祝の島(ほうりのしま)と原発祈念日/千年先の未来が今の暮らしの続きにある

日記(言いたい放題)

千年先の未来が今の暮らしの続きにある
もうすぐ8月6日、9日の広島・長崎原爆記念日がやってきます。
記念とは後世に思い出として残しておくかたみ。 ということになりますが、原爆記念日や終戦記念日などに関しては、祈念日(=平和の願いがかなうように祈る) と改訂した方がいいんじゃないかなぁ...。

いずれ3月11日は東日本大震災記念日(祈念日)となると思います。
自然災害からの復興は数年単位で完遂でしょうが、人間(原発)が作ってしまった放射性物質は千年先の未来まで放射線を出し続ける。

以下、2011年7月28日衆議院厚生労働委員会にて児玉龍彦(参考人 東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)氏の発言より抜粋。
熱量からの計算では広島原爆の29.6個分に相当するものが漏出、ウラン換算では20個分のものが漏出していると換算されます。
原爆による放射能残存量が1年で、1000分の1になるのに対して、原発からの放射線汚染物は10分の1程度にしかならない。
福島原発の問題は、原爆数十個分に相当する量と、原爆汚染よりもずっと大量の残存物を放出したということが、まず考える前提になる。
鬼気迫る児玉龍彦先生の発言内容は下記動画をご参照ください。



今、中国政府が高速鉄道事故に関して情報統制を行っていることに、呆れ果てている国民が多いと思いますが...日本の原発事故だって海外からみれば、日本政府はなんと無責任で隠蔽体質の国なんだろうと思われているにちがいない。インターネットの普及でこれほど情報化が進んだ現代で、都合の悪いことを隠蔽や矮小化し、国民に不安と不満を与えているということでは中国政府も日本政府も五十歩百歩だ。

40年以上も原発廃絶を唱えている小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の言葉を借りれば...
『原発はトイレのないマンション』つまり、自分で処理できない汚物(汚染物質)を出し続ける施設なんか造ってはいけない。こんな当たり前のロジックや、熊取六人衆の主張が原発推進の国策の中でかき消され、やらせ集会や、やらせ報道にまみれていたことを、日本国民はあらためて認識しなくては。

祝の島(ほうりのしま)

祝の島(ほうりのしま)とは、山口県上関町祝島。 この島での約30年にわたる反原発運動ドキュメンタリーを映画にしたのが、纐纈あや(はなぶさ あや)監督。
瀬戸内海に浮かぶ祝島は、台風が直撃することも多く、岩だらけの土地には確保できる真水も限られ、人が暮らしやすい環境とは決していえない。その中で人々は、海からもたらされる豊穣な恵みに支えられ、岩山を開墾し、暮らしを営んできた。そして互いに助け合い、分かちあう共同体としての結びつきが育まれた。人間の営みが自然の循環の一部であることが、祝島でははっきりと見える。

1982年、島の対岸4kmに原子力発電所の建設計画が持ち上がった。「海と山さえあれば生きていける。だからわしらの代で海は売れん」という祝島の人々は、以来29年間反対を続けている。効率と利益を追い求める社会が生み出した原発。大きな時間の流れと共にある島の生活。原発予定地と祝島の集落は、海を挟んで向かい合っている。

千年先の未来が今の暮らしの続きにあると思うとき、私たちは何を選ぶのか。いのちをつなぐ暮らし。祝島にはそのヒントがたくさん詰まっている・・・。
この映画を知ったのは、静岡県の知人が『いい映画だったよ。たすけさんが、がんこ好きそうな映画だと思うよ』とわざわざ知らせてくれました。※.がんこ=とても・非常に 遠州方言

え?でも、ほとんど上映館限られているじゃん(T_T) DVDで観るしかないかなぁ...
祝(ほうり)の島 原発はいらない!命の海に生きる人々 [DVD] ←とりあえずアマゾンで予約しておきますねー!

