C623復活に夢をかけた少年の話 / 大いなる旅路

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C623復活に夢をかけた少年の話の前に少し解説をば。
※注.リンク先の動画はいずれ削除されるかもしれません。
 かなり長い動画もあるのでご興味のある方は、時間のある時にでもご参照ください。

鉄道ファン(SLファン)なら説明不要なのですが・・・
日本の機関車史上、1,115両と最も多く製造されたのがD51形(デゴイチ)
通称「貴婦人」と呼ばれ、戦前から201両製造されのが蒸気機関車がC57形(シゴナナ)

ここに⇒昭和15年制作のC57に関する動画(44分)があります。
蒸気機関車を動かすために、如何に多くの訓練や労苦が必要というのがよくわかります。

蒸気機関車の「CとかDとか」って何?⇒こちらのイラストわかりやすいです。
ABCD⇒1234 つまり、C=動輪が3つ D=動輪が4つです。
自転車乗りなら体感しているのですが、車輪が大きいほど高速運転が可能です。
C形(動輪3つ)は主に旅客用。D形(動輪4つ)は主に貨物輸送と考えてください。

終戦後、旅客用牽引用SLが圧倒的に不足してた日本でしたが、GHQの許可なしに新造できなかったので、苦肉の策として余剰となっていたD51形やD52形を改造したのがC61形やC62形です。特にC62形(シロクニ)は、特急・急行列車の牽引を目的に全49両生産(=改造)されました。
このうち、C6217号(=C62型17番目)は、狭軌による世界最高速度129km/hを記録した蒸気機関車であり、この記録は蒸気機関車としては未だに破られていません。(もう、破られることも無いでしょう。)
また、C62形は銀河鉄道999のモデルとしても知られていて、鉄道ファンにとって特別な存在です。

C62(シロクニ)に深化(特化)したサイトは⇒こちらがおすすめ
ここに⇒函館本線を走っていたC62重連の動画があります。(全43分)
こちらは同短編⇒雪の峠に挑むC62重連の動画【函館本線】(10分)

重連とは2両の機関車を連結して客車を牽引することですが、スピードを優先するC62にとってその重い体重(自重)は致命的で、その為に寒冷地(=車輪がスリップしやすい)で、しかも峠越えの多いこの路線(山線の方)ではトルクのあるD51との重連や、C62同士の重連という形で運用されていました。
そして1971年(昭和46年)の「さよならC62三重連」を最後に、栄光のSLC62は現役を引退。その後臨時(記念)列車として、1972年8月に小樽-岩見沢館でC622が「さよならC62号」を経て、京都の梅小路機関車館へ。C623は同年9月の小樽-長万部間の普通列車牽引を最後に、小樽市手宮の北海道鉄道記念館(=小樽交通記念館 )で休眠につくことになります。



ここからがC623復活に夢をかけた少年の本題です。
国鉄の分割民営化以降、復活した最大の蒸気機関車で、最初に市民主導で実現し、ボランティアがSL運行に直接参加した初のケースが、北海道鉄道文化協議会のC623復活計画でした。

以下は、【走将C623の序章・邂逅】からの抜粋
彼がC623機に出会ったのは、昭和56(1981)年7月28日の正午だった。
親戚の葬式と言う名目で上野から寝台特急「はくつる」に飛び乗ったのは一昨日だった。
8月には仲間達と道内旅行を楽しむ事としていたが、ホームで5M車中に消える彼の姿を見て、仲間達は地平第二ホーム(15番線)に参集してきた。皆、彼と同じ日本トレインクラブのメンバーで、日本国有鉄道上野駅学生臨時雇用員(臨雇)の仲間達であった

レール上に置いてあった99.95tのC623機は、黒く後志の真夏の太陽を浴びて輝いていた。傍らに「小樽築港機関区」と書かれたトラックが停まっていて、国鉄職員達が一服していた。

「これ、もう走れないんですよね?」
「SLは部品換えて、ちゃんとお守すれば幾らでも走るさ、百年や二百年位・・」
「ええっ?百年ですか?それは無理では・・・」
「いやいや、蒸機はな、部品を換えて手入れすりゃ、なんぼでも走るよ、特にコイツは最後までウチに居て、言う事聞く奴だったから、まだまだやれるべ」


