国府台断崖(鴻之台利根川風景)の謎

ちばらきチャンネル

国府台断崖 千葉県市川市国府台2〜3丁目

鴻之台とね川風景(広重)これは名所江戸百景を描いた広重の「鴻之台とね川風景」...つまりは現代の市川市国府台の江戸川の風景。

安藤広重or歌川広重は、本名と雅号(歌川派)の違いで、鴻之台or国府台も当て字の違いだけ。
さらに言えば国府台高校の生徒を「鴻陵生(こうりょうせい)」と呼ぶのも地元の伝統なので、さしたる違和感はないです。

私にとって、この川を太日川or利根川or江戸川と呼び分ける違和感。そして岸の沿道を消しちゃって、こんな絶壁ではあり得ないだろうという...国府台断崖の広重デフォルメ(誇張)に騙されちゃいけませんぜ!という抵抗感があります(笑)

う〜ん、どこかに広重が見た江戸末期の国府台付近の風景画がないかしら?

...と探していましたら。
超お宝サイトに出会いました♪


鴻之台公園より江戸川帰帆望む

こちらの写真は「鴻之台公園より江戸川帰帆望む」と題された絵葉書で、広重の絵とは逆アングルで撮影されていますが、帆船はほぼ同じ形をしています。

こんな江戸川の古い絵葉書委や軍事絵葉書を満載していらっしゃるのが、松戸市在住の道草亭ペンペン草さんの「表の家」で、この画像は同サイトの【江戸川の絵葉書】より掲載許可を頂いて掲載させて頂きましたm(_ _)m

道草亭ペンペン草さん...こんなハンドルネーム使っていらっしゃいますが、松戸の戸定邸を貸し切って結婚式を挙げられて、来賓に千葉県知事の森田健作氏が来ちゃうなんて...おいおい、どんだけ名家なんだよ!何がペンペン草なんだよ!とツッコミを入れたくなってしまう方です(笑)

さぞかし高貴な方なんだろうなぁ...と恐る恐るメールをお出ししたのですが、すごくフランクな方で、快く了解して頂ましてホントにありがとうございました(^o^)v
...って。実は松戸で老舗の八嶋商店主が高校部活同期なんです♪...という姑息な追伸文を入れたのはここだけの秘密です(笑)

「表の家」のコンテンツは実に充実しており、文体もとても読み易いです♪
まだ端折り読みの段階ですが、おそらく私、全コンテンツを読破しそうです^^;

さて、本題に戻ります。
広重の絵は私も大好きです。しかし芸術世界と現実の地勢は異なります。

江戸川より鴻之台を望む(明治・大正期?)
江戸川より国府台を望む(平成)

上(明治or大正時代?)と下(現代)の写真は少し、若干アングルが違いますが、注目点は国府台断崖の高さと断崖下の沿道です。広重の絵では、国府台断崖はオーバーハングで岸の沿道も省略されていますが、現在は広重没から150年ほど経っていますが、写真のような風景が当時も変わらぬ現実の「鴻之台とね川風景」だと思います。



『江戸川べりのわが里は、その名も清き流山』...流山小学校校歌
『ゆく水清き江戸川の、岸に名高き流山』...流山南部中校歌

唐突ですが子供の世界観は非常に狭いもので...『江戸川の代名詞と言えば流山』と思っていました。
流山には明治維新のどさくさに臨時に葛飾県・印旛県の県庁が置かれ、生家から100mほどしか離れていなかったものですから、私は千葉県の政治の中心で生まれたんだ!...とまで思っていました。ところが50歳を過ぎて自転車で市川市や佐倉市の史跡を巡り、歴史の厚みの違いに圧倒されました(苦笑)

小学4〜5年生の頃だったか初めて「鴻之台とね川風景」の絵を見た時「えっ?」と驚きました。
子供でも、流山・松戸・市川は江戸川べりということを理解していましたから
「なんで利根川??」と思った訳です。

江戸川は江戸時代に造られた人工河川であるということは小学校でも習いましたが、中学生となり。そうか!江戸川は太日川(ふといがわ)の流路を広げて整頓したものなんだ♪
...という思い込みで、現地を確認もせずに過ごしてしまいました。

ところが50歳を過ぎて、自転車で江戸川CRを走っていて「えっ?」とまたまた驚きます。
野田橋以北を走ってみて、CR(サイクリングロード)が台地と同じ高さです。
「なんで少し向こうの春日部・松伏の低地を流れずにわざわざここが流路になる??」
これは明らかに流路を広げたのではなく開削です。

そして、江戸川CR右岸を、松戸市柳原水閘を過ぎて進むと、冒頭の国府台断崖です。
「嘘だろ?」と呟いていました。
「多摩川みたいな急流ならまだしも、すぐ向こうに金町や小岩の低地があるのに、なんでわざわざ台地の縁を???」果たして太日川が自然にこの国府台断崖を造ったのか?