纐纈を(はなぶさ)と読める大人は少ないだろうけど...
原発が安全なら、どうして都会に作らないの?
こんな小学生でもわかる疑問に答えられない「トイレのないマンション」はやはり造るべきではないだろう。

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2011年08月03日

posted by たすけ at 15:13 | 日記(言いたい放題) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

初石サンシャインゴルフでお祭り♪ スランプいろいろ

流山チャンネル

初石サンシャインゴルフ 千葉県流山市東初石1-74-3

私もゴルフに熱中していた頃は、初石サンシャインさんにずいぶんお世話になりました。初石サンシャインの良いところはなんといってもコースボールが打てるので、打感や飛距離が本番と同じに感覚になりますので、おすすめの練習場ですね♪

ゴルフはメンタルスポーツと良く言われますが...
「うへぇ〜....あそこだけは入れなくないなぁ・・・」なんてOBラインや池を意識して緊張して打つと、ほぼ7割の確率でボールがそっちに飛んでいきます。私ティーショット3連続OBなんて当たり前でした(苦笑)

人付き合いも似たようなところがあり....
「うへぇ〜...あの人苦手なんだよなぁ・・・」なんて意識して接するとたいていトラブルが発生するもので、肩の力を抜いて自然体で接すると、ごく普通に物事が進むものですよねぇ。

「んちゃ!」「ほよよ?」
といつもマイペースで自然体のお手本が、Dr.スランプアラレちゃん

きったぞ きたぞ アラレちゃん
キィーン キンキン キンキンキーン テケテケ テッテンテン
ピッピピピ プッペッポー ガッちゃんも 夢の爆弾 打ち上げろ
お日さまニッカニカ ブタさんホーホケキョ
み〜んな集まれ ペンギン村に どんなことが 起こるかな
それゆけ ハツイッシッシ お楽しみ♪

....ということで。
8月12日(金)に流山市初石にある初石サンシャインゴルフで、初石サンシャイン祭りが開催されます。....って。強引につなげちゃってごめんなさい(苦笑)

初石サンシャイン祭
↑↑画像クリックで拡大します↑↑
フード屋台が充実してますね♪近隣の方々は是非お子さん連れで遊びに行ってみては(^-^)
未来の石川遼くんがここ初石サンシャインゴルフから流山で育つといいですねぇ(^-^)

流山出身といえば...サンプラザ中野くん、流山初ライブ!!



やっぱり、お祭りにふさわしい曲としては、RUNNERでしょうかね?
私が個人的に好きな曲はリゾ・ラバで...ゴルフで大叩きしたあとのカラオケは、「全部嘘さ、そんなもんさ、今日のスコアは幻ぃ〜」と替え歌していたものです^^;

んなわけで、ゴルフ友と爆風スランプの話をしていて
「爆風スランプと言えばアラレちゃんもだよね?」と私。
「ん?・・・・ほよよ?」
「それは、爆風スランプじゃなくて、ドクタースランプでしょうよ!」(爆)

バンドに詳しいゴルフ友が爆風スランプについて、豆知識を教えてくれました^^;

東葛高校出身で早大時代に、パッパラー河合、デーモン小暮らとインディーズバンド、スーパースランプを結成していたサンプラザ中野。その後、爆風銃(BOP GUN)の江川ほーじん、ファンキー末吉とサンプラザ中野、パッパラー河合の4人が爆風スランプとして活動を開始した...と。
特に江川ほーじんは、チョッパーベース(スラップ奏法)として神の領域にあり。実はRUNNERという曲はスポーツの応援ソングとして作られたのではなく。バンドの活動方針に対して江川ほーじんが反発し脱退を決意。末吉の作った曲に、中野が辞めていく江川への想いを籠めて詞にしたのだ...と。

へぇ〜そうだったんだぁ・・・

ちなみに、パッパラー河合は熱烈な柏レイソルサポーターで現在、Jリーグ首位を走るレイソルにウッシッシとお祭り騒ぎだよ...とも教えてもらいました。

まぁ〜私の場合。ゴルフはずっとスーパースランプでして、ドラバー打てばドスライス・チーピンのお祭り騒ぎ(自爆)
今は年2〜3回ほどのおつきあいゴルフ程度なんですが、今はまったくの無欲で力を抜いて振りぬくので飛距離は出ませんが、曲がらなくなりました。やっぱりゴルフはメンタルなんだなぁ...と今更ながら実感しております(苦笑)