高校生が何が出来るのだろうか・・・普通の人間ならばそう考えたろう、しかし彼は違った。
そう・・・一旦執着すると寝食無関係にのめり込む・・・本物の馬鹿だった。

以下は、【走将C623の宿命・転換】からの抜粋
秋葉原の交通博物館のC57135の前で動輪を眺めていた少年は、隣の老人に声を掛けた。
「こんなのが走ったら、凄いですけれど
C62はもっと大きいんです。御存知ですか?」

彼は見学に来た一人の老人と思ってこんな事を言ったのだが、老人は
「C62ですか・・・」
「ええ、小樽のC623の走るのを見てみたいと思っておりまして・・・」
「君、面白そうな話ですね・・・ちょっと松澤君、彼を部屋へ・・・」

そして老人は「財団法人交通文化振興財団会長」と書かれた名刺を渡した・・・

少年はあの夏の日にC623機と出会ってからC623機に取り憑かれてしまった。
本当に本気の馬鹿になったのであった。日本トレインクラブの仲間達にC623機復活をぶち上げてやはり馬鹿!と言われたのだが、その11月28日には北海道鉄道研究部を立ち上げて、翌年には北海道鉄道研究会として独立して「C623機復活」をテーマとして追い掛けていた。

仲間達は国鉄新規採用停止で国鉄を諦め、臨雇を去り民鉄に散ったが、彼だけは最後まで国鉄と上野駅に留まりたい!と頑固だった。誰もが同じ気持ちではあったから、誰も説得も説教もしなかった。が、C623機だけは皆一様に諌めた。

「俺達に何が出来る?どんなに銭掛かるか知らないんだぜ」
「なら、銭の掛からないところで攻めるよ」


散々罵倒された。しかし、怯まなかった。むしろ罵倒されればその反論を一生懸命考えて、法律的と言われれば図書館に通い詰めてその突破口を探した。

その結論が、「鉄道輸送警備隊」だった。運行に際して最も危倶されるのは群集する鉄道マニアで、その警備は彼等の行動を警備会社や警察が把握しにくいだけに困難で、また警備費だけで復元費用に相当する事も解った。問題はそれに「悪戯」が横行している事だった。

沿線で人の家の庭や畑を踏み荒らす、道路やレールにまで鈴生りになって列車を停めてしまう事もあったし、SLを撮る為に対向列車に接触して死亡する事件などもあった。SLにとって何よりの敵は「事故」だと認識した。であれば、ボランティアの警備チームを配置して事故や犯罪を防圧しよう、と考えたのだ。

それと並行して、SL企画のスタイルも研究していた。国鉄がこんな状態ではとてもSLなんて言い出せない、ならば民間主導の「主催型」=オーダーメイド列車で実施する方法は?となり、その実験としてその8月に北海道で団体専用臨時列車の運行の準備をしていたのだった。その資材を買いに行った秋葉原で交通博物館に立ち寄ったものである。

以下は、【ぐらふぃてぃC623】からの抜粋
昭和62年1月、始めて「小樽SL復活の会」の人と直に初めて会ったのは、札幌京王プラザホテルのティーサロンでした。
「僕達は真剣です、君は真剣ですか?」
「真剣です。」
「この機会を逃したら二度とC62の本当に走る姿は見られないと思いますから」
「何の為に、真剣になれるの?」
「君は小樽の人間でも、これで金儲けが出来る訳でも無いのに?」
「国鉄人として・・・」
「一瞬でも良いから本物の国鉄人として生きた証しを残したいんです!」

うっすらと渡部さんが涙ぐみ、工藤さんは満面の笑顔になってくれました。

少年が最初にこの計画に「接触」したのは昭和61年の4月初旬だった。
友人からの情報で小樽築港機関区C623機計画を知り、そもそも以前から「C623機復活に向けての列車運行=団体専用臨時列車の研究」として、とにかく道内で一本列車を仕立てる事として、その準備をしている最中の事であった。

以来4ヶ月余、初めて接した「小樽の先輩」達は、私の馬鹿が単なる馬鹿で無く、真剣に大馬鹿である事を知ってくれて、「仲間」と呼んで受け入れてくれた。
当初の「C623機」計画では、小樽〜倶知安間を1日1往復、年間90日程度として、14系客車6Bで「臨時急行」としたものだった。 とにかくC623機を「本線」に復活させる為の「理由付け」でしか無かったものだが、馬鹿は馬鹿なりに早速噛み付いた。