利根川と太日川

この簡略図は、江戸時代以前・以後の主な河川流路ですが、国府台付近の鐘ヶ淵(河川が鋭角に湾曲する部分)が、地勢からみて不自然です。今回、古東海道ルートの出発地で対岸の国府台を眺めて、初めてここを自転車で通った時の疑問がまた頭をもたげました。
そして「表の家」と同時に、その疑問を解決してくれた秀逸なサイトに出会いました♪

あ!ちなみに、今回はほとんど旧下総国を巡りましたので、カテゴリはちばらきチャンネルです^^;

この項続く。

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2011年08月16日

posted by たすけ at 21:20 | Comment(6) | TrackBack(0) | ちばらきチャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
面白いですね〜。

広重の絵は、里見公園から急坂を下りきったこの辺じゃないかと思っています。
http://blog-imgs-37.fc2.com/d/a/n/danchotei/IMG_3771.jpg

古写真の江戸川を見ても分かりますが、江戸川は、そもそも、大変に中洲の多い川で、明治初期の柴又界隈の地図を見ると、大きな中洲があって、柴又の名の語源が、「嶋叉(しままた)」であることが納得できます。

古写真や古地図を手がかりに、あのあたりを走るのも面白いですね。
Posted by 断腸亭 at 2011年08月18日 08:09
>断腸亭さん
私、上小岩の真光院から古東海道を走り始めて「え?ペダルが軽い」と緩やかな下り勾配を感じまして...
「あ!やっぱり?もしかして??」と思うところがありました。

結論は、次記事となりますが、あまりにマニアックなりそうなので、どうオチ(下げ)をつけようかと、算段しているところです(笑)

手前味噌ですが、面白い結末になりそうですので、ご期待くださいf(^_^;
Posted by たすけ at 2011年08月18日 10:06
現地を歩いて疑問をもって調べるというのはすばらしい事です。私そうやって歩いてみて気がついた事がいろいろありました。
応援いたします。
Posted by 道草亭ペンペン草 at 2011年08月18日 21:27
>道草亭ペンペン草さん
いえいえ、他人様の褌(画像・資料)を借用しての記事ばかりで
自分一人では何一つ書けない未熟者で、お恥ずかしい限りです。

でもインターネットの普及でこうした繋がり(情報の共有)が出来たことをとても嬉しく思っています。

PS.古絵葉書が骨董市で手に入ること、知りませんでした。
葛西神社の骨董市...今度行ってみたいと思います♪
たぶん、↑の断腸亭さんも興味津々と思われです^^
Posted by たすけ at 2011年08月18日 23:05
こんばんわ。
なんだか、地元への愛が満ち溢れた記事ですね。わたしなんぞは、つい27年前に市川に住み始めた人間ですが、たすけさんの歴史は長い。
最近関東平野を川や水路沿いに走るようになって、所々で古地図を観ます。関東に沢山の人が住むようになって、治水がきちんとなされるようになった様が、わかりますね。
Posted by kincyan at 2011年08月21日 20:35
>kincyanさん
いえいえ、寡聞浅学を省みず思いつきで書いているだけですので^^;
教員だと教科書の通りに教えないと入試に差し障りますが
素人趣味ではその箍が外れますので、もう言いたい放題です(笑)

上方に比べて当地は資料が少ないですよねぇ
下記は緻密なデータを積み上げていらっしゃる「かたばみさん」の受け売りなのですが...

家康の開拓時代となっても江戸初期では公式記録の制度がまだできておらず
お膝元の隅田堤築造の資料すら残っていない状況。
さらに明暦の大火に等によってわずかな記録も失われたのだろうと考えています。
貴重な資料である新編武蔵風土記も1800年代の編纂であり
現代の私たちが江戸末期の事象を書くのに等しいです。

なるほどなぁ...と思いました。

参考資料の出典先は考証をしっかりなさっていらっしゃいますが
私のブログ記事は、ほとんど妄想だけで成り立っていますので(苦笑)
流し読み程度になさっておいてください^^;
Posted by たすけ at 2011年08月21日 21:26
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