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2011年08月10日

posted by たすけ at 16:28 | Comment(7) | TrackBack(0) | 流山チャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

立石様と古代東海道

自転車(ポタリング)

立石様(たていしさま) 東京都葛飾区立石8-37-17

立石様葛飾区立石の地名の由来になった立石様(千葉県鋸山付近から運ばれた凝灰石)は、現在はなんのへんてつもない児童公園の中にありました。

立石様は、石棺の一部(蓋石?)を古代(奈良・平安時代)の官道(=古東海道)の道標として転用されていたと考えられています。まぁ、このあたりは湿地帯ですから盛土しても洪水で流されてしまうし、やっぱり大きな岩石がふさわしかったのでしょうね。

江戸時代には高さ60センチ以上もあったそうですが、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守り(盾石か?)として欠いて持つ人が現れたことや、地盤沈下などの結果、現在では地面から数センチの高さしかありませんでした。

...っていうか、案内板がなかったらただの小さな砂場にしか見えません^^;


立石様(東京都葛飾区)

8月13日に、実に半年ぶりにポタリングしました^^;
きっかけを与えて頂いたのが、断腸亭さんの「旧街道を辿る赤線地帯サイクリング〜向島老舗和菓子三昧」(8月13日)のお誘いだったのですが....さらに背中を押したのが、しゃああずなぶるさんの『参加します。ただ・・・。写真の「浴衣のお姉さん」などに、ボクだけモテちゃう事が恐縮です。』の一番乗り名乗りでした(笑)

児童公園にひっそり佇む立石様

断腸亭さんのお江戸ポタは毎回興味深いルートで、内容も盛りだくさんなので、今回もいくつかに分けて記事にしたいと思います。今回最初に
「え?なに?ナニ?こんなところに何があるの??」
と感動したのが、冒頭の立石様でした。だって旧中川ぞいから、いきなり路地に入り込んで、なんの変哲もない公園で自転車を止めたもんですから・・・。
NHKで、ブラタモリという番組があるのですが、私こういうなんのへんてつもない場所にさりげなくある史跡が大好きで、タモリさんなども立石様などは大好物だと思います(笑)

今回ポタルートは、先ず、古代東海道を走ってみよう!ということで。

古代東海道地図

こちらの地図は、街道歩き旅.comさん古代東海道の跡mapを拝借しましたm(_ _)m
我々は、江戸川右岸から市川国府台の国府跡方面を望んだ後、小岩の真言宗豊山派稲荷山真光院遍照寺から、現在は"上小岩遺跡通り"と名づけられている古代東海道をひたすら西進しました。

江戸の道といえば、近世以降(400年前)の地図しか頭にない私にとって、ひたすら真っ直ぐなこの古東海道は感動ものでした。今から千年も前の道が、ちゃんと残っているんですねー。
断腸亭さん、まさに恐れ入りやの鬼子母神でした(笑)

古代東海道(立石付近)

こちらの絵地図は、立石の真言宗豊山派南蔵院(熊野祠)付近の江戸時代の絵地図。奈良・平安時代とは多少は風景が違うかもしれませんが、古代東海道の道筋も旧中川の流路も、現在まで変わっていないことがわかる貴重な絵地図ですねー。
この絵地図の遠方(最上部)に見えるのは、市川国府台の高台の杜かしら?

墨堤通りと古代東海道

さて、この立石様に立ち寄った後、奥戸街道の大道橋←5番目の写真・四ツ木橋を経由して、墨堤(ぼくてい)通りにぶつかるまで西進したのですが、ここもなんのへんてつもないビルとビルに挟まれた路地のような道でした。
鐘ヶ淵駅前ではなんとも不自然に斜めに進む道だと思ったのですが...それは現在の道をメインに思ってしまう錯覚で、確かに地図で振り返ったら、スタート地点の小岩の真光院遍照寺(江戸川岸)から隅田川岸にぶつかるまで古代東海道はどこまでもまっすぐな道でした。