「在来型一般車で無ければ、全国区のSLにはなりませんよ、それにニセコと言い、急行とするならば食堂車か軽食喫茶は必要です。日本最大最速最美と言っても、それだけではアピールが弱いのでは?」
「在来型一般車、ですか?」
「食堂って、それは珈琲の飲める?」
「はい!イメージとしては喫茶店です。」


で、3人黙った。実は既にこの時に上島珈琲本社(UCC)のタイアップは決定していたのだ、しかしその時点で私はそれを知らなかった。

「君が考えるのは、どんな汽車?」
「はい、通常は小樽〜倶知安で在来型一般車5両程度、1両は内装を換えて食堂車にします・・・蒸気機関車は小樽から倶知安か、皿(転車台)の残っている長万部まで・・・来年には青函トンネルも出来るので、函館には随分観光客も行くでしょうから、その御客様を小樽へ直接引っ張る為に・・・」

以上は【走将C623】のコンテンツのごく一部からの抜粋です。
詳細は【走将C623】のメイン頁⇒こちらからお読みください。

あまりに長い旅路なので、かなり省略していますが、C623復活に夢をかけた少年の構想は
単にC623を復活して走らせることでなく、それを導線として沿線の観光産業を活性化させる(=現在の町おこし構想)であったことに、大人たちは驚愕したのでした。

1981年(昭和56)年7月
手宮の鉄道記念館で眠っていたC623号に少年が出会ってから7年後
1988年(昭和63年)4月25日、奇跡の復活を遂げ、15年ぶりに小樽・倶知安間を走りました。
『快速C62ニセコ号の記録上は
 運転開始日が1988年(昭和63年)4月29日で、運転終了日が1995年(平成16年)11月3日)』
奇しくも7年間の復活劇でした。

C623の復活までの道程で、最も大きなエポックは、国鉄の分割民営化=JR誕生です。最盛期に46万人居た国鉄職員は1986年(昭和61年)には、合理化に伴い28万人弱に縮小しましたが、1987年(昭和62年)の国鉄⇒JR分割民営化に向けて20万人への人員整理(リストラ)が必要でした。

多くの人員を必要とするSL運行は、そんな状況で特に赤字路線を多く抱える北海道でC623の復活など、夢のまた夢の話でした。そんな夢物語が実現したのは、元国鉄マン(機関区の人々)の情熱と、C623復活に夢をかける民間人(北海道鉄道文化協議会)の協働があればこそでした。



これは、国鉄最後の日1987年(昭和62年)の3月31日から、JR誕生の4月1日午前0時に変わる時の動画です。この中に北海道・小樽運転区で息を吹き返したC623が登場します。鉄道員(ぽっぽや)の意地と心意気で、1年後のC623通常運行に備えてC623は準備を整えていました。
この現場に、もはや青年となった【C623復活に夢をかけた少年】を居て、感涙にむせんでいました。 
ボーッ!
走将・C623機は甦った。
その汽笛は不可能を可能にした人間勝利を宣言する、走将の獅子吼だった。
昭和62(1987)年3月31日23時59分。
会場に螢の光が流れた。日本国有鉄道の幕を閉じる惜別の歌である。
彼は独り電気機関車庫の方に歩いた。誰にも眼に付かない所へ・・・そして、号泣した。もう二度と戻れない母なる日本国有鉄道、そしてC623機の復活にただ無心だった5年間・・・そして今、夢は現実になった。複雑な思いを大声で泣いて掻き捨てようとした

こうして手宮の鉄道記念館で眠っていたC623号機は翌年、1988年(昭和63年)4月25日、奇跡の復活を遂げ、15年ぶりに小樽・倶知安間を走りました。
このC623ニセコ号の画像は数多くの鉄道ファンの方々がHPやブログにアップされています。おすすめは⇒こちら

C623の復活運行には
機関士・整備士というベテラン鉄道員の情熱がなかったら、実現しなかったでしょう。
しかし、C623ニセコ号の運行母体は、JR北海道でなく1987年(昭和62)に発足した、任意団体・北海道鉄道文化協議会(略称:鉄文協)であり、鉄文教の最終目的が東洋一と言われた 「小樽築港機関区の扇形庫」 の保存と存続であったことを知る方は、数少ないと思います。

