに下総台地が広がっています。江戸川土手をサイクリングしていれば、千葉側はこんもりとした斜面林(下総台地の端)が続き、そこからは武蔵の国を広く見渡せます。

私自身は小学生時代、西平井(現.平和台4丁目)の高台から、赤城山の向こうに広がる東京・埼玉方面を見渡し、秋〜冬は丹沢連峰の向こうに見える富士山や秩父連山や榛名連峰をよく眺めていました。

おそらく、少年時代の相馬重胤も、野馬追いの後に流山市の西平井や鰭ケ崎まで馬を走らせ、同じ風景を眺めていたのだろうなぁ・・・と(^^;)

相馬流れ山♪ 習いたかござれ♪


追記&補足:
youtubeで2013年の相馬野馬追の動画や関連サイトを見ていたら・・・
「相馬野馬追」は、1000年以上前の平将門時代に、現在の千葉県の流山地域で始まった甲冑を身にまとい馬にのった武士が野馬を敵と見立てて争う武道稽古のひとつである。
って説明が多いのですけど、坂東市(岩井)の人が読んだら、どう感じるのかなぁ。

私が学生時代、地方の友達に(都内出身の友達でも)...「出身は流山」と言っても地理的位置がよくわからないらしく、【柏のあたり】...と伝えると『あぁ〜常磐線のあのあたりか?』と合点したようで(苦笑)
それが江戸時代中期では『柏?どこそれ?』となり、味醂で栄えていた『流山あたり』と伝えた方が地理的位置がわかりやすかったので、小金牧の説明で【流山あたり】と説明したほうが、合点がいったのかもしれませんね^^;

千葉氏や千葉氏から分家した相馬氏もまた、平将門の血筋。...っていうのはちょっと無理があるとは思いますが、将門一門も、相馬一門も、軍馬を飼い演習はしていたでしょうから...

・坂東市からみれば1100年の伝統
・鎌ヶ谷市からみれば600年ぶりの野馬追
というのは間違いではないと思いますけどね(^^;)



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2013年10月17日

posted by たすけ at 08:05 | Comment(2) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
中洲山の妄想、なるほどー。おもしろく読ませていただきました。洪水でできたと、とぼけるあたりでお家とり潰しかもしれませんが(^^;)
あと、群馬の赤城山と流山の赤城山の植生が一致すると言われているんですよね。そこさえクリアできれば、中洲山説もありです。
こういう推理のおもしろさを小学生の時に知っていれば、自由研究とか楽しくできたんだろうなーと(^^)
ちなみに鉄道ができる前まではやはり流山は裕福だったらしく、古典落語にも「流山の若旦那」とかが出てきます。
Posted by PRINCOちゃん at 2013年10月19日 13:26
>PRINCOちゃん
中洲山なかすやま⇒ながすやま⇒ながれやま
 は、町史にも書かれている説です(^^)

流山本町が砂州と自然堤防の上に成り立っているのは、ほぼ間違いないと思うのですが
赤城山が、鎌倉期に洪水後の土砂を積み上げたのか?水田水路開削の土を盛ったのか?
まぁ、それに少し妄想を加えてみました^^;

植生は特に笹の事だと思うのですが、土留に笹はよく使うので
人為的に群馬の笹を植えたのか?流れ着いた笹が自生したのか?

まぁ、いずれにしても神事にまつわることはあやふやなままの方が楽しいですね(^^)


知らず知らず 歩いて来た 細く長い この町
振り返れば 遥か遠く 故郷が見える

でこぼこ道が 都市計画で無くなり
地図にさえない それもまた人生
ああ 山の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて

ああ 山の流れのようにぃ〜♪(^^;)
Posted by たすけ at 2013年10月20日 00:47
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