そして圧巻は...墨堤通りで古東海道(官道)の直進をあきらめるかと思いきや....
「我々はあくまで古代東海道を行くのだ!」
と、高層住宅(都営白鬚東アパート)建物内の古東海道を自転車で通り抜けた断腸亭さんのガイドに、とても感動(官道)したのでありました(笑)

この項続く。


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2011年08月14日

posted by たすけ at 21:11 | Comment(12) | TrackBack(0) | 自転車(ポタリング) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国府台断崖(鴻之台利根川風景)の謎

ちばらきチャンネル

国府台断崖 千葉県市川市国府台2〜3丁目

鴻之台とね川風景(広重)これは名所江戸百景を描いた広重の「鴻之台とね川風景」...つまりは現代の市川市国府台の江戸川の風景。

安藤広重or歌川広重は、本名と雅号(歌川派)の違いで、鴻之台or国府台も当て字の違いだけ。
さらに言えば国府台高校の生徒を「鴻陵生(こうりょうせい)」と呼ぶのも地元の伝統なので、さしたる違和感はないです。

私にとって、この川を太日川or利根川or江戸川と呼び分ける違和感。そして岸の沿道を消しちゃって、こんな絶壁ではあり得ないだろうという...国府台断崖の広重デフォルメ(誇張)に騙されちゃいけませんぜ!という抵抗感があります(笑)

う〜ん、どこかに広重が見た江戸末期の国府台付近の風景画がないかしら?

...と探していましたら。
超お宝サイトに出会いました♪


鴻之台公園より江戸川帰帆望む

こちらの写真は「鴻之台公園より江戸川帰帆望む」と題された絵葉書で、広重の絵とは逆アングルで撮影されていますが、帆船はほぼ同じ形をしています。

こんな江戸川の古い絵葉書委や軍事絵葉書を満載していらっしゃるのが、松戸市在住の道草亭ペンペン草さんの「表の家」で、この画像は同サイトの【江戸川の絵葉書】より掲載許可を頂いて掲載させて頂きましたm(_ _)m

道草亭ペンペン草さん...こんなハンドルネーム使っていらっしゃいますが、松戸の戸定邸を貸し切って結婚式を挙げられて、来賓に千葉県知事の森田健作氏が来ちゃうなんて...おいおい、どんだけ名家なんだよ!何がペンペン草なんだよ!とツッコミを入れたくなってしまう方です(笑)

さぞかし高貴な方なんだろうなぁ...と恐る恐るメールをお出ししたのですが、すごくフランクな方で、快く了解して頂ましてホントにありがとうございました(^o^)v
...って。実は松戸で老舗の八嶋商店主が高校部活同期なんです♪...という姑息な追伸文を入れたのはここだけの秘密です(笑)

「表の家」のコンテンツは実に充実しており、文体もとても読み易いです♪
まだ端折り読みの段階ですが、おそらく私、全コンテンツを読破しそうです^^;

さて、本題に戻ります。
広重の絵は私も大好きです。しかし芸術世界と現実の地勢は異なります。

江戸川より鴻之台を望む(明治・大正期?)
江戸川より国府台を望む(平成)

上(明治or大正時代?)と下(現代)の写真は少し、若干アングルが違いますが、注目点は国府台断崖の高さと断崖下の沿道です。広重の絵では、国府台断崖はオーバーハングで岸の沿道も省略されていますが、現在は広重没から150年ほど経っていますが、写真のような風景が当時も変わらぬ現実の「鴻之台とね川風景」だと思います。



『江戸川べりのわが里は、その名も清き流山』...流山小学校校歌
『ゆく水清き江戸川の、岸に名高き流山』...流山南部中校歌

唐突ですが子供の世界観は非常に狭いもので...『江戸川の代名詞と言えば流山』と思っていました。
流山には明治維新のどさくさに臨時に葛飾県・印旛県の県庁が置かれ、生家から100mほどしか離れていなかったものですから、私は千葉県の政治の中心で生まれたんだ!...とまで思っていました。ところが50歳を過ぎて自転車で市川市や佐倉市の史跡を巡り、歴史の厚みの違いに圧倒されました(苦笑)