鉄文協の会長は、小樽の中澤漁網社長の中澤信行氏
副会長には、上島珈琲の上島達司社長とハドソンの工藤裕司社長
専務理事兼任事務局長として、工藤竜男氏
でしたが
C623復活に誰よりも情熱を傾け、大人たちにアイディア(企画)を提供した
【C623復活に夢をかけた少年】吉野俊太郎氏を知る方はさらに少ないでしょう。



こちらが小雪まじりの雨の日に、倶知安(くっちゃん)峠を登る、復活したC623(=快速C62ニセコ号)で、同場所で乗客側が撮った動画が⇒こちら
単独で山線(峠越え)を運行するために、C623は軽量化の改造が行われましたが、それでも『滑り止めの砂を撒きながら登坂しても、空転(車輪の空回り)しています。』
雪の中を走るSLは絵になり、そんな姿を鉄道ファンは望みますが、吉野氏曰く、最大最速の機関車とは『小錦がハイヒールを履いて走るようなものです』という言葉が、滑りやすい冬期の線路を高速仕様に造られたSLが登坂することの難しさをよく表しています。

吉野俊太郎氏は、C623ニセコ号運行時は、【鉄道輸送警備隊ボランティア】のリーダー役を引き受けました。鉄道輸送警備隊ボランティアは、列車の安全運行のために、危険個所で撮影をしようとする鉄道ファンを整理・排除したり、危険行為を及ぼす乗客を監視する、鉄道ファンから、最も疎まれる(=嫌われ役)の損な役回りです。

「何故?そんな嫌われ役のリーダーになったのですか?」
「警備してもお金にもならないし、絶対損な役回りですよね?」
「たすけさん、鉄道運行の第一義は安全なのですよ。」
「もし事故でも起こったらせっかく復活した運行が駄目になります。」
「それに、警備会社に委託したらそれだけ費用がかさみます」


吉野俊太郎氏は、常在戦場!〜安房守義将之勝手御免〜というブログを綴っていますが、その中の⇒こちらの記事中
鉄道の乗車券は入場券では無い。
 その表記された区間に於いて、旅客や貨物の運送を引き受けた契約書であり、有価証券なのである。
新幹線はその利便性追加の付加条件でしか無い。
本来は乗車券のみでその区間の運送をする責任があるのだ。
という一節を書いています。この言葉に吉野氏の鉄道員魂(国鉄魂)を見た気がしました。

引用を多用して、長々書きましたが、私が吉野氏(=安房守義将)に対してもっとも驚愕した点は、C623の再々復活を本気で考えていることでした。
法人と言う事もそうだがどうすればC623機とNPOが繋がるか・・・
一度まとめたPHOENIXプランの企画書を書き直し、2002年11月3日には今までの事を明白に報告し、鉄文協を一旦総括した上で、旗揚げしたい・・・

そして、私はもう一人の師匠にその報告をする為にJR東日本飯田橋駅に降り立った。
「君が何処までやれるか、期待してます。」
誰かに命令される訳でも、動かされている訳でも無い。
しかし私には果たさなければ成らない「義」がある。
「老いたる同志の築きたる誉の軌道をいざ護り抜け」

今まで公表も報道もされては居ないが、確かに「不可能を可能」にした人達が居る。その名誉と「確かに此処に生きた」証を立てる為に、C623機は断じて「過去のもの」とはしない。
それが私達の「義」でありますから・・・。
かくして2003年(平成14年)6月に
吉野俊太郎氏はNPO法人【特定非営利活動法人 交通文化連盟】を設立しました。

以下は、本文には長するので割愛した、C623復活と破綻のエピソードです。
しかし、これらは【走将C623】コンテンツのほんの一部に過ぎません

C623復活への問題点
高速で長編成の旅客列車を牽引する為には強力な馬力が必要で、C62型式は設計限界ぎりぎりまでボイラーも機体も大きくした。故に重量も大きくなった。単に重いだけでも軌道に負担を掛けるのに、それが時速100キロでレールを「引っぱたく」のである。鉄道では「軌道破壊」と呼んでいるが、まさに「破壊」してしまう勢いなのだ。