小学4〜5年生の頃だったか初めて「鴻之台とね川風景」の絵を見た時「えっ?」と驚きました。
子供でも、流山・松戸・市川は江戸川べりということを理解していましたから
「なんで利根川??」と思った訳です。

江戸川は江戸時代に造られた人工河川であるということは小学校でも習いましたが、中学生となり。そうか!江戸川は太日川(ふといがわ)の流路を広げて整頓したものなんだ♪
...という思い込みで、現地を確認もせずに過ごしてしまいました。

ところが50歳を過ぎて、自転車で江戸川CRを走っていて「えっ?」とまたまた驚きます。
野田橋以北を走ってみて、CR(サイクリングロード)が台地と同じ高さです。
「なんで少し向こうの春日部・松伏の低地を流れずにわざわざここが流路になる??」
これは明らかに流路を広げたのではなく開削です。

そして、江戸川CR右岸を、松戸市柳原水閘を過ぎて進むと、冒頭の国府台断崖です。
「嘘だろ?」と呟いていました。
「多摩川みたいな急流ならまだしも、すぐ向こうに金町や小岩の低地があるのに、なんでわざわざ台地の縁を???」果たして太日川が自然にこの国府台断崖を造ったのか?

利根川と太日川

この簡略図は、江戸時代以前・以後の主な河川流路ですが、国府台付近の鐘ヶ淵(河川が鋭角に湾曲する部分)が、地勢からみて不自然です。今回、古東海道ルートの出発地で対岸の国府台を眺めて、初めてここを自転車で通った時の疑問がまた頭をもたげました。
そして「表の家」と同時に、その疑問を解決してくれた秀逸なサイトに出会いました♪

あ!ちなみに、今回はほとんど旧下総国を巡りましたので、カテゴリはちばらきチャンネルです^^;

この項続く。

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2011年08月16日

posted by たすけ at 21:20 | Comment(6) | TrackBack(0) | ちばらきチャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落語と太日川と更級日記 あつさとまつさと

ちばらきチャンネル

江戸落語で大川と言えば隅田川のことで、落語好きな方はご周知だと思います。江戸時代の隅田川は今よりずっと川幅が広く、かといって単調な一定の川幅でもなく、砂州もあったり狭い部分もあったりと、景観的にも美しかったので江戸庶民の観光スポットだったようです。

太日(太井)川想像図

東京湾へは大川(隅田川)よりも、もっと川幅の広い太井川(太日川)も流れていたはずなのですが、これについてが不明です。たぶん太日川は湿地帯(広大な葦原)を、幾筋にも分かれて、うねうね流れるような川であって、景観的にも面白みがないので、あまり絵も記録も残っていないのかなぁ...
まぁ、江戸初期においては防衛上の理由から、江戸府内に至る水上路を描いた地図はご法度であった...てな解説をどこかで読んだ記憶もありますが。

林家正蔵と三遊亭円楽さて、写真上の落語家さん...最近やっと林家正蔵と言えるようになりましたが、写真下の落語家さん...まだ三遊亭楽円楽と言うには違和感があります。

先代より落語が上手いとか下手とかではなく、脳に刻まれた顔の記憶がそう判断してしまう...ということですが。たぶんこのお二人を話題にするとき、まだ林家こぶ平、三遊亭楽太郎と言ったほうが多くの人に通じると思うのです。

平成になって天皇陛下と言われても、すぐ浮かぶのは昭和天皇の御顔であって、今上天皇をTVで観ても皇太子さまと言っていました。ところが、「表の家」の『皇太子さまと房総』を表題を見て逆に「現皇太子殿下(浩宮様)」の御顔が先に浮かんだことで、「あ!ようやく脳が平成の世に対応した」...と実感しました^^;

前記事で、広重が「鴻之台とね川風景」と題したのはそんな理由もありかな?と。
つまり、この版画が発表された時代の人々にとって、江戸川といっても馴染みがなく、旧呼称の利根川と冠した。
それでなくても、江戸時代は大規模な河川改修・変遷が多くて、河川名称が頻繁に変わりましたから、多くの人々に伝えやすいのは、当時いちばん伝えやすい名前にしたのだろうと思います。
実際、利根川東遷後もここを利根川と表記している文献が多いです。

え?ちょっと待って?じゃあ太日川はどこにあるの??

更科日記の行程地図

そのつとめて、そこを立ちて、下総の国と武蔵との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物など渡す。(その翌朝、そこを立って、下総の国と武蔵の国境になっている太日川という川の上流の「まつさと」の渡し場に泊って、夜通し、舟で少しずつ荷物を渡す。)

これは、更級日記(菅原孝標女=すがわらのたかすえのむすめ)の4日目の紀行(行程)文で、この「まつさと」は現在の松戸??なんせ千年も前のことで、作者本人も50歳を過ぎて12〜13歳の頃を回想して書いている訳ですから曖昧な部分が多いのですが。

引用させて頂いた更級日記の行程地図は、市川市にお住まいで松戸でインターネット園芸店ポトスを経営されている「松太夫さんの更級日記紀行」から拝借&加筆致しましたm(_ _)m 特に【菅原孝子、東海道を京へ上る】 のコンテンツは、日記を現代語で実に読み易く書かれていますので、古典が苦手な方でも更級日記入門には、超おすすめです♪

松太夫さんは、まつさと(松里)を、市川市内としていますが、私もまつさと=松戸ではないと思っています。上総国府(市原市)から出発し海岸線沿いに西進して、市川に到達したことは間違いないとは思いますが『夜通し、舟で少しずつ荷物を渡す』とすごい荷物だったようで、わざわざ松戸まで行くのは不自然だし、今回、官道が上小岩から伸びていることを断腸亭さんにご案内頂いて、ますますそう思いました。

...で。私にとって最大の関心事は、太日川が現在の江戸川かどうかなのです。
更級日記で菅原孝標女も通ったであろう、古代東海道のスタート時点で国府台方向を見た時に
「平安時代にここに大きな流路はないだろうし広重の絵のような断崖はあり得ない。」

1)下総国府(国庁)へ上がる道の省略はいいけどいくらなんでも傾斜が急すぎる。
2)すぐそばに上小岩遺跡(古墳)があるとすれば、大河がここにあるのは不自然。
3)たぶん戦国時代(国府台合戦)までに、斜面林下のハケを拡充して掘割とした。

要は、国府台断崖下の流路は鎌倉〜戦国時代に造られたもので、更級日記の時代はハケの道の小川程度か、せいぜい反対側にあるじゅん菜池程度の小沼であり、江戸時代にそこを江戸川の流れにつなげたのであろう。...と推測いたしました。

国府台直下に大河がなかったと仮定すると
『太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて』の部分の謎ですが...

1)太井川(太日川)は、現代より西寄りで中川に近いあたりをうねうねと流れていて。
2)荷物運搬は川の流れも利用し 上流の船着き場→下流の船着き場 が原則。
3)菅原孝子ちゃんが泊まったのは太日川船着き場(上流位置)という意味。
4)乳母が居たのは官道(古東海道)脇の自然堤防上の集落(現京成小岩駅近辺?)

ではないかなぁ・・・どこかにそんな確証が持てるサイトないかなぁ...
と探していましたら。もの凄い詳細なサイトがありました♪

"かたばみさん"が運営する古代で遊ぼ の中の 江戸川は下流域も人工河川です。
もの凄い詳細で専門的(マニアック)ですので、ご興味のない方はスルーしてくださいf(^_^;
ただ、文章は飛ばしても利根川東遷概史の示されている地図を上からざっと見るだけでも、河川変遷の様子がよくわかりますよ♪

...って。それではあまりにも手抜きのご紹介になってしまうのでf(^_^;

利根川と太日川(太井川)

この地図は、上記「江戸川は下流域も人工河川」のコンテンツから抜粋させて頂きましたm(_ _)m 画像サイズの都合で、全部は網羅できなかったのですが、8月13日に断腸亭さんにご案内頂いた範囲を抜粋しています。地図中の古奥州道?が古東海道です。我々は当日この直線を走りました。
そして...なんと!?当日ご参加の皆様!!