その「引っぱたき」に耐えるには軌道を重くて太いものにするのだが、軌道が重いものになるならば、道床も厚くし鉄橋も強度を高めなければならない。道床が盛り上がる分トンネルも拡張しなければならない・・・と、単に機関車を大きくすれば良い、と言う簡単な訳にはいかないのである。

大正13(1924)年蘭越町で生れて昭和15(1940)年4月から小樽築港機関区で機関士、そして検修技師の道を歩んだ山下仁郎は、保線区に努めていた実兄から保線区がC62転用に猛反対した話を聞いていた。山線には未だ細いレールも多い。軌道強化も完全では無いのに、平坦な東海道本線で特急を引く為に作られた未知の大形蒸気機関車が、高速であの急勾配・急曲線が連続する峠道を走るのだ、軌道破壊は想像を絶する。
「どうしてもと言うなら俺は辞める!」
と保線区長が言う程のその巨体がやって来たのである。
蒸気機関車の復元費用はC623機とその他の蒸気機関車では差異がある。それはC623機が巨大だからでは無い。自動給炭器の有無がその差の種なのだが、その他の運行経費(ランニングコスト)は使用する燃費に差がある程度で実は余り変わらない。
勿論専門的技術はどの機関車にも独特のものがあるので「特にC623機は大変」とは言い難く、またC623機破綻の原因を「巨体故にランニングコストがこれまた巨額になり続けられなくなった」だけとするのは誤りである。

C623運行破綻の理由
1987年(昭和62年)4月7日に、小樽運転所から苗穂工場に移送されたC623機は本格的復元工事に入った。北海道鉄道文化協議会・・・実質は工藤一人だったがJR北海道やスポンサーの間を駆け回り、運行の準備を進めていた。しかし、その過程で既に後年の破綻の種は確実に植えられていたのである。工藤も他のメンバーも、JR北海道自体も気がつかないままに・・・

4月30日にJR北海道と北海道鉄道文化協議会事務局長は「蒸気機関車C623号機の復元運転に係わる覚書」「覚書に対するメモ」を締結した。
これは知らない者なら単なる覚書なのだが、この中にC62列車の精算に関する事項があり、要約すると「客車は5両でうち1両は上島珈琲が改造費と運営を受け持つカフェカーとして、残り4両のうち3両を北海道鉄道文化協議会が、1両をJR北海道が販売し、原則として320席×往復の小樽〜倶知安間大人普通旅客運賃+指定席料金を北海道鉄道文化協議会が買い上げるものとして残額を精算する」と言う内容だった。

つまり、JR北海道は全便満席全区間分の大人運賃・料金を保証される、と言うもので、割引は別途在ったものの団体専用臨時列車では無く「貸切列車」のスタイルだった。団体専用臨時列車と貸切列車は違うのである。
本来は機関車と客車に関わる検査修繕費用と燃料・水の料金=運行経費を全額負担させているのであるから、日々の列車は座席の9割以下で20〜40%の割引とした費用でも鉄道会社は「儲け」が出る。むしろオレンジカード等の販売やその誘客による関連のきっぷの販売等も考慮すれば2両でも充分な筈だし、JR北海道が販売する1両80席分は最初から差し引くものである。

工藤は鉄文協の事務局長として、また企画マンとしては知識が豊富だったが、鉄道の運賃や旅客営業システムは全く無知だった。同時に窓口は「運輸部」「運転車両部」で、「営業」の専門では無い。「貸切」と「団体専用」の区別が付かなかったのであろう。
旅は長く遠く 肩の荷重く 時に堪えかねて 涙をふけば
胸の奥に熱く 何かが騒いだ あの日とめどなく あふれた夢さ
なつかしい人が 遥かな日々が 時の流れこえて ほら めぐる旅路さ


この項続く

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2011年11月13日

posted by たすけ at 21:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | お気に入りサイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すごいですね。
「思い込んだら・・・」の世界だね。

たすけさんは「書きテツ」?
Posted by しゃあ あずなぶる at 2011年11月14日 12:43
>しゃあさん
「思い込んだら・・・」のまだ続きがあることに驚きますよ。

私は、「知ったかぶりテツ」です(自爆)

PS.流山ポタ...日程合わせられずで、すみませんm(_ _)m
Posted by たすけ at 2011年11月15日 00:10
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