古代東海道とまつさとの渡し

猛暑の中、我々がガリガリ君休憩をしたこのコンビニあたりが、かつて太日川があったところで、更級日記の「まつさとの渡し」と推測されるのですよ!
まぁ話半分としても、その奇遇さに嬉しくなっちゃいますよねf(^_^;

迎え盆、ミンミン蝉に見送られ、水元を立ちて、古東海道いふが道の途、あつさとまらず輪とめにて、ひとときがつがつ氷など食らふをのこら。...ってところでしょうか?(笑)

ところで更級日記の更級とは?
作者の夫の任地が信濃の国の更級であり、そこには姨捨山があります。また更級日記の終わり近くに「月もいでて闇に暮れたる姨捨(をばすて)に何とて今宵たづね来つらむ」とあり「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集)に因すると言われています。つまりは、作者自身を「をばすて」と観じ、その縁をふくんで『さらしな』としたのではないかというが通説です。

断腸亭さんのブログによくコメントを寄せられている、相子老婆的山南海北的話ブログ主の相子さん。傘寿を迎えられて、なお正確な記憶力。そして平明な文体、含蓄ある内容に「これぞまさしく、現代の更級日記だ!」と密かに愛読させて頂いているのはここだけの秘密です(笑)

ご企画頂いた...断腸亭さん お見送り頂いた...ミンミンさん
ご一緒頂いた...しゃあさん、横山さん、joypapaさん、kaccinさん、TCR-Nさん、bunaibuさん
ジャスの紳さん  
資料ご提供頂いた...道草亭ペンペン草様、松太夫様、かたばみ様
時々立ち寄ってくださる...相子様

皆々様に多謝でございますm(_ _)m

次回は水路を廻るポタ企画とのことで、楽しみにしております♪
あおと...もとい...おあとがよろしいようで...この項 了。

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2011年08月18日

posted by たすけ at 17:57 | Comment(6) | TrackBack(0) | ちばらきチャンネル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

30年越しの富士山初登山 長野覺先生の思い出

昭和50年代の追憶

30年前の富士初登山...って。結局私が富士山に登ったのは1981年(昭和56)の1回だけなんですけどね^^; 長野覺先生とは、現日本山岳修験学会顧問で私の大学時代の恩師です。

長野覺ゼミ富士登山1981年
1981年_富士山初登頂

この写真は、長野先生の山頂到着をゼミ学生全員が万歳で迎えている写真なのですが、私ともう一人が先生をサポートする最後尾だった筈なのに、私も万歳で迎えているということは...
「先生!記念写真撮りますから、ちょっとだけそこに立っていてくださいませんか?」
...と。お願いしたに違いないと思います(笑)

かつて、家内と娘に「富士山は、一度も登らないバカ、二度登るバカ」なんだから、日本人なら一度は登らないとネ♪その練習にと娘が小学生の頃に日光登山を結婚記念日に家族3人で決行したのですが、天気は良かったし、紅葉もばっちりでせいぜい4時間程度の山歩きだったのですが...
「もう嫌っ!絶対、山なんか登らない!」...(-_-;)

ところがどういう訳だか、私が1981年(昭和56)に富士山に登ってから30年後の今日。
娘が大学の友人4人で、初の富士山登山に向かいました。う〜ん天候大丈夫かなぁ・・・

いわゆる「山ガール」ブームの影響なんでしょうが、山嫌いだった家内まで
娘の登山用品を買い揃えるから越谷レイクタウンのアウトレットに連れて行け!...と。
「これがいいわねぇ...いや、こっちがかわいいかもぉ〜♪」...って。
ったくぅ...なんで女は夫・父の誘いに乗らず、ブームに乗せられるのだ...(-_-;)

ま、という訳で、こちらの記事の続きで30年前のゼミ合宿(地理学教室)の回想なんですが、なにせ30年前なので、記憶がかなり曖昧です。

前日に勝沼の扇状地、忍野八海の湧水を視察していますので、登山口は山梨県側の吉田口。北口本宮冨士浅間神社からだったと思います。道中富士講や修験道について先生にご講義頂きながら登ったような...う〜ん違ったかなぁ。。。

1981_30年前の富士山山小屋

地理学ゼミの登山ですので目的は富士山頂にある気象庁富士山測候所(現在はNPO富士山測候所を活用する会が運用)の訪問です。なので、ご来光は8合目の山小屋だったのですが、写真でみる限りかなりの霧ですよねぇ...見えなかったのかな...。実は覚えている風景は、測候所内部とお鉢巡りで眼下に見えた富士五湖・甲府盆地と大砂走りくらいで、あんまり覚えていないんですよねぇ。

1981_長野覚先生と富士山に登る

山小屋を出る頃には天候は回復していたのですが、海側(静岡側)の景色の記憶が全く残っていません。そちらは雲が広がっていたのかも。
さて、長野覚先生は1928年生れでいらっしゃったので私とちょうど30歳違い。そう考えるとこの写真に写っている先生は、今の私の年齢(53歳)だったんですね。

先生へはゼミ論も卒論もいい加減なレポートで提出してしまって、ほんとに恐縮しています。卒論なんか、完成しないまま提出期限日を迎えてしまって、後日必ず完成させますので、なんとか卒業単位を下さい!m(_ _)m とお願いした私です(苦笑)

...で、約束通り卒業後に完成論文をご自宅に持っていったら、優しい眼差しで「よく頑張りましたね」とおっしゃって頂いた一言が今でも忘れられません。しばらくは年賀状もお送りしていたのですが、いつの間にかそれも途絶えてしまいました。
今記事を書くにあたり、元気にしていらっしゃるのかなぁ...と"長野覺"で検索したら。

平成23年9月23日(金)秋分の日
福岡県 添田町制100周年記念 「ふる里再発見」英彦山・日田を語るシンポジウム
●第一部 基調講演  講師 長野 覺  演題「英彦山と広瀬淡窓について」


という記事を発見!うわ〜!先生元気でご活躍されているんだぁ♪と感激しております(^-^) 福岡県添田町が先生の故郷だったのですねー。私も30年後、なにか故郷に恩返しできているかしら?

日本最高地点にて富士山測候所の方と共に

日本最高地点で、長野覚先生と共に。長野先生はいつも笑顔を絶やさない柔和な先生でした。
比較的軽装に見える右端のお三方が、富士山測候所の職員(気象庁)の方々です。
30年前は実に下らない質問を致しまして誠に申し訳ありませんでしたm(_ _)m
どれだけ下衆な質問をしたかというのは、とてもブログに書けません(苦笑)

1981_ゼミ合宿最終日山中湖

下山後は、同ゼミ同期生のご両親が経営する山中湖畔の旅館で打ち上げがありましたが...ゴメン!名前覚えていないんです。その同期生も旅館の名前も同ゼミ紅三点のマドンナ3人娘の名前も^^;
でも、なぜ女子3名だったということを憶えているかと言えば・・・
山小屋の規則は1枚布団に2人づつ寝ることがルールなんです。だから女子1人の布団と一緒になるのは誰???と男子学生はもう小屋に到着してからワクワクドキドキ(笑)
...で、結局「それは先生に!」と女子が決めたのですがね(^^;

今では、山ガールのブームで個室の寝室も用意している山小屋もあるそうですが、1枚布団に2人づつという山小屋ルールはそうそうは変わらないでしょうね。なので娘から富士山に登ると聞いた時に、真っ先に確認したのは女子は奇数か?偶数か?でした(笑)
*帰宅後の娘談:今回お世話になった山小屋は1人づつシェラフ(寝袋)支給+布団だったそうです。

たまたま、私と娘の30年越しの富士初登山を記事に致しましたが...どうぞ本日初めて富士山に登る"にわか山ガール"のマドンナ4人娘が無事に帰還することを祈っております。

PS. 8/22 09:30 娘より下山報告:風雨強く頂上到達ならず、8合目より少し上の山小屋までにて断念。
   あらら、残念でした。ではまたさらに30年越しで今後は孫が登るようになるのかな^^;?


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2011年08月21日

posted by たすけ at 02:14 | Comment(10) | TrackBack(0) | 昭和50年代の追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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